臣籍降下 臣籍降下の概要

臣籍降下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 22:48 UTC 版)

皇籍離脱に関する現在の規定

皇室典範第十一条
年齢十五年以上の内親王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
2. 親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
同第十二条
皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。
同第十三条
皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる。但し、直系卑属及びその妃については、皇室会議の議により、皇族の身分を離れないものとすることができる。
同第十四条
皇族以外の女子で親王妃又は王妃となつた者が、その夫を失つたときは、その意思により、皇族の身分を離れることができる。
2. 前項の者が、その夫を失つたときは、同項による場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
3. 第一項の者は、離婚したときは、皇族の身分を離れる。
4. 第一項及び前項の規定は、前条の他の皇族と婚姻した女子に、これを準用する。
皇室会議

また、皇室会議での合議を要する事項の内、皇籍離脱に関わる事項は以下の通り。

  • 15歳以上の内親王女王のその意思に基づく皇籍離脱(皇室典範11条1項)
  • 皇太子・皇太孫を除く親王内親王・王・女王のその意思に関わらない皇籍離脱(皇室典範11条2項)
  • 皇籍離脱する親王・王の直系卑属とその妃が、特例として皇族の身分を離れないものとすること(皇室典範13条但書)
  • 皇族以外の女子で親王妃王妃となった者で夫を失って未亡人となった者のその意思に関わらない皇籍離脱(皇室典範14条2項)

沿革

古代

律令の規定では、皇族(当時の言葉では「皇親」)の範囲を、歴代の天皇からの直系の代数で規定しており、四世(直系の4代卑属、以下同)まではあるいは女王と呼ばれ、五世王は皇親とはならないものの王号を有し従五位下の蔭位を受け、六世目からは王号を得られないものとされた(もっとも、慶雲3年(706年)2月の格で変更あり)。そのため、歴代天皇から男系で一定の遠縁となった者は順次臣籍に入るものとされた。

しかし、平安時代前期の皇室が多くの皇子に恵まれると、規定通りに解釈した場合の四世以内の皇族が大量に発生することになり、しかもそのほとんどが皇位継承の可能性が極めて低い状態になった。また、皇族の中には国家の厚遇にかこつけて問題を起こす者もいた。これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちは、五世になるのを待たずに、臣籍降下をさせる運用が始まった。特に桓武天皇は一世皇親3名[注釈 1]を含む100名余りに対して姓を与えて臣籍降下を行った[1]嵯峨天皇はじめ、以降の天皇も多くの子女を儲け、その多くが一世で臣籍降下した。

また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士豪族となる例が多かった。

臣籍降下した元皇族は、新たにおよび姓(かばね)を下賜されて、一家を創設することが多かった(皇親賜姓、こうしんしせい)。一方で、臣下の養子(猶子)となる形で臣籍に降下する例もあった(皇別摂家)。

なお、臣籍降下に際して、諱については、王号が除かれるのみで改めないのが通常であるが、葛城王(橘諸兄)から諸兄、以仁王から以光などのように改める事例もある。

与えられる氏姓について

古来は、多様な氏が与えられていたが、平安時代に入ると、源氏および平氏のいずれかを与えるのが常例化する。

姓は、上代においては、第9代の開化天皇以降の皇別の氏族には(きみ)が与えられていた。その後、八色の姓が制定されると、第15代の応神天皇以降の皇別の氏族には多くの場合真人が、事情によりそれに続く朝臣又は宿禰の姓が与えられた。与えられる氏が源平に固定されると姓(かばね)も朝臣に固定されるようになる。

中世~近世

やがて、それまでは天皇との血縁関係によって自動的に与えられていた親王あるいは内親王の称号は、特に皇位継承候補を人為的に選別して天皇からその身分を与える、親王宣下の制度が定められ、逆に親王宣下をされなかった王は臣籍降下をするようになる。これによって、当初の律令の規定とは逆に、皇籍に残すか否かの決定が先にあり、その結果を親王/王の称号の差で公認する運用が定着する。

