舞鶴市
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歴史
先史
市内でもっとも古い遺跡は由良川沿いにある志高(しだか)遺跡で、縄文時代前期初頭の土器が出土している。 市内の縄文時代前期の遺跡としては、同じく由良川沿いに地頭遺跡・和江遺跡があるほか、大浦半島にも浦入(うらにゅう)遺跡がある[10]。 縄文時代中・後期には入植が市内全域に広がったとされ、東舞鶴の朝来(あせく)遺跡や西舞鶴の今田遺跡などが見つかっている。浦入遺跡からは丸木舟の遺構が発見されており、隠岐産の黒曜石や北陸産の蛇紋岩製耳飾りなどが見つかっていることから、当時舞鶴に住んでいた人が海を介して遠隔地の人と交流していたことが分かっている[11]。
弥生時代には志高遺跡をはじめとして、由良川の自然堤防上に複数の集落が形成され、水田の開発も市域の周辺部にまで広がっていった[11]。志高遺跡からは銅鐸や銅剣形石剣が発見されており、当時豊作祈願や、収穫を祝う祭礼が執りおこなわれていたと想像されている。また、当地では方形周溝墓や貼石墓、弥生時代末期になると方形台状墓が作られるようになった[12]。
古代
弥生時代以降、由良川下流域を見渡す山の上に墳墓が築かれるようになり、その立地から由良川の水運を掌握した首長らの墓であると考えられている。鉄製農具の普及や灌漑設備によって農業生産力が向上したことにより各地の豪族が力をつけ、舞鶴地域には300基を越す古墳が作られた。その多くは6世紀後半に作られた横穴式石室を備えるものであり、これは大和朝廷の支配の影響であると見られている[12]。また、東舞鶴の妙見山古墳のように、農民の有力者が作ったと考えられる古墳も現れるようになった[13]。
651年(白雉2年)に作られたとされる、法隆寺旧蔵・東京国立博物館所蔵の銅造観音菩薩立像には「辛亥年七月十日に崩去した笠評君のため、その日、遺児と伯父の二人が造像を発願した」との銘が彫られており、これは同地域についての記述としては最も古いものであると考えられている[14][15]。ほか、藤原京からは「丹波国加佐郡白薬里[注 1]大贄久己利魚腊[注 2]一斗五升和銅二年四月」と書かれたものなど、あわせて5枚の木簡が見つかっている[15]。713年(和銅6年)には丹波国から加佐郡を含む5郡が割かれて、丹後国が成立した[15]。
奈良時代の初期、志高遺跡では里長などの一部階級をのぞいては、ほとんどの人が竪穴住居に住んでいたが、奈良後期から平安時代初頭には村人の家も掘立柱建物となった。浦入遺跡では奈良時代後半から製塩・鍛冶が盛んになり、生産活動の拠点として人や物資が集まった[16]。延喜式神名帳には加佐郡の式内社として11座が掲載されており、うち名神大社に列せられた大川神社は、名神祭の際には朝廷から絹糸や真綿といった頒幣にあずかった[17][18]。ほか、古代に建立されたと考えられる寺院には、多禰寺・円隆寺・松尾寺・金剛院などがある。平安時代中期より末法思想が流行すると舞鶴地域でも油江(ゆご)、天台などで経塚が造営された[16]。
中世・近世
村上天皇の女御が寄進したとされる志高荘を皮切れに、舞鶴地域でも荘園の成立が進み、『丹後国諸荘園郷保惣田数帳』によると1288年(正応元年)にはすでに市域全域で中世的な荘園や郷が成立していた[16]。『吾妻鏡』によれば、1195年(建久6年)に志楽荘の住民が地頭後藤基清の乱暴狼藉を鎌倉幕府に訴えている[19]。南北朝時代において、丹後国はおおかた北朝勢力下にあったとされるが、1337年(建武4年)には岡田荒張城(現舞鶴市)の南朝勢力と北朝の吉川経久が戦争を行っているなど、時勢は単純ではなかった[19][20]
南北朝期の丹後国守護は目まぐるしく変わったが、1391年(明徳2年)に起こった明徳の乱ののちは一色氏の領国となった[19]。この乱で戦功を残した一色満範は足利義満より、もと山名氏の領国であった丹後国を与えられ、八田(現舞鶴市の田辺)に守護所を置いた[21]。一時若狭武田氏が丹後守護に任ぜられた時期はあったが、守護の名実を問わず一色氏が勢力を保ち続けた[19][22]。戦国時代には舞鶴地域は一色義清・一色九郎ら一色氏内の各派閥と武田氏が相争う戦場となり、一色九郎方の丹後守護代・延永春信が現在の舞鶴市行永にある倉橋城に立てこもっている[23][24]1582年(天正10年)より細川藤孝・明智光秀の連合軍が織田信長の命を受けて丹後に攻め入り、一色氏は滅亡した[25]。舞鶴市鹿原/小倉を支配する小倉(真迫山)城主・大倉播磨守、同じく但馬谷城主・市村出羽守(大倉氏の一族か)も、細川氏によって滅ばされた。
