葛飾北斎 概説

葛飾北斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 09:44 UTC 版)

概説

代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。安永8年(1779年)から嘉永2年(1849年)までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した[1]。その画業分野も版画(摺物)のほか、肉筆浮世絵黄表紙読本狂歌本絵手本春画など多岐に渡った。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、西洋由来の絵画技術にも大いに興味を示し、銅版画ガラス絵油絵などの描法を研究し試みた[2]。北斎の画業は欧州へと波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼした[3]

生涯

幼年期

北斎の出自を伝える確たる資料は見つかっておらず、自身が85歳の時に制作した肉筆画『大黒天図』の落款にある「宝暦庚辰年九月甲子ノ出生」から、生年月日は宝暦10年9月23日(1760年10月31日)とされている[4]。家系については川村氏または幕府御用であった鏡師の中島伊勢の子とされる場合や、川村の子として生まれ、4歳のころに中島伊勢の養子となったとする説[注釈 1]が一般的だが、確たる資料は発見されておらず、確定していない[4][6][注釈 2]。川村家については寛政10年(1798年)ごろに作成されたとされる「本所中絵図」内の南割下水近くにその名の家が2軒確認できるが、これらの家と北斎との関係性については明らかとなっていない[7]

また、母親については小林平八郎を曾祖父に持つ家系だったという説がある[7]。出生地は式亭三馬が「本所の産」としていることから、武蔵国本所割下水の傍[注釈 3](現在の東京都墨田区)であるとする説が有力である[4]。幼名に関しても複数の通説があり、時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある[4]。飯島虚心の『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしている[5][9]

北斎は『富嶽百景』や『画本彩色通』の跋文で、6歳頃から好んで絵を描いていたと回顧しており、少年期は貸本屋の小僧として働いていたとされるが[10][5]、『葛飾北斎伝』を校注した鈴木重三は、貸本屋で働いていたという説について出所が不明であると補記している[9]。また、14、15歳から19歳ごろまでは木版画の版下彫りを生業としていたと、石塚豊芥子が収集した雲中舎山蝶の『楽女格子』(1775年刊行)の識語に記されている[10]。その後、安永7年(1778年)には勝川派の頭領である浮世絵師勝川春章に師事し、絵師として活動を始めた[11]。しかし、当時の勝川派は浮世絵界における一大勢力であり、一介の版下彫りであった北斎がどのように春章と知り合い、師事するに至ったのかについては明確になっていない[12]

処女作のひとつとされる春朗時代の錦絵『四代目岩井半四郎 かしく』(1779年)

春朗時代

北斎が画界に登場するのは、春章に師事した翌年の1779年からで、寛政6年(1794年)までのおよそ15年間を勝川派の絵師として活動した[13]。この間に家庭を持ち[注釈 4]、子を設けたとされ、後に浮世絵師となる娘のお栄(葛飾応為)もこの時期に誕生しているとする説もある[15][注釈 5]。従来の研究者の間では北斎の20歳から35歳までのこの期間は「春朗時代」と呼ばれ、春章の様式を踏襲する没個性的で地味な期間であったとみなされていた[13]。こうした傾向について永田は2017年に出版した自著において、「近年の研究によりこの年代の絵師としては多作かつ多彩な内容であったと評価が改められつつある」と指摘している[16]

一般的に北斎の処女作として知られているのは吉原細見の『金濃町』(鱗形屋版)に寄せた挿図や、細判役者絵『かしく岩井半四郎』を始めとした役者絵3点であり、勝川春朗の名でこれらを描いた[13]。北斎について研究している永田生慈はこの画号について、春章の春の字と、別号の旭朗井の朗の字を与えられるという待遇は、それなりに将来が嘱望されていたのではないかと分析している[13]。ただし、寛政5年(1793年)には叢春朗[注釈 6]に画姓が変化しており、この時点で勝川派を離脱していた可能性も指摘されている[18]

春朗として手掛けた作品としては役者似顔絵、美人風俗、日本と中国の子供、動植物、金太郎、信仰画、和漢武者、伝説古典、名所絵、相撲などを題材とした浮世絵版画、黄表紙芝居絵本洒落本咄本談義本句集狂歌本の挿絵など多種多様なものを手掛けたことが確認されている[19]

春朗時代の画風について、春章に師事してから天明元年(1781年)ごろまでは習作期とも言え、人物表現などに粗やぎこちなさが目立つ[20]。その後の天明4年(1784年)ごろまでは勝川派の様式だけでなく北尾重政鳥居清長らの影響が見られるようになり、他派のスタイルをも受容しようとする研鑽の様子が窺える[21]。次の2年間は黄表紙の挿絵を中心に活動しており、作品によって完成度に大きな違いが見られた[21]。また、一時的に画号を群馬亭へと改めていることから、勝川派との問題が生じていた可能性も指摘されている[21][注釈 7]。天明7年(1787年)から寛政4年(1792年)までの期間は作品量が増加し、勝川派の様式を底に添えつつも新たな独自画風を確立した時期と言える[18]。そして春章が没した1793年以降は画号を叢春朗に改め、摺物や句集、狂歌本の挿絵など、これまでにない分野への進出が見られた[18]。確認されている中で春朗の落款が押されている最後の作品は、1794年8月の摺物『砧打図』である[22]。永田はこの年代を総じて「生涯で最も浮世絵師らしい作画活動を展開した年代」と位置付けている[22]

宗理時代

『二美人図』(1806年から1813年ごろ[23])「宗理風」と呼ばれる女性描写を確立させた。

寛政7年(1795年)から文化元年(1804年)頃までのおよそ9年間は「宗理時代」と呼ばれ、北斎独自の様式を確立させた年代と見なされている[24]。この間は百琳宗理北斎宗理宗理改北斎北斎時政不染居北斎画狂人北斎九々蜃北斎可候などの画号が用いられた[24]

