若槻禮次郎 若槻禮次郎の概要

若槻禮次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/16 20:04 UTC 版)

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  • 若槻禮次郎
  • 若槻禮次郞
若槻 禮次郎
わかつき れいじろう
Reijiro Wakatsuki.jpg
礼装である大礼服を着用した若槻禮次郎
生年月日 1866年3月21日
慶応2年2月5日
出生地 日本の旗 日本 出雲国松江雑賀町
(現・島根県松江市雑賀町)
没年月日 (1949-11-20) 1949年11月20日(83歳没)
死没地 日本の旗 日本 静岡県伊東市
出身校 帝国大学法科大学(現・東京大学
前職 大蔵省次官
所属政党立憲同志会→)
憲政会→)
立憲民政党
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
男爵
法学士(帝国大学・1892年
配偶者 若槻德子(従妹)
子女 若槻有格(長男)
田原繁子(長女)
親族 若槻敬(養父)
奥村譲(兄)
サイン WakatsukiR kao.png

内閣 第2次若槻内閣
在任期間 1931年4月14日 - 1931年12月13日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第25代 内閣総理大臣
内閣 第1次若槻内閣
在任期間 1926年1月30日 - 1927年4月20日
天皇 大正天皇
昭和天皇

日本の旗 第4代 拓務大臣(首相兼任)
内閣 第2次若槻内閣
在任期間 1931年9月10日 - 1931年12月13日

内閣 加藤高明内閣
在任期間 1926年1月28日 - 1926年1月30日

日本の旗 第41-42代 内務大臣
内閣 加藤高明内閣
第1次若槻内閣(首相兼任)
在任期間 1924年6月11日 - 1926年6月3日

その他の職歴
日本の旗 第17代 大蔵大臣
1914年4月16日 - 1915年8月10日
日本の旗 第15代 大蔵大臣
1912年12月21日 - 1913年2月20日
日本の旗 貴族院議員
1911年8月24日 - 1947年5月2日
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貴族院議員、大蔵大臣(第1820代)、内務大臣(第4142代)、内閣総理大臣(第2528代)、拓務大臣第4代)などを歴任した。

生涯

生い立ち

松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。

実母・クラは禮次郎が3歳の頃急死した。この頃、長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で京都に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら内職をし、かつ留守番を務めた[1]

奥村家は足軽の中でも格式の低い家で、雑賀町の中央に近いところに家を構えることもできず、場末ともいうべき外れの方の借家に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父・仙三郎は西田中というところに小さな家を新築した[1]

奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、礼次郎は木刀一本を腰に差して寺子屋に通った[注釈 2]

小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後にやめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で学資が続かず、在学8ヵ月か9ヵ月で中学を辞め、しばらくは山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをした。

16歳のころから3年ほど、小学校代用教員をする。明治15年(1883年)、陸軍士官学校の生徒募集があった。官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査ではねられた。

その翌年、司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は東京まで出て行かなければならない。しかしその費用がなかったので、能義郡長をしていた叔父・若槻敬に相談し、30円の金を借りて、明治16年(1884年)7月頃、数えで19の年に松江を出た[2]

学生時代

東京では大学予備門に通っていた岸清一(のち法学博士)の下宿へ転がり込んだ。岸とは血のつながりはないが、近い親戚であった[3]。やがて狭い下宿を見つけて、そこへ移った。

司法省法学校の入学試験というのは『論語』『孟子』の解釈と、『資治通鑑』の白文訓点の2課目だった。礼次郎は定員50名に対して受験者約1,500名という狭き門を突破して同校予科へ進学した。織田萬などが同期の入学であった。在学中に前述の叔父・若槻敬の養子となり、若槻姓となる。

明治25年(1892年)7月、帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。同期に、後に司法大臣鉄道大臣を歴任した政党政治家・小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家・水野錬太郎常設国際司法裁判所所長・安達峰一郎らがいる。若槻は、法学校でも帝国大学でも常に首席であった。荒井賢太郎安達峰一郎とが彼の次席を争っていた。

大蔵省時代

若槻は大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。この間、帝大時代の師である同郷の梅謙次郎のもとで、和仏法律学校法政大学民法租税法講師を務め、政界入り後も理事や顧問に就任している[4]大正元年(1912年)、第3次桂内閣大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年(1915年)まで第2次大隈内閣で再度大蔵大臣を務めた。大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣内務大臣となり、翌年、普通選挙法治安維持法を成立させる。

第1次若槻内閣

憲政会の会合にて

加藤高明が首相在職中に死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣する。この第1次内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。

大正15年(1926年)12月25日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和改元された。明けて昭和2年(1927年)1月、少数与党で臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」に関して、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は立憲政友会総裁・田中義一政友本党総裁・床次竹二郎待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして3人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに若槻内閣は退陣し、憲政の常道に基づき野党政友会が組閣の大命を受けるよう取り計らうことを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。

また帝国議会終盤の3月14日、衆議院予算委員会で大蔵大臣・片岡直温は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発した。

大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちは、ここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。

若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、枢密院は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは憲法違反であるとして否決してしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に内閣総辞職し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。