院政期以降は、公家における家格の形成が進み、家格秩序を崩しかねない皇親賜姓による新規の公家の創設に消極的になったことから、それまでは臣籍降下していた傍系の皇子は幼少の頃に出家させて法親王としての待遇を与えて子孫を遺させない方針を採るようになる。やがて皇位継承又は直系の血統が絶えた時の備えとしての世襲親王家伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮)相続と無関係の皇族は出家する慣例となり、賜姓皇族はほとんど現れなくなった。鎌倉時代以降、臣籍降下を行って新たに立てられて明治時代まで存続した堂上家広幡家のみであった。

旧皇室典範

明治維新前後の動乱期において、伏見宮家の邦家親王所生の多くの男子が還俗して、新たな宮号を名乗った。明治に入ると、これらの宮家の整理が図られる。

明治15年(1882年)、内規取調局が作成した「皇族内規」の初案では、「一世のみ親王」「四世王までは皇親」「五世から八世は皇親ではないが王の称号を与える」「九世には公爵を下賜(=臣籍降下)」として、律令規定を拡大する形で、世数をもとに臣籍降下を行う方針であった。

ところが、明治22年(1889年)に成立した皇室典範(いわゆる旧皇室典範)では、「四世までは親王」「五世以降は永世にわたって王」とされ、臣籍降下は永久に行わない永世皇族制がとられた。枢密院で行われた審議において、旧公家出身の三条実美内大臣は「将来皇族の数が増えすぎて、経費を賄えずに体面を汚す恐れがある」と反対したが、原案起草者の井上毅は「臣籍降下は古制に規定がなかった」と反論して、最終的には原案通り可決された。これにより、伏見宮系統の新規の宮家も子孫に継承されるようになり、宮家の数は増大した。

皇室典範が永世皇族制をとった理由としては、当時の明治天皇は男子に恵まれず、唯一夭折を免れた嘉仁親王(後の大正天皇、典範制定時に10歳)が病弱であったため、万が一の時の後継が必要とされたためである。しかも、江戸時代は世襲親王家の直系以外の男子は出家をして子を残さなかったため男系での近親が少なく、八世以内の宮家は有栖川宮のみ(当主の熾仁親王が五世)であったため、男系で遠く離れた伏見宮系統の新しい宮家(邦家親王の男子が十五世)も存続を認められたのである。

一方で、女性皇族が臣下の男性と婚姻した場合、旧来は皇族の身分を保持したままであることが通例であったが、皇室典範ではこれを改め、「臣籍にある者」と婚姻した場合(旧第44条)、皇室典範では「天皇及び皇族以外の者」と婚姻した場合(第12条)、例外なく皇籍を離脱することが定められる。ただし、旧皇室典範では、婚姻の相手は皇族王公族華族に限定され(旧第39条、皇室典範増補)、また内親王・女王の身位を保持する余地が残された(旧第44条)。

養子による臣籍降下については、この時点の皇室典範では規定がなかった。

伏見宮邦家親王直系の男性皇族の一覧(明治元年以降に生存しており、1907年までに成人を迎えた人物に限る)
邦家親王との血縁 成人を迎えた年月日 宮号継承等
晃親王 1836年10月22日(維新前) 還俗→山階宮を創設
嘉言親王 1841年2月28日(維新前) 還俗→聖護院宮を創設
朝彦親王 1844年3月27日(維新前) 還俗→久邇宮を創設
彰仁親王 1866年2月11日(維新前) 還俗→小松宮を創設
能久親王 1867年4月1日(維新前) 還俗→北白川宮を継承
博経親王 1871年4月19日 還俗→華頂宮を創設
貞愛親王 1878年6月9日 還俗→伏見宮を継承
載仁親王 1885年11月10日 還俗→閑院宮を継承
邦憲王 孫(久邇宮家) 1887年7月2日 賀陽宮を創設
依仁親王 1887年10月16日 東伏見宮を創設
菊麿王 孫(山階宮家) 1893年7月3日 山階宮を継承
邦彦王 孫(久邇宮家) 1893年7月23日 久邇宮を継承
守正王 孫(久邇宮家) 1894年3月9日 梨本宮を継承
多嘉王 孫(久邇宮家) 1895年8月17日 宮号の継承、創設、臣籍降下のいずれも行わず
博恭王 孫(伏見宮家) 1895年10月16日 伏見宮を継承
邦芳王 孫(伏見宮家) 1900年3月18日 宮号の継承、創設、臣籍降下のいずれも行わず
恒久王 孫(北白川宮家) 1902年9月22日 竹田宮を創設
成久王 孫(北白川宮家) 1907年4月18日 北白川宮を継承
鳩彦王 孫(久邇宮家) 1907年10月20日 朝香宮を創設
稔彦王 孫(久邇宮家) 1907年12月3日 東久邇宮を創設