どのように接触したかについては明らかとなっていないが[24]、北斎は寛政6年(1794年)の秋から冬にかけて琳派の領袖、俵屋宗理から宗理を襲名したと見られており、翌1795年にこの落款の使用が見られるようになった[22]。詳細は不明ではあるものの、叢春朗の活動期には既に宗理時代の萌芽と見られる作画傾向が確認できることから、この宗理襲名はある程度計画性のある出来事だったと考えられている[24]俵屋宗達によって創始された琳派は尾形光琳尾形乾山以降、沈滞の時を過ごしていたが、北斎が宗理を襲名する時代には俵屋宗理ら俵屋派一門の活動により、その勢いを取り戻しつつあった[24]。そして北斎が襲名した後は独自の様式を確立させて世評を得ることに成功し、目覚ましい活躍を見せた[24]。北斎は2年ほど宗理の名で活動した後に独立を果たし、寛政10年頃に北斎と改め、宗理の名は門人である宗二へと受け継がれたと大田南畝の『浮世絵類考』に記されている[25][26]

宗理を襲名していた期間には狂歌絵暦が流行していた背景も手伝って、高級な用紙で高度な彫りと摺りを駆使した狂歌本や狂歌摺物、絵暦が作品の中心となった[27]。一方で春朗時代に数多く制作していた浮世絵版画は見られなくなっており、永田はその理由について「宗理襲名にあたってのなんらかの取り決めがあったか、勝川派からのプレッシャー、あるいは北斎自身の遠慮があったのではないか」と推察している[28]。そして、独立を果たした寛政10年(1798年)以降に入ると、黄表紙の挿絵や浮世絵版画などの制作も確認できるようになった[28]。さらには最晩年まで取り組みが見られる肉筆画に傾注したのもこの時期からで、特に画狂人北斎を号した時期には夥しい数の肉筆画作品を描き上げた[29]

作風としては先に述べたように独特の様式を確立させるに至っており、楚々とした体躯で富士額に瓜実顔の画貌をした哀愁のある女性描写は「宗理型」あるいは「宗理風」と呼ばれ、大いに賞賛された[30]。また、様々な画題の注文を断ることなく即応し、複数の描法を混用させて斬新な作品を発表し続ける姿勢も、他の浮世絵師とは異なった北斎独自の魅力として世評を得ていたと見られている[30]

この期間における北斎の平素の生活ぶりを示す資料はほとんど確認できないが、大田南畝の私的日記に親交を伺わせる記述が見られる他、朝岡興禎の『古画備考』に寛政10年(1798年)ごろの話としてオランダのカピタンが北斎の絵を求めたことで、支払いを巡ってひと悶着があったという逸話がのこされている[31]。また、文化元年(1804年)には江戸の護国寺において百二十畳あまりの巨大な達磨半身像を揮毫したことが斎藤月岑の『武江年表』や大田南畝の『一話一言』に記されており、注目度の高い催事だったことがうかがえる[32]

葛飾北斎時代

曲亭馬琴椿説弓張月』(1807年)での北斎による挿絵。

北斎は文化2年(1805年)から文化6年(1809年)にかけて葛飾北斎と号した[33][34]。この頃に入ると宗理風の様式は姿を潜め、漢画の影響を強く受けた豪快で大胆な画風へと変化している[33]。こうした変化は江戸の流行が狂歌から読本へと移り変わり、その挿絵制作に注力し始めたためと考えられている[33]。北斎の携わった読本で最も古いものは1803年に刊行された流霞窓広住の『蜑捨草』だが、本格的な読本制作の開始は1805年からで、曲亭馬琴と提携して数多くの作品を作り上げた[35]。読本の挿絵は黄表紙の挿絵と異なり、複雑な内容に対して墨と薄墨で適切な場面描写を行う必要があり、絵師には高い技術や深い知識が要求された[36]。北斎の発想力は他の絵師の追随を許さず、読本の隆盛に大きく貢献したとされる[37]。また、真剣に向き合うあまり、挿絵の内容で馬琴と口論となり、後年には両者の間で確執が生じたと伝えられている[37]。また、名所絵として東海道五十三次をテーマとした作品や、『風流東部八景』『新板近江八景』などの鳥瞰での景観描写を試みた作品などが発表された[38]。その他、『日本堤田中見之図』などの洋風風景版画と呼ばれる一連の作品は透視画法を用いて明暗を強く意識した西洋絵画を髣髴とさせる作りになっている[39]。現存する数は少ないながら鳥羽絵組上絵の制作にも携わっていたことが確認されており、様々な分野に手を広げていたことが窺える[39]。宗理時代に引き続いて肉筆画の制作も行われており、美人画の他、動植物や古典を題材とした作品も増加しており、北斎へ注文する客層の広がりを示している[40]。なお、これまで借家暮らして所在を転々としていた北斎は、文化5年(1808年)8月に生涯唯一となる新宅を本所亀沢町に構えたが、翌年には両国の借家へと転居し、以降は終生借家または居候の生活を送っている[41]

戴斗時代

絵画の世界に多大な影響を与えた絵手本北斎漫画』(1814年初編刊行)

文化7年(1810年)に上梓した北斎としては初の木版絵手本『己痴羣夢多字画尽』に戴斗の号が使用され、以降文政2年(1819年)まで用いられた[42]。この頃から絵手本の制作に力を入れて取り組むようになり、その傾向は最晩年まで続いた[42]。この要因について永田は「門人の増加に伴い、その都度肉筆の手本を描き与える煩雑さから解放されるため」「直接の門人以外の私淑者にも北斎の画風を普及させる意図があったため」「各分野の職人たちの図案集として版本としたため」という3つの理由を推察している[43]。また、国内外に多大な影響を与えた絵手本『北斎漫画』の初編が刊行されたのもこの年代である[44]。読本挿絵の仕事がひと段落した北斎は文化9年(1812年)ごろに関西方面へ旅行に出かけたと言われており、秋ごろに名古屋の門人牧墨僊宅へ逗留し、三百余図の版下絵を制作した[45]。絵手本『北斎漫画』の初編はこの時描いた版下絵が元となっている[45]。文化14年(1817年)ごろには再度関西方面へ赴いたようだが、詳細な足跡については明らかになっていない[46]。しかし、同年に文化元年に行った催事同様、西掛所境内(本願寺名古屋別院)で百二十畳の大達磨揮毫を行ったという記録が残されており、刊行中だった『北斎漫画』の販促として大きく寄与したものと考えられている[47]

