菊池寛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 03:40 UTC 版)
家族
両親・兄弟
- 父親・武脩(たけなが)
- 母親・カツ
- 長姉・アイ
- 長兄・武吉
- 次姉・ナミ
- 次兄・良平
- 三兄・三八
- 妹・久仁
妻子
- 妻・包子(かねこ)
- 長女・瑠美子
- 長男・英樹
- 次女・ナナ子
主要作品
高松市菊池寛記念館から『菊池寛全集』(全24巻、1993年-1995年)が、また、武蔵野書房から『菊池寛全集補巻』(全5巻、1999年-2003年)が刊行されており、ほぼすべての作品を比較的容易に鑑賞することが可能である。文春文庫と岩波文庫で諸作品が刊行されている。また、未知谷から『歴史随想』と『剣聖武蔵伝』が刊行されている。
大衆小説・戯曲
- 映画『地獄門』の原作。
伝記
少女小説
※「少女倶楽部」連載の長編小説について扱う。
- 心の王冠(1938年1月-1939年12月)
- 珠を争う(1940年1月-12月)
- 輝ける道(1941年1月-1942年3月)
その他
- フランダースの犬(翻訳)
- 日本競馬読本
人物
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作風
- 人生経験や人生観を創作に生かすことを重視していた。「小説家たらんとする青年に与う」という文章の中で、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」と述べている。
- 『餓鬼』のモデルは芥川龍之介、『友と友の間』『神の如く弱し』は久米正雄がモデル。
名について
- 「寛」は旧字では「寬」と最後に点を打つが、寛はこの点を省いていた。菊池の墓碑銘を揮毫した川端康成も新字の「寛」を用いた。
- 名の「寛」は「ひろし」と読めば本名、「カン」と読めば筆名だったが、本人はどちらで呼ばれても特に気にせずに返答していた。ただし「菊池」を誤って「菊地」と書かれるとすこぶる機嫌を損ねたという。
- 大映社長就任時の宴席で、稲垣浩は菊池から開口一番「君の名はコウかね、ヒロシかね」と訊かれ、「ヒロシ」だと答えたところ、「ぼくもホントはヒロシなんだけどネ、いつの間にかカンになってしまった。面白いものだね。カンと呼ばれているうちに自分でもカンの方がいいと思うようになったよ」と話し、その屈託ない話しぶりに稲垣も「とても話しやすかった」と述懐している[23]。
「くちきかん」
「きくちかん」をアナグラムにすると「くちきかん」(口利かん)となる。このアナグラムは菊池の生前から、彼の交友の内外で同時多発的に話された記録がある。
- 菊池が麻雀で負けると、ムッとして黙り込んでしまい、対戦者が「くちきかん」と陰口を言ったという。
- 木津川計によれば、菊池没時、大阪では巷で「ああ、ついにクチキカン」と不謹慎な哀悼を捧げたという[24]。
- 矢崎泰久の評伝に『口きかん わが心の菊池寛』(2003年、飛鳥新社)がある。
- タレントのタモリが第62回菊池寛賞を受賞した際、授賞式の席上で、出演するテレビ番組のゲストについて「年間で一番無口だった人に“くちきかん賞”をあげようとしたこともあった」と語った[25]。
パトロンとして
- 馬海松を可愛がり、『文藝春秋』の創刊の際、編集部に入れ、後も交遊を続けた。
- 文藝春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。この青年は後に喜劇俳優・古川ロッパとして成功した[26]。
- 長谷川町子の自伝『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川家が上京後に生活費に窮した際、知人の紹介で長谷川の姉の絵を見た菊池は、長谷川の姉を自作の挿絵画家に採用した。その後、長谷川の母が長谷川の姉を通じて、長谷川の妹(当時東京女子大学在学)の作文を見せると、菊池は「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、妹は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。のちに妹は文藝春秋に入社し、肋膜炎を患い退社した。
- 1977年(昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巖谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。
大映社長として
- 大映社長就任の挨拶で菊池は「ぼくは社長としての値打ちは何もないが、製作する全作品のシナリオを読んでくれればいいということなので、それならぼくにもできそうだと思ったから社長を引き受けた」と話し、稲垣浩らはその淡々とした話しぶりや飾らない様子に、大きな拍手を送ったという[23]。
- なお、その際、卓上にハンカチを忘れ、一同の眼が集まったが、その白いハンカチは生き物のように菊池の後を追って動き、壇上から滑り落ちた。事務の者が慌てて走り寄って拾い上げようとすると、菊池はそれに気づき、服から垂れた糸を引っ張って手品のようにハンカチを手元に引き上げた。短時間だがそのユーモラスな光景に対し、会場の聴衆はどっと好感の笑いを巻き起こしたが、菊池はニタリともせずに無造作にハンカチをポケットにねじ込み静かに席に戻って行った。これは、菊池がよくハンカチを落としたり忘れたりし、戦時下で衣料品が切符制だった事情から新調が困難だったので、夫人が紐を付けてポケットに縫い付けたものであった[23]。