1580年(天正8年)より丹後国は細川氏所領となった。当主・細川忠興は宮津城に、忠興の父藤孝は田辺郷八田村に田辺城を築き、居住した[2]。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで両人は東軍に属し、藤孝は田辺城にて西軍1万5000人あまりを60日間にわたって引きつける大功を立てた[26]。戦後の論功行賞で細川氏に豊前国・豊後国に計39万9000石が与えられ、忠興が豊前中津城に移ったのち丹後には京極高知が入国、田辺城に住した[27][23]。
1622年(元和8年)高知の遺訓により遺領は3人の息子に分与され、次男の高三が丹後田辺藩3万5000石を立てた[23]。上方全域を譜代大名領にする幕府の政策により、
1668年(寛文8年)に京極高盛が但馬国豊岡藩に移封されたのち牧野親成が入封、幕末まで牧野氏の領国となった[28][29]。
近代・現代
1872年(明治2年)の版籍奉還後、田辺藩は紀伊田辺藩との混同を避けるために田辺城の雅称「舞鶴城」より「舞鶴藩」に改名された[30][23]。舞鶴藩は廃藩置県ののち1876年(明治9年)に京都府に編入、1880年(明治12年)に加佐郡役所が置かれた[23]。
1889年(明治22年)には舞鶴湾に日本海軍の基地が設置されることが決定、舞鶴港は軍港になることになった。周辺地域では実測183町(およそ1.81 km2)の土地が買収されたが、対象地域の農民には移転先の問題を含め、多大の犠牲がもたらされることとなった。1901年(明治34年)には正式に舞鶴鎮守府が発足し、日本海側唯一の軍港である舞鶴は重要な軍事基地となった[23]。中舞鶴・東舞鶴はこのときに計画的な都市設計が行われ、海軍の枢要地としての陣容が整えられた[31]。舞鶴鎮守府はロシアの日本侵入を防ぐために作られたものであり、1905年(明治38年)の日露戦争終戦を受けて同港の最重要目的は達成されたものの、1904年(明治37年)の鉄道開通により同市が陸海上交通の結節点となっていたこともあり、市の人口は増え続けた[31]。ワシントン海軍軍縮条約にともなう軍縮により、1923年(大正12年)に舞鶴鎮守府は一時廃止され、規模も縮小されたが、1939年(昭和14年)には太平洋戦争にともなう軍備拡張のため再指定されている[5]。戦争末期の1945年(昭和20年)7月29日にはアメリカ軍により模擬原爆が投下され97人が死亡、翌日には舞鶴港に停泊していた艦船が攻撃を受け、83人が死亡した[32]。
戦後舞鶴は引き揚げ港に指定され、1958年(昭和33年)の引揚援護局閉局までにソ連や満州、朝鮮などから帰還した邦人66万4531人、遺骨1万6269柱を受け入れたほか、中国に3936人、朝鮮に2万9061人を送還している[5][33]。鎮守府の解体により多くの市民が生活基盤を失ったが、1950年(昭和25年)の旧軍港市転換法が制定され、新たな産業の創出が押し進められた。具体的には、旧海軍工廠の施設を利用した造船業・鉄道車両の製造などが行われたほか、軍需工場であった繊維工場が再開され、くわえて化学肥料工場とガラス工場の誘致が行われた。また、木材を輸入して木製品・家具を作る産業が発展した。しかし高度経済成長期の終焉とともに造船業・繊維業などが構造的不況に陥り、企業城下町的経済体制のもとにあった舞鶴市は特定不況地域中小企業対策臨時措置法・特定業種関連地域中小企業臨時措置法・特定地域中小企業対策臨時措置法などの下でこうした構造的不況に取り組んでいくこととなった[34]。

1950年(昭和25年)に警察予備隊が創設されると舞鶴にも駐屯が始まり、1952年(昭和27年)には警備隊舞鶴地方隊が編成され、舞鶴地方総監部・舞鶴航路啓開隊などが発足した。その後1954年(昭和29年)には自衛隊が発足し、警備隊舞鶴地方隊は海上自衛隊舞鶴地方隊に改称された[35]。
海上自衛隊は、旧軍の用地をほぼそのまま利用しているが、旧軍用地の一部は公共施設や宅地、国道になっている。東舞鶴西部に所在する赤レンガ倉庫は、いずれも旧軍が建設したものであるが12棟が現存、8棟は国や市の文化財となり、博物館や観光施設に改装されている棟もあり、自衛隊基地と併せ貴重な観光資源となっている。なお、残る4棟は現在も海上自衛隊が倉庫として使用中である。
1953年9月25日には台風13号の接近に伴い集中豪雨が発生。市内の河川が氾濫が発生して1934年の室戸台風以来の大水害となった。死者・行方不明者45人、負傷者80人[36]。
市域の変遷