絵手本以外の分野では本格的な鳥瞰図の制作が挙げられる[48]。鳥観図は北尾政美が制作する作品が大きな人気を博していたが、これの後を追うように『東海道名所一覧』『木曽路名所一覧』といった作品を発表した[49]。肉筆画の分野では西洋画法を追及した試行作品が数多く残されており、線での表現を避けつつ、面で質感を表現しようとした『なまこ図』や輪郭線を排して明暗のみで表現した『生首図』などはその代表と言える[50]。一般的に戴斗時代はどちらかというと地味な活動期だったと捉えられる向きもあるが、晩年まで続く絵手本分野への進出や、新たな画風確立のための重要な時期であったと言える[51]。また、この時代に入ると娘のお栄とともに川柳に傾倒し、『誹風柳多留』への投句や句選活動が確認できる[52]

為一時代

文政3年(1820年)から天保4年(1833年)までの長きに渡って北斎は為一の画号を用いて活動した[51]。為一時代は大きく前期と後期に分かれるが、代表作とも言える『冨嶽三十六景』を始めとした風景版画を制作した時代でもあり、北斎という画人を象徴する期間と言える[53]。為一時代の前期は文政末から天保初とされ、狂歌に関する摺物や挿絵に力が注がれた[53]。特に色紙判と呼ばれる正方形の作品は同一テーマで複数の画が描かれたものがセットで発表され、これまで以上に統一された完成度を持っていた[54]。代表的な作品としては『元禄歌仙貝合』(全36図)や『馬尽』(全30図)などがある[55]。一方で為一時代後期は天保初からの4年間とされ、生涯のうちでもっとも浮世絵版画に傾注した時期とされている[56]。『冨嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』などの風景画や『江戸八景』『景勝雪月花』などの名所絵、古典画、花鳥図など、わずか数年の期間で多岐に渡る浮世絵版画が制作された[57]。これらの作品の多くは西村屋与八森屋治兵衛版元から出版されており、北斎と両版元との深い関係が窺える[58]

私生活では柳川重信と離縁した長女のお美与が連れ帰った孫の悪行に苦しめられた時代だったようで、尻拭いに奔走し疲弊し苦悩していたことが書簡などから明らかになっている[59]。そこには「当春は、銭もなく、着物もなく、口を養うのみにて」とあり、肉体精神だけでなく生活も困窮していた様子が認められており、こうした状況が少なくとも天保5年(1834年)ごろまで続いたと見られている[60]

冨嶽三十六景 凱風快晴
『冨嶽三十六景 駿州江尻
『冨嶽三十六景 尾州不二見原

画狂老人卍時代

富嶽百景 鳥越の不二』天文方の観測施設として設けられた浅草天文台を描いている。

75歳となった天保5年(1834年)3月に、北斎は富士図の集大成とも言える『富嶽百景』を上梓した[61]。『富嶽百景』の巻末では画狂老人卍と号した北斎が初めて自跋を載せ、これまでの半生とこれからの決意を語った[62]。一般的にはこの跋文発表以降が北斎の最晩年とされている[63]天保の大飢饉の影響によって休業状態となった版元たちを救済するため、唐紙や半紙に絵を描き、画帳にして販売することで糊口を凌いだという逸話が『葛飾北斎伝』に紹介されている[64]。また、天保5年(1834年)の冬ごろから天保7年ごろまで、北斎はなんらかの逼迫した事情から相州浦賀に潜居していたと言われ、三浦屋八衛門を名乗って生活を送っていたとされる[65]。これについて『葛飾北斎伝』では実子が法を犯した可能性などいくつかの説を取り上げているが、明確にはなっていない[65]。その後、天保10年(1839年)に起きた火事によって当時暮らしていた達摩横丁の住居を焼け出され、家財道具や商売道具のほとんどを失ったという[66]。逃げ出す際に筆だけは握って飛び出したが、その他の道具を焼失したため、徳利を打ち砕いて底を筆洗とし、破片を絵皿として絵を描いたという逸話が『葛飾北斎伝』に紹介されている[67]。火災に遭った翌年には房総方面へ旅をしている記録が残されているが、目的については明らかになっていない[68]。天保15年(1844年)には信州の門人高井鴻山に乞われて小布施へと向かい、同地での天井絵制作に携わったと言われている[68]

最後の作品は嘉永2年(1849年)の『富士越龍図』とされる[69]。ただし、美術研究家の久保田一洋は、最晩年の1849年に描かれたとする北斎の絵については不審な点が多数あるとして疑義を呈している[70]。特に絶筆とされる『富士越龍図』は、他の北斎の絵に無い特徴を備えている他、筆致や絵の画面配置などが娘の葛飾応為が描いた『夜桜美人図』に一致するとして、作品の全部あるいはほとんどを応為が手掛けたのではないかと推察している[71]

北斎は嘉永2年(1849年)4月18日の暁七ツ時(午前4時ごろ)に浅草聖天町遍照院の境内にあった長屋にて息を引き取った[72]。『葛飾北斎伝』には「翁病に罹り、医師薬効あらず」「門人およひ旧友等来りて、看護日々怠りなし」とあるため、病や事故などによる急死ではなく、老衰により往生したと見られる[73]。娘のお栄によって葬儀が直ちに執り行われ、遺体は浅草の浄土宗誓教寺にて葬られた[74]

