良栄丸遭難事故
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- 1926年(大正15年/昭和元年)12月に千葉県銚子の沖で、和歌山県の漁船良栄丸が遭難し、乗組員12人が全員死亡・行方不明となった事故
- 1960年(昭和35年)1月に静岡県の沖で、高知県の漁船第2良栄丸が遭難し、乗組員3人が行方不明、9人が救助された事故[1][信頼性要検証][2]
がこう呼ばれるが、ここでは前者について述べる。
注釈
- ^ 昭和2年(1927年)3月6日のこと。良栄丸乗組員は昭和への改元を知らずにいた。
- ^ 船乗りの慣習で日本では船員法に公海上の規定にある。
- ^ a b 「めぐり合わせの悪いこと」と同義。しあわせ【幸せ/仕合(わ)せ/倖せ】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
- ^ a b 「イサク」はおそらく人名、男性の老人(爺さん)を指しており、その妻の女性を「婆さん」と表現している。
- ^ a b c d e f 三鬼の息子・喜久男。
- ^ a b 牟婁郡一帯の方言。「大きく」
- ^ a b 近県の三重県尾鷲市。三鬼の妹の嫁入り先であり、長男の学校への入学はその土地の知人たちに力添えを頼めとしている。
- ^ a b 三鬼の義弟(妹の夫)・寅吉。
- ^ a b 「私のすきなのは」が脱字したものと思われ、そうめんと餅が好物と述べている。
- ^ a b 三鬼の娘・勝江。
- ^ a b c d e 「父さん」の幼児語。三鬼が子供たちに自分をこう呼ばせていたと思われる。なお、勝江から父に宛てた手紙(船内で発見)には、「とっさん」と書かれている。
出典
- ^ a b c “幽霊船の航海日誌”. 誰か昭和を想わざる. 2019年8月14日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ “無人島で九人救助 遭難の第二良栄丸”. 朝日新聞(東京朝刊): p. 11. (1960年1月26日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- ^ “はらわたを絞らせる良栄丸船長の遺書 子供は必ず漁師にするなと 昨日盛大に遭難者追悼”. 朝日新聞(東京朝刊): p. 7. (1928年1月14日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- ^ “涙新たに良栄丸の遺品 谷阪氏が携えて昨朝横浜へ 悪むべき排日宣伝”. 朝日新聞(東京朝刊): p. 7. (1927年11月28日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- ^ “焼かれた良栄丸 人里離れた海岸で シヤトルから最近の便り”. 朝日新聞(東京朝刊): p. 7. (1927年12月1日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- ^ “死の船『良栄丸』は、太平洋を何うさ迷ったか 藤原博士が苦心研究した興味ある漂流経路”. 朝日新聞(東京朝刊): p. 7. (1928年1月14日) - 聞蔵IIビジュアルで閲覧
- 1 良栄丸遭難事故とは
- 2 良栄丸遭難事故の概要
- 3 概要
- 4 当事件に関するデマ
- 5 脚注
固有名詞の分類
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