第2次若槻内閣

政治家時代の若槻

次に若槻が内閣を組織するのは昭和6年(1931年)4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。世界大恐慌と濱口内閣の緊縮政策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州モンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蒋介石北伐の完成により条約上の危機に瀕していた(中華民国蒋介石政府は1928年7月19日に日清通商航海条約の一方的破棄を宣言しており、日本政府はその無効を主張していた。さらに懲弁国賊条例[注釈 3]により間島や満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要され、あるいは迫害されていた)。9月18日には柳条湖事件を契機とした満州事変が発生し、若槻の不拡大方針は国民、軍部への指導力を発揮することができず、ついには内務大臣・安達謙蔵が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で12月には閣内不一致による総辞職となった。

重臣時代

その後、若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、重臣会議のメンバーにもなった。重臣グループでは岡田啓介とともに和平派・穏健派の中心人物であり、昭和天皇からの信任もきわめて厚かった。昭和10年代前半に次期内大臣という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。

昭和16年(1941年)には、東條英機を次期首相として奏薦した重臣会議において、宇垣一成を次期首相に推し、論争を繰り広げている。戦争末期には重臣の一人として終戦工作に関与した。昭和19年(1944年)には、重臣会議に出席した東條を戦時経済遂行の面で激しく論難、東條の面目を失墜させ、東條内閣倒閣に重要な役割を果たした。昭和20年(1945年)に入ってからは鈴木貫太郎内閣の奏薦やポツダム宣言受諾などに大きく関わった。

戦後、東京裁判の首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは昭和23年(1948年)10月に若槻、岡田啓介宇垣一成米内光政の4人を「戦前を代表する平和主義者」と称え、パーティーに招待している。

若槻は、それから約1年後の昭和24年(1949年)11月20日、狭心症で倒れ、静岡県伊東市の別邸に於いて薨去。享年83(満)。なお、この別邸は現在日帰り温泉施設の伊東わかつき別邸となっている。

人物像

  • 若槻は事務能力に秀でた政治家であった。矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩12時頃帰宅して熱燗を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。…非常に事務的な正覚坊と謂ひ得る」[5]と書いている。
  • 1926年2月14日に若槻は西園寺公望を訪問したが、面会後の西園寺の感想について松本剛吉の記録によると、「彼の男は桂の次官をした男故、妥協で議会を切り抜ける位は上手だろうが、後は言わぬ方が宜しいだろうと言われたり」、松本は西園寺の話は若槻が首相の器に非ずと解釈した。[6]
  • 息子の有格は雑誌『民政』の記者に父について「今日は平生より可成り酔ってゐるやうだな、と思って時に何か緊急な用事……先づ政治上の用向なんぞが出来ますと、今まで酔って居たのが拭き取ってゞも了(しま)ったやうに、しらふに成って了って態度も言葉も又容貌も、丸で一滴も飲まない時に返って其用件を片付けます。然うしてその用が済むと又面上に酔が浮かんで陶然とした容子(ようす)になるのです」と語っている[7]
  • ロンドン海軍軍縮会議の首席全権になった際、「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」と国力と調和した軍備を訴え、右翼から攻撃されている。



注釈

  1. ^ 学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書では歴史人物名の表記として「若槻礼次郎」、存命当時の『職員録』などでは「若槻禮次郎」、御署名原本における署名も「若槻禮次郎」(ただし「禮」は草書体)である。
  2. ^ 若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ帯刀であった。私は数え年七つの時、寺子屋に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。しかし、それは抜けない木刀であった」という。
  3. ^ 懲弁国賊条例は1915年のいわゆる対華21カ条要求交渉の際、中華民国が同交渉による2条約13公文を無効化するために6月22日に発出したものであるが、1929年には「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」など60の追加法令を発して、土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収をはかっていた。

出典

  1. ^ a b c 豊田『宰相・若槻礼次郎』173頁。
  2. ^ 若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 18-25頁
  3. ^ 若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁
  4. ^ 『法政大学校友名鑑』(1941年)
  5. ^ 「若槻氏の癖」『中央公論』第42巻第2号、昭和2年(1927年)
  6. ^ 『大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌』(岩波書店、1959年),p.480。
  7. ^ 「三府楼主人「若槻全権の酒量大観」『民政』第3巻第12号、昭和4年(1929年)
  8. ^ 『官報』第8454号、明治44年8月25日。
  9. ^ 『官報』第8709号、明治45年7月1日。
  10. ^ 『官報』第3248号「叙任及辞令」1894年5月1日。
  11. ^ 『官報』第5247号「叙任及辞令」1900年12月26日。
  12. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  13. ^ 『官報』第6474号「叙任及辞令」1905年2月1日。
  14. ^ 『官報』第1287号「叙任及辞令」1931年4月17日。
  15. ^ 『官報』第4663号「叙任及辞令」1942年7月27日。
  16. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  17. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  18. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  19. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  20. ^ 『官報』第1741号「叙任及辞令」1918年5月24日。
  21. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  22. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  23. ^ 『官報』第1284号「叙任及辞令」1931年4月14日。
  24. ^ 『官報』第5398号「宮廷録事」1945年1月16日。
  25. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  26. ^ a b 豊田『宰相・若槻礼次郎』172頁。
  27. ^ 豊田『宰相・若槻礼次郎』174頁。
  28. ^ 豊田『宰相・若槻礼次郎』191-192頁。
  29. ^ 豊田『宰相・若槻礼次郎』184頁。
  30. ^ 鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』1965年、145頁。


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