年表

北斎出生地割下水の側を流れる立川を描いた『冨嶽三十六景 本所立川』
  • 宝暦10年9月23日1760年10月31日)江戸の本所割下水(現・東京都墨田区の一角)にて生を受ける。幼名は時太郎で、のちに鉄蔵と称したとされる[9]。父親は川村某、倉田某、二代中島伊勢の長男など諸説がある[5]。『葛飾北斎伝』では次男または三男であったとしている[75]
  • 宝暦13年(1763年・4歳)この頃に幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったとする説もある[5]
  • 明和2年(1765年・6歳)後年の作品『富嶽百景』『画本彩色通』などによれば、この頃より好んで絵を描くようになった[5]
  • 安永2年(1773年・14歳)『葛飾北斎伝』ではこの年または翌年に彫師の修行を開始したとされている[9]
  • 安永4年(1775年・16歳)雲中舎山蝶作の洒落本『楽女格子』の文字彫りを行った[5]
  • 安永7年(1778年・19歳)浮世絵師・勝川春章の門下となり、春朗の画号を与えられる[13]
  • 安永8年(1779年・20歳) 処女作となる役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」「岩井半四郎 かしく」を発表する[5]
  • 天明5年(1786年・26歳)この年から翌年にかけて「群馬亭」の号を用いて作品を発表した[5]
  • 天明7年(1787年・28歳)『葛飾北斎伝』では小伝馬町にこの頃居住したとされる[76]
  • 寛政2年(1790年・31歳)翌年に発表した摺物『弓に的』に「葛飾住春朗画」とあり、この頃葛飾に転居したとされる[5]
  • 寛政5年(1793年・34歳)『葛飾北斎伝』では隠れて他家の画法を学んでいたことを咎められ、本年または翌年に勝川派を破門されたとするが、異論も指摘されている[5][77]
  • 寛政6年(1794年・35歳)2代目俵屋宗理を襲名したと見られ、翌年より落款の使用が見られるようになる[22]
  • 寛政7年(1795年・36歳)大田南畝の『浮世絵類考』に記述された情報より、本年または翌年に浅草の第六天神脇町に転居したと見られる[5]
  • 寛政10年(1798年・39歳)本年または寛政12年に本所林町三丁目にあった甚兵衛の店に転居したとされる[5]長崎屋に滞在していたカピタン(オランダ商館長)より絵巻の制作依頼を受けたと朝岡興禎の『古画備考』に記される[5]。『浮世絵類考』では、宗理の号を琳斎宗二に譲り、「北斎辰政」を号したとしている[25]
  • 享和2年(1802年・43歳)式亭三馬が刊行した『稗史憶説年代記』にて、春朗から北斎辰政までの画風解説がなされる[5]
  • 享和3年(1803年・44歳)この年の3月15日、大田南畝、烏亭焉馬らより亀沢町の竹垣氏別荘に招かれ、席画(即席で絵を描く宴席)が催されたことが大田南畝の日記『細推物理』に記されている[5]
北斎が大達磨を描く様子(文化14年ごろ高力種信『北斎大画即書細図』に描かれたもの)[78]
  • 文化元年(1804年・45歳)江戸の音羽護国寺にて、120畳超の大達磨半身像を描き上げたことが大田南畝の随筆『一話一言』に記されている[79]
  • 文化2年(1805年・46歳)「九々蜃」に改号して活動する[5]
  • 文化3年(1806年・47歳)春ごろから曲亭馬琴宅に寄宿した後、6月ごろより木更津へ旅に出る。水野清兵衛宅に逗留し、『唐仙人の楽遊』という襖絵を描いた[5]
  • 文化5年(1808年・49歳)柳亭種彦の日記に北斎の名が出てくるようになり、交流が持たれたと推察されている[5]。8月24日に亀沢町に居を構え、書画会が催された[5]
  • 文化6年(1809年・50歳)本所両国橋近辺に転居したことが『阥阦妹脊山』の奥付に記される[5]
  • 文化7年(1810年・51歳)北斎の絵手本『己痴羣夢多字画尽』の巻末広告より、「戴斗」の号を用いるようになったことが窺える[42]柳亭種彦の『勢田橋竜女本地』に葛飾に転居した旨が記される[5]
  • 文化8年(1811年・52歳)読本の挿絵を巡って馬琴と絶縁したとする説あり[37][80]
  • 文化9年(1812年・53歳)秋ごろより名古屋の門人牧墨僊の宅に逗留したと見られ、『北斎漫画』の下絵を制作した[81]。『葛飾北斎伝』にはその後、大阪、和州吉野、紀州、伊勢などへ旅に出たとしている[82]
北斎漫画』第十二編表紙。
  • 文化11年(1814年・55歳)『北斎漫画』の初編を発刊[44]
  • 文化12年(1815年・56歳)絵手本『踊独稽古』の序文に蛇山に居住している旨が記される[5]
  • 文化13年(1816年・57歳)『葛飾北斎伝』には「戴斗」の号を門人の亀屋喜三郎へ譲った旨が記されている[83]。一方『画狂北斎』には文政2年(1819年)ごろに斗円楼北泉へ譲ったとしている[5]
  • 文化14年(1817年・58歳) 『葛飾北斎伝』には春頃、名古屋に滞在していたとされ、10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く[84]。また、本年末頃に大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行したと言われている[5]
  • 文政3年(1820年・61歳)摺物『碁盤人形の図』などに「為一」の落款使用が見られるようになる[5]
  • 文政4年(1821年・62歳)『誓教寺過去帳』によれば11月13日に娘が死去したとされている。これは四女の阿猶と見られる[5]
  • 文政5年(1822年・63歳)春頃より堤等琳宅に寄宿したと『北斎骨法婦人集』に記される[5]。『葛飾北斎伝』には長女と門人柳川重信が離縁したとされている[5]。「画狂老人卍」の号を用いて『富嶽百景』を手がける[85]
  • 文政6年(1823年・64歳)川柳の号に「卍」が見られるようになる[5]
富士越龍図
肉筆画(絹本着色)。嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。「正月辰ノ日」は1月11日か1月23日とされ、確認されている作品のうち、最後に制作された一点とみられている[69][注釈 8]
  • 文政10年(1827年・68歳)『葛飾北斎伝』には文政末年に中風を患うが、柚子を原料とした自製薬で回復したとしている[87]
  • 文政11年(1828年・69歳)川柳の号に「万字」が見られるようになる[5]。『誓教寺過去帳』によれば6月5日に妻と死別した[5]
  • 文政12年(1829年・70歳)北斎の孫にあたる柳川重信の子のしでかす悪行の尻拭いに奔走したことが『葛飾北斎伝』に記されている[5]
  • 文政13年(1830年・71歳)1月、放蕩の孫を柳川重信に引き渡すため、上州高崎より奥州へ赴いた後に浅草へ転居したことが『葛飾北斎伝』に記される[5]
  • 天保5年(1834年・75歳)相州浦賀に転居したとされ、本年までに転居回数が56回に及んでいることが『葛飾北斎伝』に記される[5]。これについては疑義も呈されていると校注で鈴木が指摘している[88]
  • 天保6年(1835年・76歳)絵本『絵本和漢誉』より相州、豆州へ旅したことが記される[5]
  • 天保7年(1836年・77歳)絵本『和漢絵本魁』の序文より3月頃に深川の万年橋近辺へ転居したことが記される[5]。『広益諸家人名録』には居所不定と記載されている[5]
  • 天保9年(1838年・79歳)『新編水滸画伝』に「病床ノ画」とした挿絵があり、何らかの病に掛かったと見られる[5]
  • 天保10年(1839年・80歳)『葛飾北斎伝』では本所石原片町(現在の墨田区横綱)と達摩横町(現在の墨田区東駒形)に転居し、人生で初めて火災に罹ったと記される[89]
  • 天保11年(1840年・81歳)『唐土名所之絵』より房総方面へ旅していたことが窺える[5]
  • 天保13年(1842年・83歳)本所亀沢町へ転居したと見られる[5]
  • 天保15年(1844年・85歳)2月頃に向島小梅村へ転居したと見られる。翌月、信州小布施へ向かったことが高井鴻山の『高井鴻山宛北斎書簡』に記されている。その後、斎藤月岑『増補浮世絵類考』に浅草寺前へ転居したと記される。また、本年の長寿者番付に北斎の名が掲載された[5]
  • 弘化3年(1846年・87歳)春頃に西両国へ転居したと見られ、その冬より病に罹ったと書簡に記されているのが確認される[5]
  • 弘化4年(1847年・88歳)「三浦屋八右衛門」と自称していた[5]。2月頃より田町一丁目に転居したと見られる[5]
  • 嘉永元年(1848年・89歳)浅草聖天町にある遍照院の境内へと転居したと『葛飾北斎伝』に記される[90]
  • 嘉永2年(1849年・90歳)春頃病床に伏し、娘のお栄に「老病なり。医すべからず」と伝える[90]4月18日1849年5月10日)死没[91]。死亡通知書には暁七ツ時(午前4時ごろ)と記されていたことが校注されている[91]

