菊池氏 菊池氏の概要

菊池氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 16:14 UTC 版)

菊池氏
並び鷹の羽ならびたかのは
本姓 藤原北家政則[1][2]
家祖 藤原則隆
種別 武家
華族男爵
主な根拠地 肥後国菊池郡
著名な人物 菊池隆直
菊池武房
菊池武時
菊池武重
菊池武光
菊池武朝
支流、分家 肥後氏[注釈 1](武家)
豊田氏(武家)
八代氏(武家)
大河平氏(武家)
宇土氏(武家)
赤星氏(武家)
甲斐氏(武家)
米良氏(武家)
竹崎氏(武家)
城氏(武家)
西郷氏(武家)
志岐氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

概要

中関白藤原道隆の子大宰権帥藤原隆家の子孫と伝承されるが、実際には刀伊の入寇の際に隆家とともに奮戦した大宰府官で、その戦功により大宰少弐対馬守となった藤原政則の子孫であると見られる[2][1]11世紀後半から肥後国菊池郡熊本県菊池市)の在地領主として勢力を拡大[2]平安時代末の治承・寿永の乱の頃の当主菊池隆直は、一国棟梁的存在として菊池権守と呼ばれ、鎌倉時代には鎌倉幕府御家人に列した。鎌倉中期の当主菊池武房蒙古襲来時に奮戦した[2]1333年には菊池武時鎮西探題館に討ち入って戦死したが、その子菊池武重後醍醐天皇建武新政下において肥後守に叙せられ、以降南北朝時代において菊池武重菊池武敏菊池武光が九州の南朝方武将として活躍した。両朝の和合後には菊池武朝が肥後の守護になり、菊池能運まで続いた。戦国時代には阿蘇惟長(菊池武経)や大友重治(菊池義武)などが菊池の名跡を継いだが、義武の時代に大友義鎮に滅ぼされた。能運の子孫は日向国米良(宮崎県児湯郡西米良村)へ逃れ、以後米良氏を名乗るようになったという[2]。米良氏は江戸時代には交代寄合参勤交代をするが、5000石格の無高で[5]肥後国人吉藩相良氏の扶養という特殊な交代寄合家だった)として続き、明治になり、菊池姓に復し[6]、南朝忠臣菊池氏の末裔の由緒から華族の男爵に叙された[4]

肥後菊池氏

起源

中国の歴史書『三国志』中の「魏志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に登場する狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)を、その名前より「菊池彦」に通じるとし、熊本県菊池郡や菊池氏との関連を指摘する説がある。平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本紀』には、文武天皇二年五月甲申(698年7月8日)の條に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」(太宰府をして大野基肄鞠智の三城を繕い治めせしむ)の記述がある。また奈良時代天平勝宝元年十一月三日(749年12月16日)に奈良東大寺が大宅可是麻呂から進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。平安時代中期の承平年間(931年938年)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではこの地名を「久々知」と註していることから、上代から古代にかけてはこの地域は「くくち」と呼ばれ「鞠智」と表記していたことがわかる。康保4年(967年)に施行された『延喜式』によるとすでに「菊池」の記載があることから、この頃までには「鞠智」に「菊池」の佳字を当てていたものと考えられる。

菊池氏は、1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆肥後国に下向して土着したとして藤原姓藤原北家)を自称し、各種系図もこれに沿った内容となっているが[注釈 2]1959年昭和34年)志方正和は公家が残した日記や『源氏物語』を研究した結果、藤原隆家の後裔とするのは仮冒であり、藤原隆家の下で大宰少弐であった則隆の父藤原政則について、肥後国住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代1070年ごろ菊池周辺に土着したとする説を発表、この説が現在まで有力とされている[注釈 3]。その出自については、太田亮による代々大宰府官を務めた紀姓の地方豪族とする説[8][注釈 4]鈴木真年による百済王族出身の渡来人である鬼室福信の後裔とする説[10]、さらには、狗奴国の官・狗古智卑狗(菊池彦) 後裔説、古代鞠智(くくち:山の麓の谷から平野へ出る口)族後裔説、源経基の後裔とする源姓[11]、など多様な説がある。

近年、政則の初名に「基定」と記された系図と由緒が公表され、これを隆家の五男・基定 (肥前守従五位下) であるとする新説と共に、則隆には、従五位下右近将監「則忠」、従五位下武部少輔「則宗」、従五位下肥前守「武重」という3人の弟がいたことが分かった。

源平対立時代

院政時代全国の在地支配層は、こぞって中央の有力者に荘園を寄進してその庇護を受け、院の武者として勢力を拡大しようとした。4代菊池経宗・5代菊池経直が鳥羽院武者と記録されていることからも、菊池氏がその例に漏れなかったことが推定される。このころまでに菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力として定着拡散して行ったことが分かる。