- 稲垣が『お馬三十三万石』というシナリオを書いたとき、競馬愛好家だった(後述)菊池は「馬の話だ」ということでとくに念入りに読んで、いろいろと意見を出し、「君これは鍋島藩になってるけどネ、佐賀は馬産地ではないから駄目だね、福島か南部に改めてはどうだ」と言った。稲垣が「阿蘭陀人が出ますからどうしても九州でないと困るのですが」と答えると、「それなら島津がいいだろう」、「でも(鍋島の)三十三万石という題名がいいと思うのですが」とさらに答えると菊池は「なに、島津なら七十七万石だから、そのほうがずっと大きくていいよキミ」と返した。稲垣は「やはり役者が何枚かうわてだった」と語っている[23]。
趣味
とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロバビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。
最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。 — 菊池寛、『菊池寛の仕事』
- 競馬については、入門本『日本競馬読本』を上梓したほか、戦前は馬主として多くの有力な競走馬を所有した。1940年(昭和15年)の春の帝室御賞典を所有馬・トキノチカラで制し、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年(昭和19年)の東京優駿も、所有馬・トキノチカヒを出走させた。
- 将棋については、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。
- 大映社内において、将棋好きの社長・菊池の影響で将棋が流行し始め、重役連も急に将棋の勉強を始めなければならなくなった。稲垣浩は「ヘボ以下」を自認していたが、重役連とはいい勝負だった。菊池はそんなヘボ将棋でも熱心にのぞき込んで観戦し、「シロウト将棋はあとさきも考えないから、見ていてとても面白いネ」と言ってタバコの灰をポロポロ膝に落とし、愉快そうに目を細めていたという[23]。
その他
- 喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼け焦げだらけであったという。当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。
- 長谷川町子は菊池の書生だった自身の妹から菊池は「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという[27]。
- 両性愛者の傾向があったとされる。
- 旧制中学時代から大学時代にかけ、4級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。
- また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許したため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
菊池寛の登場する作品
- こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生(2002年 - 2003年)
- 末は博士か大臣か(1963年、大映)
- 上記『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』の映画化。西田敏行が菊池を演じた。
- 戦後初期のエピソードに、菊池自身が登場するものがある。
- 市道
- 高松市にある市内道路のひとつ。菊池の生家跡(ここには2006年(平成18年)まで第一法規四国支社があった)はこの道路の沿線にある。この通りは元々「県庁通り」と呼ばれていたが、1988年(昭和63年)に香川県庁舎に面する県道173号線を「県庁前通り」としたことに伴い改称された。
ギャラリー
- ^ 井上 1999, p. 23.
- ^ 井上 1999, p. 24.
- ^ 井上 1999, p. 26-27.
- ^ 井上 1999, p. 28.
- ^ 井上 1999, p. 7.
- ^ 関口安義「反骨の教育家 評伝 長崎太郎 II」『都留文科大学研究紀要 第64集』2006年
- ^ 東條文規「菊池寛と図書館と佐野文夫」、『図書館という軌跡[1]』ポット出版、2009年、pp.335 - 354(初出は『香川県図書館学会会報』)
- ^ 井上 1999, p. 32-33.
- ^ 井上 1999, pp. 38-40.
- ^ 井上 1999, pp. 42-43.
- ^ 井上 1999, p. 242.
- ^ 井上 1999, pp. 52-53.
- ^ 井上 1999, p. 69.
- ^ 井上 1999, p. 70.
- ^ 井上 1999, p. 247.
- ^ 井上 1999, p. 76.
- ^ 井上 1999, p. 80.
- ^ 井上 1999, pp. 82-84.
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)114頁
- ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p.700
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ a b c d e 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
- ^ 木津川計『上方の笑い』 講談社現代新書、1984年 p.24
- ^ タモリ「まさか本物を…」いいとも“くちきかん賞”は幻に Sponichi Annex、2014年12月6日
- ^ 『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』清流出版、2009年(平成21年)。
- ^ 『サザエさんうちあけ話』
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