人物

『店の前』(1780年)に記された「北斎辰政」の落款。
西瓜図』(1839年)に記された「画狂老人卍翁筆齢八十」の落款。

名前について

北斎の実名について、一般的な通説では「中島鉄蔵」とされ、日本芸術文化振興会が提供する「文化デジタルライブラリー」では「本名:中島鉄蔵、後に三浦屋八右衛門」としており[92]、『山川 日本史小辞典 改訂新版』では「本姓は川村のち中島。俗称時太郎、のち鉄蔵。」と紹介している[2]。飯島虚心の『葛飾北斎伝』には「姓は藤原、名は為一」と画号とは別に記されており[93]、飯島が何故このような記載方式としたか判っていないが、浮世絵や民俗学の研究などを行っている諏訪春雄は、藤原姓について養子となった中島家の先祖の血統を指す姓なのではないかと推察している[94]。一方で浮世絵研究者の内田千鶴子は、誓教寺の墓碑名より川村氏が藤原秀郷の後裔を称していたようだと指摘している[95]佐藤道信は藤原姓を名乗り始めたのは晩年になってからであるとし、自らの芸術の正統性を誇示するためだったのではないかと指摘している[96]。美術評論家の瀬木慎一は自著の中で「北斎その人は川村氏を名乗ったことは一度もなく、中島もしくは藤原と署名している。この藤原は、当時の画家がしばしば用いた姓であるので、画家名と見てよく、したがって彼の本姓は中島であるはずである」としている[97]。いずれにせよ、飯島虚心の『葛飾北斎伝』を基とした後年研究者達の主張であり、永田は北斎の名前や家系について2000年に刊行した自著にて「現在のところ虚心の記述以外にそれを覆すような資料の存在はいまだ知られていない」としている[6]

幼名に関しては複数の通説があり、時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある[4]。飯島虚心の『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしている[5][9]