平家台頭後は日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と化したが、1180年(治承4年)源頼朝が兵を挙げると翌1181年(養和元年)6代菊池隆直は養和の乱を起こして平家に反抗した。隆直は翌年平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦いにおよんで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。源平の間を揺れ動いたことで頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞守護に任じられた少弐氏大友氏島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた。

鎌倉時代

8代菊池能隆承久の乱において後鳥羽上皇方にくみしたため、北条義時によって所領を減らされた[注釈 5]。乱後、鎌倉幕府鎮西探題を設置して、西国の押さえとした。10代菊池武房元寇に際して、鎌倉幕府から博多に召集され、一族郎党を率いて軍と戦闘を交え敵を討ち取った[注釈 6]

菊池氏は、伝統的に源平勢力と一定の距離を保ち在地勢力の勇としての意地を見せてきたが、鎌倉幕府に衰えが見られるようになると朝廷とのつながりを深めた。12代菊池武時後醍醐天皇綸旨に応じ、1333年(元弘3年、正慶2年)阿蘇惟直少弐貞経大友貞宗をさそって鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって善戦むなしく鎮西探題館内で戦死した。

武時の遺志は嫡男13代菊池武重に引き継がれ、建武の新政成立後、楠木正成の推薦もあって肥後守に任じられた。武時の武功は高く評価され、その庶子菊池武茂・菊池武澄菊池武敏らも叙任を受けた。

南北朝時代

足利尊氏建武の新政から離脱し反旗を翻すと、武重は後醍醐天皇の近くに仕え日本各地を転戦した[注釈 7]。武重が関東で戦っているころ、京都を追われた尊氏が九州に逃れ少弐貞経の子の少弐頼尚が尊氏を赤間関に迎えに出た隙に、武重の弟菊池武敏大宰府の貞経を攻めて滅ぼした。

1335年(建武2年)勢いづいた武敏は阿蘇惟直・秋月種道蒲池武久・星野家能らを誘って多々良浜の戦いで足利方と戦ったが敗北し、菊池に逃げ帰った。尊氏が京都に攻め上ると、武敏は再度蜂起して足利方に反抗した。また、京都を脱出していた武重は1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)帰国して武敏と合流し、足利方の一色範氏・少弐頼尚と戦った。以後、九州も南北朝の争乱に巻き込まれていくことになる。

武重・武敏兄弟の死後、菊池氏勢力は沈滞の時期を迎えたが、南朝・後醍醐天皇の皇子懐良親王が、1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)征西将軍として九州に下向した。途中伊予国に滞在した懐良親王は、宇都宮貞泰を連れて1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)薩摩谷山に上陸、1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年)肥後国宇土において15代菊池武光に迎えられた。懐良親王は阿蘇惟澄の本拠地御船を経由して隈府城に入城した。

このころ中央では尊氏と弟足利直義の間に対立が深まり、1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)直義の養子足利直冬が九州に下向してきたため、九州は三勢力に分断された。しばらく三すくみの状態が続いたが、1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)直義の失脚により直冬が九州を去ると、勢力を伸ばした懐良親王は1358年(南朝:正平13年、北朝:延文3年)武光やその兄弟武義武澄らの働きによって大宰府を攻略した。以後、大宰府に征西府が置かれ九州における公的機関の様を呈していた。

一方、業を煮やした幕府は1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)に新たに今川貞世を九州探題に任じた。武光は貞世と戦ったが敵わず、翌年には大宰府を失った。このような中で武光と16代菊池武政が相次いで没し、17代菊池武朝が後を継いだが、1377年(南朝:天授3年、北朝:永和3年)の蜷打の戦いで北朝方に大敗するなどさらなる敗戦を重ね、1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)には本拠地をも追われてしまった。

そして、1392年(明徳3年)の南北朝合一を機に武朝は阿蘇惟政とともに了俊と和睦することになった。

室町時代

18代菊池兼朝は必ずしも室町幕府に忠実ではなかったが、これまで守護であった阿蘇氏阿蘇郡にしか勢力が及んでいない実情をみた室町幕府は兼朝を肥後守護職に任じた。次の19代菊池持朝の時代には大内氏とともに室町幕府に反抗的な少弐氏・大友氏と戦い、大友氏が持っていた筑後守護職を与えられた。ところが、20代菊池為邦の代に大友氏が幕府から罪を許されて筑後を大友氏と菊池氏の半国守護にすることになると、これに反発した為邦は大友氏と戦い、今度は幕府の怒りを買った菊池氏が筑後守護職を奪われてしまった[12]

