芥川龍之介
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河童忌
芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年(昭和5年)の四回忌から「河童忌記念帖」として文藝春秋誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない[19]。
1976年(昭和51年)の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の東京会館で偲ぶ会が催された。この日は第75回芥川賞の贈呈式で、受賞した村上龍も花を手向けにきた[19]。没後90年にあたる2017年(平成29年)からは田端文士村記念館が世話役となり、「河童忌」イベントを開催している[20]。
記念館
芥川はいわゆる田端文士村の一員であった。地元の東京都北区は、芥川旧居跡地の一部を購入し「芥川龍之介記念館」(仮称)を2023年に開館する計画を2018年6月に発表した[21]。
その他
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- 夏目漱石の葬儀の際に江口渙とともに受付を務め、弔問にきた森鷗外の名刺を受け取っている。
- 師であり自分を見出してくれた夏目漱石を終生尊敬し続けた。いくつかの作品で「先生」という敬称で登場し、遺作である『歯車』『或阿呆の一生』でも言及している。
- 大の風呂嫌いで、めったに風呂に入らなかったという。入ったとしても、手ぬぐいは持っていかなかったという。
- 大の犬嫌いだったが、晩年、死の直前になってからは、なぜか犬をまったく怖がらなくなった。犬を主人公とする児童文学『白』を改造社出版の雑誌『女性改造』に寄稿したのもこの時期である。
- 『文芸家たらんとする諸君に与ふ』という小文において「文芸家たらんとする中学生は、須らく数学を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその頭脳常に理路を辿る事迂にして、到底一人前の文芸家にならざるものと覚悟せよ。文芸家たらんとする中学生は、須らく体操を学ぶこと勤勉なるべし。然らずんばその体格常に薄弱にして、到底生涯の大業を成就せざるものと覚悟せよ」と述べ、数学や体操を勤勉に学ばなければよい文芸家にはなれないと主張している[22]。ただし、同じ文の中で「こは予自身の経験に基く言にして、予亦然く中学時代を有効に経過せざりしを悲しみつつあるものなり」とも述べていることから、片野善一郎は「中学時代に一生懸命に勉強しなかったことを後悔しているくらいであるから、芥川は数学はあまり得意でなかったのかもしれない」と推察している[22]。
- 黒澤明の『羅生門』(日本映画初のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞)は芥川の『藪の中』『羅生門』から題材を借りている。
- 小説家仲間から巨根として知られていた。親友の小穴隆一は作家仲間たちが芥川の巨根ぶりを話の種に笑い合っていたことを書き記している。また、芥川の息子も、徴兵時の身体検査で軍医からその巨根ぶりを指摘されたことを書き残している。
- 俳人としては高浜虚子の『ホトトギス』や河東碧梧桐の『海紅』に拠って[23]『澄江堂句集』を残している。また詩、短歌、旋頭歌などの作品も残している[24]。
- 家紋は「五七桐」である。
著作
- 老年 1914年
- バルタザアル 1914年(翻訳、原作アナトール・フランス)
- 「ケルトの薄明」より 1914年(翻訳、原作ウィリアム・バトラー・イェイツ)
- 春の心臓 1914年(翻訳、原作ウィリアム・バトラー・イェイツ)
- クラリモンド 1914年(翻訳、原作テオフィル・ゴーティエ)
- 羅生門 1915年
- 鼻 1916年
- 芋粥 1916年
- 手巾 1916年
- 煙草と悪魔 1916年
- さまよえる猶太人 1917年
- 戯作三昧 1917年
- 運 1917年1月
- 道祖問答 1917年4月
- 偸盗 1917年4月・6月
- 蜘蛛の糸 1918年
- 地獄変 1918年
- 邪宗門 1918年
- 奉教人の死 1918年
- 枯野抄 1918年
- るしへる 1918年
- 犬と笛 1919年
- きりしとほろ上人伝 1919年
- 魔術 1919年
- 蜜柑 1919年
- 舞踏会 1920年
- 秋 1920年
- 南京の基督 1920年
- 杜子春 1920年
- アグニの神 1920年
- 黒衣聖母 1920年
- 藪の中 1922年