画号について

画号は頻繁に改号したことで知られており、多くの書籍で30回以上の改号が行われたと紹介されている[98]。使用した画号例として「勝川春朗」「勝春朗」「叢春朗」「群馬亭」「魚仏[注釈 9]」「菱川宗理[注釈 10]」「辰斎[注釈 11]」「辰政」「雷震」「雷信[注釈 12]」「雷斗」「戴斗」「北斎」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「卍翁」「卍老人」「不染居」「九々蜃」「白山人[注釈 13]」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている[101]。また、戯号として「時太郎」「可侯」「是和斎」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている[100]。実際の作品では落款の無いもの、「宗理改北斎画」「葛飾前北斎改戴斗画」など、改号前の画号と共に記した作品、「画狂老人北斎」「画狂老人卍翁筆」など複数の画号を組み合わせた作品、「齢七十二画狂老人卍筆」「八十七老卍筆」など年齢を加えた号など画号に用いた名称は様々に変化している[5]。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている[102]。また、春画を描く際は「紫色雁高」「鉄棒ぬらぬら」などといった画号を用いていたことが知られている[103]

現在広く知られる「北斎」は、宗理の号を譲った後に名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰(柳嶋法性寺)にちなんでいる[104][105]。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説[106]や、北斎の自己韜晦癖が影響しているとする説[107] もある。「北斎」の号も弟子の鈴木某[108]、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。

転居癖

『葛飾北斎伝』には狂言作家である四方梅彦の話として75歳までに56回の転居[89]、生涯に93回の転居を行ったと記載がある[109]。これを根拠として転居癖があったとされているが、具体的な数字に関して『葛飾北斎伝』には根拠が無く、信憑性に欠けるとの指摘もある[110]。同様に日に3度転居したという逸話に関しても、北斎の奇人さを補強するエピソードとして検証されることなく紹介される傾向にある[110]。ただし、北斎が転居をたびたび行っていたという事自体は当時から良く知られていたようで、曲亭馬琴の『曲亭来簡集』などでも取り上げられている[111]

度重なる転居の理由についても、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたという話や寺町百庵[注釈 14]に倣って百回の転居の後に死にたいという北斎の願望などが『葛飾北斎伝』に記されている[112]

臨終

娘のお栄が門人の北嶺に宛てた北斎の死亡通知書。

嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた[91]。『葛飾北斎伝』ではその時の様子が次のように伝えられている[113]

翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」といひ、暫くして更に謂て曰く、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と、言訖りて死す。 — 『葛飾北斎伝』より引用[113]

この日付でお栄が門人の北嶺に送付した死亡通知が現存しており、「四月十八日 深川下の橋北嶺様 栄拝 葬式明十九日朝四ツ時 卍儀病気の処 養生不相叶 今暁七ツ時に病死仕候 右申上度早々如此御座候 以上 四月十八日」と記されている[91]。これにより亡くなった時刻は午前4時頃とされている[74]

墓碑に刻まれた辞世の句は、

悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原[114]

人魂になって夏の野原をのびのび飛んでゆこう」というものであった[115]

また、戒名として「南総院奇誉北斎信士」が墓碑に刻まれており、誓教寺が所蔵する過去帖には「南牕院奇誉北斎居士」と記されている[114]

『八十三歳自画像』 天保10年(1842年)、北斎82歳(数え年83歳)のときの自画像。

家族

北斎には二度の結婚歴があり、それぞれの妻との間に一男二女[注釈 15]をもうけたと言われている[117]。先妻についての詳細は不明だが、後妻の名はこととされる[118]。どちらの妻とも死別とされ、文政11年(1828年)に最後の妻であることと死別して以降は三女のお栄と最期まで暮らした[119]

両親

北斎の父親については諸説あるが、飯島虚心が北斎の曾孫白井氏へ確認した際のやり取りが『葛飾北斎伝』に記されている[120]。これに拠れば川村家の子として生まれ、中島家へ養子となったとしている[120]。これが通説となり、幕府御用の鏡師である中島伊勢[注釈 16]の子あるいは養子とされているが、明確とされる根拠は無い[4]。浮世絵研究者の林美一は、1968年に「北斎の父は中島伊勢」と題した論文を発表し、北斎は川村家の実子であるとする論考が主流となっている状況に一石を投じた[122]。また、瀬木は北斎と親交のあった滝沢馬琴が所蔵する北斎から受け取ったという手紙にある「壮年その叔父御鏡師中島伊勢が養子になりしが、鏡造りのわざをせず、その子をもつて職を嗣せしが、その先だて身まかれり」という記述を支持して北斎の実父は中島伊勢の兄であるとの説を掲げている[123]

母親については吉良上野介の家臣であった小林平八郎の孫娘と言われており、北斎本人もそのように語っていたと『葛飾北斎伝』に記されている[124]。明治18年の『東洋絵画叢誌』には吉良上野介の孫にあたるとの記述も見られたが、飯島によって否定されている[125]

露木為一が描いた『北斎仮宅之図』。絵を描く北斎とそれを見る三女のお栄。

子供

長男は富之助と言い、鏡師を職としたことが『葛飾北斎伝』に記されている[126]。北斎の実家である中島家の職を継いだと見られるが[117]、放蕩無頼の性格で家には寄り付かず、早世したと言われており、没年も死因も明らかになっていない[127]

長女はお美与(阿美与)[注釈 17]という名で、1813年ごろに北斎の門人である柳川重信の元へ嫁いだが、関係は良好では無く、1822年頃に子を連れて実家へ戻ってきた後に死没したとされる[116]。孫にあたる遺児はしばらくの間北斎によって育てられていたが、悪童であり、手を焼いた北斎は重信へ子を引き渡している[127]。しかしながら1832年に重信が死去したため、再び北斎が面倒を見ることとなるが、大変な苦労をかけられていたという逸話が残されており、北斎物の物語の題材として取り扱われるほどであった[128]

次女はお鉄(阿鉄)[注釈 18]といい、絵師をしていたとされるが、嫁いだ後に夭折したとされる[116]。『葛飾北斎伝』では幕府御用達の某に嫁いだとされる[116]。一方、『続浮世絵類考』では、「他へ嫁ス、画工ニアラズ、早世」とあり、『葛飾北斎伝』の記述と異なっているため、詳細については分かっていない[116]