一方、菊池氏の本国である肥後でも阿蘇郡は前守護である阿蘇氏が阿蘇大宮司の立場を利用して同郡を掌握しており、菊池氏の勢力は小国地方に浸透したのみであった。球磨郡芦北郡も鎌倉初期からの領主である相良氏が掌握しており、内乱時に菊池氏の安堵を得ることはあっても原則的には自立した存在であった。そして、八代郡を支配していた名和氏も菊池氏とは長年南朝方としてともに闘ってきた間柄で菊池氏とともに室町幕府に従った後も自立した存在であり続けた(宇土郡を支配する宇土氏が滅亡すると、同郡も併合している)。菊池氏が守護として確実に支配できた地域は天草郡と「国中」と称された7郡(玉名山本山鹿菊池飽田託磨益城各郡)および筑後守護時代に影響下に入った筑後の一部地域に限られており、それも後述の内紛によって縮小していくことになる[13]

終焉

父である18代菊池兼朝を追って当主に就いた19代菊池持朝のころから菊池氏一族の間で家督をめぐる争いが持ち上がるようになっていたが、20代菊池為邦の弟で宇土氏の養子になっていた宇土為光が、甥である21代菊池重朝に対して1484年(文明16年)挙兵、敗れたものの重朝没後1501年(文亀元年)再度挙兵した。為光に追われた22代菊池能運有馬氏を頼って玉名を経由して島原に逃れ、翌1502年(文亀2年)城重岑・隈部運治らと呼応して為光を自刃させた。能運は戦いに勝利したものの、戦傷がもとで1504年(永正元年)わずか23歳で死亡し、以後菊池氏の家督は庶流から輩出されるようになり、菊池氏家督阿蘇氏大友氏に横取りされ、こうして菊池氏は滅亡した。

能運の死後肥後国では下克上が進み戦国時代に突入したとされるが、菊池氏の遺領は菊池三家老と言われた赤星氏城氏隈部氏らが領するところとなった。

備考

南北朝時代に菊池一族は後醍醐天皇南朝方にあった。吉野の山中にて南朝を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代に後醍醐天皇は、尊良親王恒良親王らを新田義貞に命じて北陸へ向かわせたほか、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。

菊池氏滅亡後、肥後国豪族米良菊池能運の子米良重次の末裔を名乗り江戸時代交代寄合に列せられた。米良氏は参勤交代をするが、5000石格の無高で[5]肥後国人吉藩相良氏の扶養という特殊な交代寄合家だった。

明治時代になって菊池姓に復姓し、男爵に列せられた。昭和初期に、中島久万吉商工大臣と美濃部達吉貴族院議員を、それぞれ皇室へ不忠として糾弾し辞職に追い込んだ菊池武夫はこの菊池家の男爵である。また、八代氏の12代当主隆屋は一族郎党を連れて日向国大名である北原氏を頼り、新しい本拠となった真幸院の地名・大河平をとって大河平氏に改姓、北原氏が滅亡後は薩摩島津氏の家臣となり、薩摩藩士として存続した。

他に庶流として西郷氏があり、将軍徳川秀忠生母の西郷局会津藩家老西郷頼母薩摩藩下級藩士西郷隆盛は菊池氏の出とされる。

そのほか宮崎県児湯郡西米良村群馬県伊勢崎市北千木町、南千木町などにも菊池姓が見られる。

歴代当主

  1. 藤原則隆
  2. 藤原経隆
  3. 藤原経頼
  4. 菊池経宗
  5. 菊池経直
  6. 菊池隆直
  7. 菊池隆定
    • 菊池隆継
  8. 菊池能隆
  9. 菊池隆泰
  10. 菊池武房
  11. 菊池時隆
  12. 菊池武時
  13. 菊池武重
  14. 菊池武士
  15. 菊池武光
  16. 菊池武政
  17. 菊池武朝
  18. 菊池兼朝
  19. 菊池持朝
  20. 菊池為邦
  21. 菊池重朝
  22. 菊池能運
  23. 菊池政隆
  24. 菊池武経 - (阿蘇氏
  25. 菊池武包 - (詫磨氏)
  26. 菊池義武 - (大友氏

系図

支配氏族

赤星親家
赤星統家 - 親家の子。大友義統より「統」の1字を賜う。
隈部親永
隈部親泰
城親冬
城親賢
城親基
  • 鹿子木氏
鹿子木親員(寂心)
鹿子木鎮有 - 親員の孫。大友義鎮(宗麟)より「鎮」の1字を賜う。
宇土為光 - 菊池持朝の子、為邦の実弟。
竹崎季長