- 神神の微笑 1922年
- 将軍 1922年
- 報恩記 1922年
- 三つの宝 1922年
- トロツコ 1922年
- 魚河岸 1922年
- おぎん 1922年
- 仙人 1922年
- 六の宮の姫君 1922年8月
- 侏儒の言葉 1923年 - 1927年
- 漱石山房の冬 1923年
- 猿蟹合戦 1923年
- 雛 1923年
- おしの 1923年
- 保吉の手帳から 1923年
- 白 1923年
- あばばばば 1923年
- 一塊の土 1924年
- 桃太郎 1924年
- 大導寺信輔の半生 1925年
- 点鬼簿 1926年
- 玄鶴山房 1927年
- 河童 1927年
- 誘惑 1927年
- 蜃気楼 1927年
- 浅草公園 1927年
- 文芸的な、余りに文芸的な 1927年
- 歯車 1927年
- 或阿呆の一生 1927年
- 西方の人 1927年
- 続西方の人 1927年
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注釈
- ^ 長女の急死が原因であったと推測されることがある。
- ^ 防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録『職員進退録』に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、アジア歴史資料センターでのネット公開の対象外である。
- ^ 西川は弁護士であったが偽証教唆の罪で失権し、刑務所に収監され、出所後に自宅が半焼した際に直前に多額の保険金をかけていたことや家屋の2階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことから保険金詐欺目的の放火が疑われていた。
出典
- ^ 神の罠, 36頁
- ^ 神の罠, 38.178頁
- ^ 関口 1992, p. 213
- ^ 芥川龍之介 「入社の辞」、1919年3月。
- ^ 海軍兵学校物語, p. 73
- ^ 関口 2010, p. 52
- ^ 川端康成 「芥川龍之介氏と吉原」
- ^ 神の罠, 39頁
- ^ 山崎光夫 『藪の中の家』 中公文庫、2008年。(第四章六 - より)
- ^ 芥川文、中野妙子記 『追想芥川龍之介』 中公文庫、1981年、p.170
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172662/15 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1939年版(検閲による削除あり)国立国会図書館所蔵}
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180947/16 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1927年版(検閲による削除なし)国立国会図書館所蔵}
- ^ 神の罠, 40.177頁
- ^ 神の罠, 178-179頁
- ^ 芥川龍之介 「或旧友へ送る手記」、1927年7月。
- ^ 久世番子『よちよち文藝部』文藝春秋、2012年10月、152-153頁
- ^ 『芸能人と文学賞 〈文豪アイドル〉芥川から〈文藝芸人〉又吉へ』川口則弘、ベストセラーズ, 2017、「芥川のブロマイドが芥川賞の根源にあった--「作家」というアイドルの誕生」の章
- ^ 菊池寛 「芥川の事ども」、『文藝春秋』1927年9月号。
- ^ a b 木口直子(田端文士村記念館学芸員) 「芥川龍之介没後九十年”河童忌”の新たな幕開けに添えて」 『文藝別冊 芥川龍之介』 河出書房新社、2017年、201-208頁。
- ^ “イベント一覧”. 田端文士村記念館 北区文化振興財団. 2019年2月4日閲覧。
- ^ 「芥川龍之介記念館」整備/北区が旧居跡地購入へ 書斎再現や資料展示『毎日新聞』朝刊2018年6月7日(東京面)2018年6月7日閲覧。
- ^ a b 片野 2006, p. 15-16
- ^ 芥川龍之介 「わが俳諧修業」
- ^ 吉野裕之 「緑いろの何か-あるいは、芥川を撃った赤い光」、『歌壇』1996年6月号。
- ^ 天満ふさこ『「星座」になった人―芥川龍之介次男・多加志の青春』新潮社、2007年6月。ISBN 978-4103049715。
- ^ 2007年8月15日放送「世界バリバリ★バリュー」、2008年4月20日放送「大胆MAP」より
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