次男は幼名を多吉郎といい、御家人である加瀬氏に養子へ出された後、崎十郎と改められた[117]天守番あるいは御徒目付の職に就いたとされている[117]。俳諧を嗜み、椿岳庵木峨と号した[117]。崎十郎の孫にあたる人物によって北斎の墓が建てられたという寺僧の話が『葛飾北斎伝』に記されている[126]

三女はお栄[注釈 19]といい、葛飾応為として浮世絵師となった[117]。摘水軒記念文化振興財団が所蔵する『朝顔美人図』などを描いた「辰女[注釈 20]と呼ばれる絵師が存在するが、北斎のどの娘であるかは明らかになっていない[129]。位置付け次第では葛飾応為が三女であるという『葛飾北斎伝』が伝える通説自体が覆る可能性も指摘されている[129]。生年については『葛飾北斎伝』に記述された没年齢から逆算し、寛政12年(1800年)ごろとする説や、井上和雄が『浮世絵志』第2号で提唱した寛政4年(1792年)ごろとする説、四方梅彦二が出会った応為の年齢を基に享和2年(1802年)とする説などがある[15][130]。二十代の期間で南沢等明へ嫁いだが後に離縁し、北斎と行動を共にしたと言われている[117]。国立国会図書館に所蔵されている露木為一の『北斎仮宅之図』には、天保13年(1842年)ごろと思われる北斎とお栄が暮らす荒んだ家の様子が描かれている[15]。画号である「応為」は、北斎がお栄を「おい」「おーい」等と呼びつけることが多かったためとする説や、当時流行した大津絵節から取ったという説や、北斎の「為一」号の一字を与えたとする説などがある[15]。没年については『葛飾北斎伝』で北斎の死後、親戚の加瀬氏の家で一時的に生活したが、そこを出て以降の行方は分からなくなったとしており、「加州金沢に赴きて死す、年六十七」「徳川旗本の士某の領地、武州金沢の近傍に到りて死せり」「信州高井郡小布施村、高井三九郎の家に到りて死せり」などの説を紹介しているが、いずれも明確にはなっていない[15]

四女についてはお猶(阿猶)と言われるが、早世が伝えられるのみで詳細は分かっていない[117]

弟子の英泉が描いた北斎の肖像画。 渓斎英泉「為一翁」『戯作者考補遺』より。

門人・私淑者

北斎の門人や私淑者は数多く存在しているが、『美術年鑑』では10名ほどの名が、飯島虚心の『葛飾北斎伝』では47名の弟子の名が挙げられている[131]すみだ北斎美術館では2020年に北斎とその弟子たちによる作品の展示会を行ったが、孫弟子を含めて200名を超える弟子を抱えていたとしている[132]。実子である葛飾応為の他、渓斎英泉本間北曜柳々居辰斎魚屋北渓蹄斎北馬昇亭北寿などが良く知られている[118]。『葛飾北斎伝』によれば北斎は「自ら教授することを好まず、其の門人たらんを請ふものあれば、自ら画きし刻板の画手本を出だし、先づ画かしめ、そここゝと、短所を指して、教へたるのみ」という態度だったという。

ミニチュアで再現された北斎とお栄の暮らしぶり(東京都江戸東京博物館

衣食住

北斎は衣食住に頓着しない性格であったとされ、片付けも掃除もしないため、住居は荒れ果てていたと言われている[133]尾上梅幸が北斎宅を訪れた際に、足の踏み場も無いほどに荒れた室内に驚き、輿丁に敷物を敷かせて腰を下ろしたというエピソードが『葛飾北斎伝』に紹介されている[134]。行動を共にした三女のお栄も北斎と似通った性格の持ち主であり、室内は荒れるに任せていた[135]。頭から布団を被り、手元に尿瓶を置いてひたすら作品制作に没頭したとされる[136]。また、9月下旬から4月上旬までは昼夜炬燵を離れなかったと自戒している[137]

衣服は基本的に荒い手織り木綿を着て、寒い時にはその上から袖なしの半纏を羽織る程度で年中を過ごした[133]。衣服が破れていても気にしなかった[138]。訪問した者の「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という証言が残されている[133]。外出時は6尺あまりの天秤棒を杖替わりとし、草履を突っかけて出かけるのみで、下駄も雪駄も履かなかった[139]。また、法華経の念仏をぶつぶつと唱えながら歩いたため、人から話しかけられることもなかった[140]

食については北斎自身もお栄も料理をしなかったため、貰ってきたものや買ってきたものをそのまま食べるだけの生活であったとされている[141]。煮売酒屋の隣に居住していた期間は3食ともこの店から出前させていたという逸話も残されている[142]。酒は飲まず、茶の銘柄にも拘らなかったが、甘いものには目が無かったと言われている[142][143]

金銭にも無頓着で、画代を確かめもせず投げだしていたり、売掛金の支払いを確認もせず渡したりしていたという[144]。こうした杜撰さから常に赤貧で、金に困る生活を送っていたとされる[145]。また、放蕩の孫が博打などによって北斎の金を使い込むことが度々あったため貧乏であったという説もある[145]。しかし、林美一はひっきりなしに仕事を受注していた北斎が本当に極貧だったのは、無名だった天明年間および孫の対処に追われた天保以降のみで、常に貧乏だったとする言説は誤りではないかと指摘している[145]

絵の思い

北斎は最晩年とされる天保5年(1834年)に刊行した『富嶽百景』跋文においてこれまでの半生に対する振り返りと、これからの画業に対する決意をしたため、絵師としての気概を示した[146][147]。『富嶽百景』の版元の西村屋祐蔵もこれに呼応して作品予告において「翁僕に語りて曰我真面目の画訣この譜に尽せり」と記し、作品に対する力の入れ具合について言及している[148]。さらに弘化5年(1848年)に刊行された『画本彩色通』初編跋文においても、下記の通り本来秘密とすべき具体的な技法や絵の具調合方法など、絵に関するあらゆる知識について詳らかにするとともに、画業に対する決意を改めて語っている[149][150]