皇室典範増補

その後、嘉仁親王は無事成人し、四人の男子に恵まれた。一方で他の宮家は、有栖川宮家は後継に恵まれず断絶したが、伏見宮系の宮家は存続し、邦家親王の孫の世代の男子も続々と宮家を創設、宮家の数はさらに増加した。皇統断絶の危機はひとまず去ったため、今度は永世皇族制の修正、宮家の増加の抑制が図られるようになる。明治40年(1907年)、皇室典範増補が成立し、以下のように定められた。

皇室典範増補第一条
王は、勅旨又は請願に依り、家名を賜ひ家族に列せしむることあるべし。
同第六条
皇族の臣籍に入りたる者は、皇族に復することを得ず。

これにより、五世以下の王は、宮家を立てずに臣籍降下をする道が開かれた。ちょうどこの年成年を迎えた北白川宮家の輝久王(邦家親王の孫の世代の最年少)が、明治43年(1910年)に臣籍降下して小松侯爵となったのが初例となった。

伏見宮邦家親王直系の男性皇族の一覧(1908年~1920年5月19日の間に成人を迎えた人物)
邦家親王との血縁 成人を迎えた年月日 宮号継承等
輝久王 孫(北白川宮家) 1908年8月12日 臣籍降下、小松侯爵家創設
博義王 曾孫(伏見宮家) 1917年12月8日 伏見宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
武彦王 曾孫(山階宮家) 1918年2月13日 山階宮を継承
恒憲王 曾孫(賀陽宮家) 1920年1月27日 賀陽宮を継承

また、典範制定時は一旦廃絶された、養子による臣籍降下については、増補第2条により、王は、華族の家督相続人となることが認められるようになった。もっとも、実際にこの規定が実行されたケースはなかった。が、傍系の男性皇族が臣籍降下するとき、廃絶した宮家の祭祀を継承した例はある。

皇族降下の施行準則

この後は伏見宮系の男性皇族で成年を迎える世代がしばらくおらず、具体的な運用面で問題になることはなかったが、邦家親王の曾孫の世代の男子が成年を迎える頃になった大正7年(1918年)頃から、更に具体的な臣籍降下の基準作りがはじまる。同年、波多野敬直宮内大臣が、臣籍降下の基準の作成を帝室制度審議委員会(伊東巳代治委員長)に依頼、同委員会での議論を経て、大正9年(1920年)、枢密院に「皇族の降下に関する内規」が提出され、更に枢密院は「皇族の降下に関する施行準則」と改めて、可決した。次いで、同年5月15日、皇族会議に諮詢された。

しかし、この準則で臣籍降下の基準を明文化することについては、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とすることや、運用が一律・機械的になることへの懸念などが出され、枢密院の審議では、個別の事情に応じて判断する旨の説明なされた。皇族会議でも一部の皇族が異論が出されたため、宮内省側は、皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わず、議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させ、5月19日に大正天皇の裁定によって成立することとなった。

第一条
皇玄孫の子孫たる王、明治四十年二月十一日勅定の皇室典範増補第一条、及皇族身位令第二十五条の規定に依り、情願を為さざるときは、長子孫の系統四世以内を除くの外、勅旨に依り家名を賜ひ華族に列す。
第二条
前条の長子孫の系統を定むるは、皇位継承の順序に依る。
第四条
前数条の規定は、皇室典範第三十二条の規定に依り、親王の号を宣賜せられたる皇兄弟の子孫に之を準用す。
附則
此の準則は、現在の宣下親王の子孫、現に宮号を有する王の子孫並兄弟及其の子孫に之を準用す。但し第一条に定めたる世数は、故邦家親王の子を一世とし実系により之を算す。

