花魁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 13:37 UTC 版)
しきたり
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下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、高級遊女を揚げるには様々なしきたりが存在していたといわれるかもしれない。
- 大店には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。このため、茶屋で豪勢に遊び金を落とす必要があった。
- 座敷では、遊女は上座に座り、客は常に下座に座っていた。花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。
- 初会(1回目)、遊女は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。この際、客は品定めをされ、ふさわしくないと思われたらその遊女とは付き合うことができなかった。客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
- 裏(2回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
- 3回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。通常は、3回目でようやく床入れ出来るようになった。
- 馴染みになると、客が他の遊女に通うのは浮気とみなされる。他の遊女に通ったことがわかると、客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。客は金を支払って詫びを入れたという。ただし宝暦(18世紀半ば)以降ではこのような廓の掟は廃れている。
- 馴染みの客の指名がかち合うこともある。その際は名代といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。一方で、通常の揚代金を取られることになる。(ただしこれは花魁に限ったことではない)
ただし上記の「初会~馴染み」のようなしきたりは実在が疑問視されている。また実在したとしても、あくまでも大名や豪商が主たる客層であった江戸前期(元禄ごろ、17世紀末)の全盛の太夫に、そのような接客を行った者もいた程度の特異な例であると考えられる。
理由として安価に利用ができる飯盛旅籠(宿場女郎)や岡場所の隆盛したことや、主たる客層が武士層から町民層に移ったことなどにより、煩雑な作法や格式と高価な吉原の運営方式が敬遠されるようになった。 それは宝暦年間には吉原では高価な揚げ屋遊びの消滅や、歴代「高尾太夫」を抱えていた高級店「三浦屋」の廃業、そして太夫の位も無くなるなど顕著に現れ、宝暦以降の吉原は旧来の格式や作法は解体され大衆化路線へと進んだ。
宝暦以降の記録では高級遊女であった呼び出し昼三(花魁)も初会で床入れしており、『古今吉原大全』などこの時期の文献にも「初会〜馴染み」の手順は記載されていない。少なくとも「太夫」に代わり「花魁」の呼称が生じた宝暦以降では、上述のようなしきたりの一般化は考えられず、後世に誇張された作法として伝わったものと考えられる。
『古今吉原大全』によれば「初会で床(とこ)に首尾(しゅび)せぬは客のはじ、うらにあわぬは女郎のはじと、いゝつたふ」とあり、初会の客をつなぎ止めなければ遊女の落ち度となるとされていた。
なお現存する錦絵や歌舞伎芝居や落語、講談、映画やテレビドラマなどの、フィクション世界での遊女の姿は文化・文政期(19世紀初め)の風俗を参考としており、対していわゆる廓の掟と称されるものは宝暦(18世紀半ば)以前の作法に由来するものが多く、虚像と実像には時代的に大きな開きがある点も注意が必要である。(参考:永井義男『図説吉原入門』学研)
- ^ 石井良助『吉原』P122 127
- ^ The nightless city, or, the "History of the Yoshiwara Yūkwaku"Joseph Ernest De Becker(小林米珂)、1899
- ^ 小松奎文『いろの辞典(改訂版)(綺語文章 壹之巻 おいらんの傳)』文芸社、2002年。ISBN 4835514998。
- ^ 『源氏物語』「若菜」上「見返り給(たま)へる面持(おもも)ち・もてなしなど、おいらかにて」(振り返りなさった様子・所作などが、おっとりとしていて)
- ^ 大木康『明末のはぐれ知識人-馮夢龍と蘇州文化』(講談社選書メチエ、1995年)p.5,14
- ^ 藤田真一 関西大学文学部コラム 第41回『京都・角屋の文化 -学問の手伝えること-』 関西大学、2006年1月27日。
- ^ 今日の貨幣価値で数千万円から億に近い価格。
- ^ 小谷一郎「村松梢風と中国 : 田漢と村松、村松の中国に対する姿勢などを中心に」『一橋論叢』第101巻第3号、日本評論社、1989年3月、393-408頁、doi:10.15057/12585、ISSN 00182818、NAID 110000315425。
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