庶家


注釈

  1. ^ 筑前少弐氏に仕えた。
  2. ^ 「菊池系図」(『続群書類従』巻第151所収)、「菊池系図」(『菊池風土記』所収)、『筑後菊池諸系図』、『菊池伝記』などが藤原隆家の裔としている。一方で、隆家の兄弟である隆宗(『尊卑分脈』などの各種系図には掲載がなく実在の人物でないと考えられる)の裔とする系図(『上妻系図』)や、兄伊周の裔とする系図(『草野系図』(山本村観興寺蔵))とする系図もあり、南北朝時代末期、菊池武朝朝廷に上申した『菊池武朝申状』で単に「道隆四代後胤、太祖大夫将監則隆」としているように、当初は道隆の後裔とは称したが、具体的に道隆のどの息子の後裔にあたるのかは明確でなかったと考えられる[7]
  3. ^ 政則は隆家の指揮下で奮戦した蔵規(まさのり)と同人物とされ、藤原実資の牧司や太宰大監対馬守などを歴任し、藤原定任殺害の嫌疑を受けて追捕をされたことも記述されている。
  4. ^ (太田 1963)では菊池は古くは久々知と読まれていたことを根拠に久々智姓(『新撰姓氏録摂津皇別では阿部氏と同祖とする)との関係も示唆している。
  5. ^ 前述、武朝申状による。
  6. ^ 武房の姿は蒙古襲来絵詞に描かれている。
  7. ^ 新田義貞らとともに箱根・竹ノ下の戦いでは菊池千本槍を駆使して戦った。
  8. ^ 本来、常陸国の菊池氏ではないが、生国が定かでないことと、同じ佐竹家臣であることから本項では常陸の菊池氏に収録した。
  9. ^ 子孫に菊地平左衛門正清がいる。
  10. ^ 子孫に菊地茂兵衛武慶がいる。
  11. ^ 秀経子孫は菊池権蔵秀清という。
  12. ^ 子孫に菊池戸左衛門、菊池勘次がいる。
  13. ^ 子孫に菊池木工允久本がいる。

出典

  1. ^ a b 世界大百科事典 第2版 きくちうじ【菊池氏】
  2. ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ) 菊池氏
  3. ^ 旺文社日本史事典 三訂版『菊池氏』 - コトバンク
  4. ^ a b 松田敬之 2015, p. 239.
  5. ^ a b 竹内誠 2003, p. 54.
  6. ^ 百科事典マイペディア 菊池氏
  7. ^ 太田 1963, p. [要ページ番号].
  8. ^ 太田 1963.
  9. ^ 宝賀 1986, p. [要ページ番号].
  10. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻5,市往公 岡連[9]
  11. ^ 『応永戦覧』
  12. ^ 木村 2014, p. [要ページ番号].
  13. ^ 木村 2014.
  14. ^ 日本の苗字7000傑
  15. ^ 太田 1934, p. 1855.
  16. ^ a b c d e f g h i j k 秋田県公文書館 2001, p. 126.
  17. ^ a b 秋田県公文書館 2001, p. 125.
  18. ^ 菊池伝兵衛武清所有『藤原姓菊池系図』、菊池清庵貴忠所有『菊池清庵系譜』参照。
  19. ^ 菊地茂左衛門尹信 所有『藤原姓菊地氏系図』参照。
  20. ^ 瀬谷 2006, p. 33.
  21. ^ 明田 1986, p. 417.
  22. ^ 明田 1986, p. 404.
  23. ^ 瀬谷 2006, p. 307.
  24. ^ 瀬谷 2006, p. 308.
  25. ^ 明田 1986, p. 432.
  26. ^ 明田 1986, p. 229.
  27. ^ 瀬谷 2006, p. 310.
  28. ^ 明田 1986, p. 416.
  29. ^ a b 明田 1986, p. 360.
  30. ^ 明田 1986, p. 426.
  31. ^ 明田 1986, p. 415.
  32. ^ 明田 1986, p. 232.
  33. ^ 明田 1986, p. 420.
  34. ^ 瀬谷 2006, p. 311.
  35. ^ 明田 1986, p. 371.
  36. ^ 明田 1986, p. 370.
  37. ^ 明田 1986, p. 223.
  38. ^ a b c 明田 1986, p. 224.
  39. ^ 明田 1986, p. 363.
  40. ^ 明田 1986, p. 350.
  41. ^ 明田 1986, p. 216.
  42. ^ 明田 1986, p. 362.
  43. ^ a b 明田 1986, p. 258.
  44. ^ 太田 1934, pp. 1855–1856.


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