華族 統制

華族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/01 20:42 UTC 版)

統制

華族は宮内大臣宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。

自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。

批判

華族制度は成立当初、一君万民の概念に背き、天皇と臣民の間を隔てる存在であり、華族は無為徒食の徒であるとして華族制度の存在に反対するものもいた。島地黙雷小野梓元老院書記官が反対の論陣を張り、『朝野新聞』紙上で激しい論戦が繰り広げられた。『朝野新聞』は明治13年(1880年)に「華族廃すべし」と題した論説を掲載している。また政府内でも、井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している。

板垣退助も華族制度は四民平等に反するという主張を持っており、明治20年(1887年)に伯爵に叙された際も2度にわたって辞退した。しかし天皇の意志に背くことは出来ずに結局は爵位を受けたが、この時には華族制度を疑問視する意見書を提出している。また、明治40年(1907年)には全華族に対して華族の世襲を禁止するという意見書を配り、谷干城と激しい論争になった。死の直後には「華族一代論」を出版し、息子鉾太郎に遺言して襲爵手続きも行わせなかったため、板垣伯爵家は廃絶した。部落解放運動家の松本治一郎広田内閣当時に衆議院議員として「不当にたてまつられる華族の存在こそは部落民が不当にさげすまれる原因であり華族制度を廃止すべきと思うがどうか」と質問した。

実際

財政

華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。

一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数十年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。

華族銀行として機能していた十五銀行金融恐慌の最中、昭和2年(1927年4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。

スキャンダル

華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。

進路

制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。

貴族院議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には醍醐忠順のように腰弁当徒歩で登院したり、嵯峨公勝のように登院に不熱心な議員も存在した[13]。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、家計の助けとなった。中には水野直のように、各家の生活上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した[14]

陸軍士官学校には明治10年代、華族子弟のための特別な予科が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。有名な華族軍人としては、陸軍では前田利為町尻量基、海軍では醍醐忠重小笠原長生らがいる。

進路として最も適性があったと思われる国家機関は、宮内省である。特に旧・堂上華族は、皇室朝廷)との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代天皇も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては木戸幸一(商工省)や岡部長景(外務省)、広幡忠隆(逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかだったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、宮内省へ転じている。

学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川林政史研究所を開いた徳川義親(植物学)、「蜂須賀線」で知られる蜂須賀正氏(鳥類学)、D・H・ローレンスを研究した岩倉具栄(英文学)らが代表例である。大山柏は父・の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。

珍しい進路に進んだ例としては、演劇の土方与志(本名・久敬、伯爵)が挙げられる。土方はソ連での反体制的言動により、爵位剥奪となった。

革新華族

昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。近衛文麿有馬頼寧・木戸幸一・原田熊雄樺山愛輔徳川義親などが知られる。

廃止

昭和22年(1947年5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。

当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(補則第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。昭和天皇は堂上華族だけでも存置したい意向であり、幣原喜重郎首相に対して「堂上華族だけは残す訳にはいかないか」と発言している[15]。自ら男爵でもあった幣原もこの条項に強いこだわりを見せており[注釈 21]、政府内では「1.天皇の皇室典範改正の発議権の留保」「2.華族廃止については、堂上華族だけは残す」という二点についてアメリカ側と交渉すべきか議論が行われたが、岩田宙造司法大臣から「今日の如き大変革の際、かかる点につき、陛下の思召として米国側に提案を為すは内外に対して如何と思う」との反対意見が出され、他の閣僚も同調したことから、「致方なし」として断念された[15]。結局、華族制度は衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。

小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。廃止後、華族会館霞会館(運営は、一般社団法人霞会館)と名称を変更しつつも存続し、現在も旧・華族の親睦の中心となっている。




