蔣介石
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人物
- 第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米諸国や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は猛烈な反共主義者に転向し、冷戦時代からは世界反共連盟を台北に設立して国際的な反共運動を主導した。日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先するほどであり[125]、西安事件の際も第一次国共合作時代の蔣介石を知る周恩来に説得されるまでの徹底的な反共ぶりに張学良も困惑していた[126]。
- スターリンは蔣介石を高く評価していたとされ[127]、西安事件の際に中国共産党は蔣介石の処刑を主張するも日本に勝利するためには蔣介石の力が必要と考えていたスターリンは許可しなかったとされる[128]。蔣介石の息子である蔣経国は、実質的な人質としてモスクワへ留学している。
- 辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり[129]、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害を行なった。その後も青幇の麻薬資金が蔣介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蔣介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。
- 戦後、台湾を訪れた蔣介石は日月潭の風景を特に気に入っており、別荘を建てて26年の間で100回以上もこの地を訪れ、また湖畔に住む先住民サオ族の伝統舞踊を好み援助を惜しまなかった。だが、舞踏団を国共内戦での兵士の慰問に派遣したり、現地人の一人毛信孝を「酋長」と称して宣伝の対象にする(本来、サオ族に酋長の伝統はない)など、本来の風習とはかけ離れたものであった。また当初、儀式の中で現地の人間が洋服を着ているのを見て、「なぜ蛮族が服を着ているのか」と尋ね、以降、蔣介石の前で儀式を行う際は伝統衣装で行うよう定められた。現地住民の一人はその時のことを回想し「蔣介石は心が曲がっているとしか思えない」と語っている[130]。
蔣介石と個人崇拝
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国民党政権下、天安門に掲げられた蔣介石の肖像(1945年12月3日)
北伐後、国民政府と自身の権力を確固たるものにするべく、蔣介石は自身への個人崇拝を目的とするプロパガンダ活動を徹底的に行った。紫禁城の天安門をはじめ[131]、公共の場から自宅まで至る所に蔣介石の肖像画が飾られており[132][133][134]、台湾でも近年までそうしたプロパガンダ活動が根強く残っていた。こうしたプロパガンダの中では、特に前述の質素な私生活が強調され、他の軍高官らとの差別化をはかった[135] 。
また、国内のムスリムに対しては蔣介石の権力を正当化させるように向けた内容のクルアーンやハディースを出版した[136] 。ムスリムであった軍高官の馬麟は、インタビューにて蔣介石に対し「高い敬愛と揺ぎない忠誠心を持っている」と語っている[137]。
注釈
出典
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