舞鶴市は1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により誕生した、加佐郡舞鶴町を前身とする自治体である。舞鶴町は旧田辺藩(舞鶴藩)の城下町であり、町村制施行時点では同郡唯一の町であった。その後、舞鶴鎮守府の誕生とそれに伴う軍港都市の整備により、1902年(明治35年)には余部町[注 3]、1906年(明治39年)には新舞鶴町が誕生した。
軍港誕生による人口急増は、旧来の中心地であった舞鶴町にも影響を及ぼし、1936年(昭和11年)8月1日には貿易促進とそれによる工場誘致のため舞鶴町が周辺5ヶ村と合併し、2年後に市制施行により舞鶴市となった。同日には海軍の強い要望により、軍港周辺の自治体であった新舞鶴町・中舞鶴町と周辺3ヶ村が合併し、東舞鶴市が誕生した。1939年(昭和14年)に、軍縮により一時要港部となっていた舞鶴鎮守府が復活し、東舞鶴市外にも軍事施設が建設されるようになったため、1942年には新たに3ヶ村が東舞鶴市に併合された[37]。
戦時にともない舞鶴港の重要性が上がっていくにつれ、海軍は両舞鶴市の合併を強く要請するようになった。旧城下町の舞鶴市と軍港都市の東舞鶴市は全く気質の異なる都市であり、合併は困難であるとみられていたが、舞鶴市に軍施設が拡大していったこともあり、鎮守府に押し切られる形で両市は1943年(昭和18年)5月27日をもって合併した[注 4]。終戦後、西舞鶴(旧舞鶴市)側から市の再分離が提案され、1950年(昭和25年)の住民投票では過半数の賛同を得たものの、実際に市町村区域の変更権を持つ京都府議会にて提案が否決されたため、分離はかなわなかった。1955年(昭和30年)には当時国と府が進めていた町村合併政策にしたがい5村が合併、加佐町が誕生し、1957年(昭和33年)には舞鶴の分離問題が下火となり、雪解けの雰囲気が広がる中で舞鶴市への編入を実現させた[38]。
1889年4月1日 | 1889年 - 1926年 | 1926年 - 1944年 | 1945年 - 1954年 | 1955年 - 1988年 | 1989年 - 現在 | |||||
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岡田上村 | 1955年4月20日 | 1957年5月27日
舞鶴市に編入 |
舞鶴市 | |||||||
岡田中村 | ||||||||||
岡田下村 | ||||||||||
丸八江村 | 1928年10月1日 | |||||||||
東雲村 | ||||||||||
神崎村 | ||||||||||
四所村 | 1936年8月1日
舞鶴町に編入 |
1938年8月1日
舞鶴市 |
1943年5月27日
舞鶴市 | |||||||
舞鶴町 | ||||||||||
高野村 | 1936年8月1日
舞鶴町に編入 | |||||||||
中筋村 | ||||||||||
池内村 | ||||||||||
余内村 | 余内村 | |||||||||
1902年6月1日 | 1919年11月1日
中舞鶴町に改称 |
1938年8月1日 | ||||||||
倉梯村 | 倉梯村 | |||||||||
1906年7月1日 | ||||||||||
志楽村 | ||||||||||
志楽村 | ||||||||||
与保呂村 | ||||||||||
朝来村 | 1942年8月1日
東舞鶴市に編入 | |||||||||
東大浦村 | ||||||||||
西大浦村 |
注釈
出典
- ^ 舞鶴市 2018, p. 12.
- ^ a b 日本歴史地名体系 1985, 『田辺城』.
- ^ a b c d 舞鶴市 2018, p. 5.
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- ^ a b c d e 舞鶴市 2018, p. 22.
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- ^ a b c d e f 日本歴史地名体系 1985, 『舞鶴市』.
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- ^ “京都府文化財、新たに10件 本満寺蓮乗院霊屋など”. 京都新聞. (2013年3月5日). オリジナルの2013年3月14日時点におけるアーカイブ。 2013年3月14日閲覧。
固有名詞の分類
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