注釈

  1. ^ このうち広島新田藩浅野家は廃藩後に華族となることを辞退した。
  2. ^ 松崎家(松崎万長家)・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家北小路俊昌家)・若王子家(聖護院院家若王子住職家)。
  3. ^ 徳川御三卿のうち2家(一橋徳川家田安徳川家)、徳川御三家附家老家5家(成瀬家・竹腰家(尾張徳川家)、安藤家水野家紀伊徳川家)、中山家水戸徳川家))、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩吉川家、1万石以上の所領を持つ交代寄合6家(山名家池田家山崎家平野家本堂家生駒家)、1万石以上の所領を持つ高家だった大沢家。ただし大沢家は所領の水増し申告が露見し1万石以下であることが確認されたことから、後に華族の身分を剥奪され士族に編入された。
  4. ^ 徳川御三卿の清水徳川家は当主不在であり、翌年に徳川篤守が相続した際に華族に列せられた。
  5. ^ 大久保家と木戸家は明治11年(1878年)5月23日に華族に列した。いずれも後に侯爵
  6. ^ 広沢家は明治12年(1879年)12月27日に華族に列した。後に伯爵
  7. ^ 南北朝時代南朝方の忠臣だった新田義貞の功により新田家新田岩松家)が、名和長年の功により名和家が、菊池武光の功により菊池家米良菊池家)が、それぞれ華族になっている。いずれも後に男爵。
  8. ^ ただし、全ての華族が同時に叙爵されたわけではなく、戸主が女性であった家や終身華族・門跡華族・戸主が実刑を受けていた芝亭家などは叙爵が遅れた。
  9. ^ 清水徳川家で初め徳川篤守が伯爵、次代の徳川好敏が男爵となったが、これは篤守が爵位を返上ののち、家督を継いだ好敏が改めて自身の功績により男爵に叙せられたものである。
  10. ^ 大名家の表向きの石高である「草高」ではなく、実収を基準に決められた石高を現米とする。
  11. ^ 尚氏当主の尚泰の叙爵は翌年の明治18年(1885年5月2日。叙爵内規では「旧・琉球藩王」となっている。
  12. ^ 中納言を一旦辞すことなく直に大納言に任じられることを「直任」といい、一旦中納言を辞した後に改めて大納言に任じられることよりも格上とみなされた
  13. ^ 成羽藩矢島藩村岡藩
  14. ^ 平田家は家格こそは押小路家・壬生家の次とされていたが、実質においては「地下官人之棟梁」として両家と同格扱いを受けていた。詳細は西村慎太郎『近世朝廷社会と地下官人』第一部「近世地下官人の組織と制度」第二章<近世地下官人組織と「地下官人之棟梁」>に詳しい。
  15. ^ 北島家千家家出雲大社)、到津家・宮成家(宇佐神宮)、河辺家・松木家(伊勢神宮)、津守家住吉大社)、阿蘇家阿蘇神社)、紀家日前神宮・國懸神宮)、高千穂家(英彦山神社)、小野家(日御碕神社)、金子家(物部神社)、西高辻家太宰府天満宮
  16. ^ 渋谷家(佛光寺)、華園家(興正寺)、常磐井家専修寺)、木辺家(錦織寺)。ただしいずれの門跡も当時は皇族摂家から養子に入った者であった。
  17. ^ 華族の一族内に限って通用する法規
  18. ^ 有爵者、もしくは有爵者の嫡子が20歳になると従五位に叙せられる。
  19. ^ ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。大正天皇第二皇子の雍仁親王(秩父宮)松平恒雄長女の節子(勢津子妃)と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(子爵会津松平家の当主は恒雄の兄の容大、その跡を恒雄の弟の保男が継いでおり、結婚に際して保男が勢津子の養父となった)。
  20. ^ 姫路藩主酒井家で、酒井文子が当主を務めたのち、満8歳で家督を譲られた忠興が同時に伯爵を授爵している。
  21. ^ 白洲次郎の各種述懐による。

出典

  1. ^ 浅見雅男『華族誕生』リブロポート、1994年、24頁。
  2. ^ 神谷次郎、安岡昭男et al.、小西四郎(監修)『幕末維新事典』新人物往来社、1983年9月20日、596-599頁。
  3. ^ 同じ時期の士族は188万3265人、卒7246人。旧神官8914人、僧19万8435人、尼7680人。平民3151万4835人(このほかに樺太人2374人)。『幕末維新事典』による
  4. ^ 居相正広『華族要覧(第1輯)』居相正広、1936年9月28日、21頁。doi:10.11501/1018502
  5. ^ 佐藤雄基「松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)」『史苑』第78巻第2号、2018年、 109-110頁、 doi:10.14992/00016470
  6. ^ a b c 細野哲弘「一文字大名 脱藩す」『特技懇』第290号、特許庁技術懇話会、2018年、 130-137頁。
  7. ^ 酒巻芳男「第11章 華族の特権」『華族制度の研究 在りし日の華族制度』霞会館、1987年、301-331頁。
  8. ^ a b c 浅見雅男『華族たちの近代』NTT出版、1999年、20頁。
  9. ^ 小林和幸 2013, pp. 75-76.
  10. ^ 小林和幸 2013, pp. 66.
  11. ^ 小林和幸 2013, pp. 67-78.
  12. ^ 小林和幸 2013, pp. 76.
  13. ^ 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の昭和』中央公論新社〈中公文庫〉、243-252頁。ISBN 978-4-12203542-3
  14. ^ 内藤一成『貴族院』同成社、2008年、122頁。
  15. ^ a b 芦田均日記 憲法改正関連部分(拡大画像) 日本国憲法の誕生”. ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2020年2月12日閲覧。


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