今出す所のさいしき通は、山川、草木、鳥獣、むし、魚の類は、いふにおよばず、衣服の模様、人物の肉あひより、武具馬具におよび、一さいの道具、風雨のふぜい、月かげの隅どりまで、委しくおしへ、すゑすゑにいたりては、蟵の内にもののすきて見ゆる羅のかかりて、下の模様のうつりしまでも、ゑのぐのしかた、くまどりのやうす、画をこのめる党のおぼへやすからん事を導くの一本なり。また本のいやしきは、価ひくくして求めやすからんが為なり。編を次ぎ冊を重るに至りては、我八十余年のうち、種々修行せしことども、悉く伝んことをいふ。九十歳よりは、又々画風をあらため、百歳の後に至りては、此道を改革せんことをのみ願ふ。長寿君子わが言のたがはさるを知り給うべし。 — 『画本彩色通』初編跋文[150]

また、北斎の絵に対する向上心、執着心については『葛飾北斎伝』において門人の露木為一が北斎の娘の葛飾応為から聞いた話として、80余歳になっても「猫一匹まともに画けない」と娘の前で涙を流したとする逸話が紹介されている[151][152]

露木氏曰く、余北斎翁の門に入り、画法を学びしが、一日阿栄にむかひ、嘆息して謂て曰く、運筆自在ならず、画工とならんを欲するも、蓋し能はざるなり。阿栄笑て曰く、我が父幼年より八十有余に至るまで、日々筆を採らざることなし。然るに過ぐる日、猶自腕をくみて、余は実に猫一疋も画くこと能はずとて、落涙し、自ら其の画の意の如くならざるるを嘆息せり。すべて画のみにあらず、己れ及ばずとて自棄てんとする時は、即これ其の道の上達する時なりと。翁傍にありて、実に然り、実に然るなりといへり。 — 『葛飾北斎伝』より引用[151]

晩年を越えてもなお新しい画風、画法を貪欲に求める姿が垣間見えることから、美術史家の大久保純一は、北斎について通常ありがちな晩年期の創作意欲の減衰などとは無縁であったと評している[153]


注釈

  1. ^ 曲亭馬琴の『曲亭来簡集』には、中島伊勢の養子となったのは壮年期のこととしている[5]
  2. ^ 『画狂北斎』の著者安田剛蔵は、『曲亭来簡集』の記述を精査し、北斎は叔父の中島家にいったん養子に入った後、ほどなく川村家に戻ったと推測している[7]
  3. ^ 割下水とは、田畑の用水路として使用されていた溝を改修した掘割を指す[8]
  4. ^ 林美一は最初の妻を娶ったのは天明2年(1782年)か天明3年(1783年)ごろではないかと想定している[14]
  5. ^ お栄は生没年不詳の人物であり、その誕生年については諸説ある[15]
  6. ^ 画姓の「叢」の読みについては諸説あり、通説では「くさむら」とされるが、飯島虚心は「むぐら」、安田剛蔵は「むら」を支持している[17]
  7. ^ 一般的には『浮世絵類考』や『増補浮世絵類考』で式亭三馬が書き入れた内容を根拠として、春章存命時に勝川派を破門となったとする説が有力視されている[17]
  8. ^ ただし、「九十老人卍筆」の落款がある作品だけでも、現在15点ほども確認されている。当時は数え年なため、正月から死ぬまでの5ヶ月弱でこれだけの作品を描いたことになる。北斎の生命力が尽きかけていること、年紀がない作品や現在失われた作品もあるだろうことを考慮すると、これらの中に贋作が含まれていることを指摘する見解もある[86]
  9. ^ この画号を用いた作品は確認されていない[93]
  10. ^ 北斎の宗理使用期に菱川姓の使用は見られず、飯島の誤認ではないかと指摘されている[99]
  11. ^ この画号を用いた作品は確認されていない[93]
  12. ^ この画号を用いた作品は確認されていない[93]
  13. ^ 門人である北為の画号であり、北斎の画号ではないとの校注あり[100]
  14. ^ この百庵は『続俳家奇人談』に載り、嘉永6年版『俳林小伝』にも見える人物で、転居百回の後、下谷七軒町で亡くなったという[109]
  15. ^ 『葛飾北斎伝』では、後妻との間の子は一男一女とし、一説に一男二女としている[116]
  16. ^ 北斎の叔父にあたるという説もある[121]
  17. ^ この名称は説のひとつであり、確定はしていない[117]
  18. ^ この名称は説のひとつであり、確定はしていない[117]
  19. ^ この名称は説のひとつであり、確定はしていない[117]
  20. ^ 落款には「北斎娘辰女筆」とある[129]
  21. ^ これらの作品はライデン国立民族学博物館に29点、フランス国立図書館に25点が分蔵されている[173]
  22. ^ 柳亭種彦が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)刊行説、エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などがある[185]
  23. ^ 10年用パスポートが24作品、5年用パスポートが16作品採用[200]
  24. ^ 永寿堂の広告に「前北斎為一筆」の記述あり。
  25. ^ 実際は無毒である[212]
  26. ^ これは、この年の年紀ある北斎作品が小布施に遺存していること、この頃に描かれた『日新除魔図』が小布施に保存されていることなどを根拠としている[260]
  27. ^ 題名の「椿説」は「珍説」の意[292]
  28. ^ 三枚続の図が一図あるため、三十図としている書籍もある[326]
  29. ^ 読みは「きのえのこまつ」で『甲の小松』と書かれている書籍もある[348]
  30. ^ 「おつび」「おさね」は『富久寿楚宇』にも登場する[354]

出典

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