この規則により、王の臣籍降下の基準として、「現に存在する宮家の継承者以外(=長男以外)」という要件が加わった。また、「長子孫の系統四世」(王として四世、つまり親王を含むと八世)を超えた場合、すなわち天皇から数えて九世の王は、宮家の長男であろうが全員が臣籍降下をすることになっていた。ただし、当時の伏見宮家系統の皇族は全員が九世を大幅に超過しており、そのまま適用すると直ちに全員が降下することになっていたことから、特別に邦家親王を四世親王とみなして運用するようになった。

この年の7月に成年を迎えた山階宮家の芳麿王が早速この準則の適用第一号となり、以降、この要件を満たした王の臣籍降下が続いた。

なお、運用面では、勅旨によって強制的に降下するのではなく、皇室典範増補第1条に基づく「情願による賜姓降下」がとられて、建前上は各皇族の自発意思によるものという形式がとられた。また、この運用の期間中、「個別の事情に応じて判断」して皇籍に残ったケースはなかった。

また、九世王は全員が降下する規定については、この世代が成年を迎える前に、運用自体が失効したため、実際に適用されることはなかった。

伏見宮邦家親王直系の男性皇族の一覧(1920年5月19日~1947年10月14日の間に成人を迎えた人物)
邦家親王との血縁 成人を迎えた年月日 宮号継承等
芳麿王 曾孫(山階宮家)
七世王扱い
1920年7月5日 臣籍降下、山階侯爵家創設
朝融王 曾孫(久邇宮家)
七世王扱い
1921年2月2日 久邇宮を継承
邦久王 曾孫(久邇宮家)
七世王扱い
1922年3月10日 臣籍降下、久邇侯爵家創設
春仁王 孫(閑院宮家)
六世王扱い
1922年8月3日 閑院宮を継承
藤麿王 曾孫(山階宮家)
七世王扱い
1925年2月25日 臣籍降下、筑波伯爵家創設
博信王 曾孫(伏見宮家)
七世王扱い
1925年5月22日 臣籍降下、華頂侯爵家創設
萩麿王 曾孫(山階宮家)
七世王扱い
1926年4月21日 臣籍降下、鹿島伯爵家創設
茂麿王 曾孫(山階宮家)
七世王扱い
1928年4月29日 臣籍降下、葛城伯爵家創設
恒徳王 曾孫(竹田宮家)
七世王扱い
1929年3月4日 竹田宮を継承
永久王 曾孫(北白川宮家)
七世王扱い
1930年2月19日 北白川宮を継承
邦英王 曾孫(久邇宮家)
七世王扱い
1930年5月16日 臣籍降下、東伏見伯爵家創設
博英王 曾孫(伏見宮家)
七世王扱い
1932年10月4日 臣籍降下、伏見伯爵家創設
孚彦王 曾孫(朝香宮家)
七世王扱い
1932年10月8日 朝香宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
正彦王 曾孫(朝香宮家)
七世王扱い
1934年1月5日 臣籍降下、音羽侯爵家創設
盛厚王 曾孫(東久邇宮家)
七世王扱い
1936年5月6日 東久邇宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
家彦王 曾孫(久邇宮家)
七世王扱い
1940年3月17日 臣籍降下、宇治伯爵家創設
彰常王 曾孫(東久邇宮家)
七世王扱い
1940年5月13日 臣籍降下、粟田侯爵家創設
邦寿王 玄孫(賀陽宮家)
八世王扱い
1942年4月21日 賀陽宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
徳彦王 曾孫(久邇宮家)
七世王扱い
1942年11月19日 臣籍降下、龍田伯爵家創設
治憲王 玄孫(賀陽宮家)
八世王扱い
1946年7月3日 臣籍降下の予定だったが、その前に宮家ごと皇籍離脱。

1947年の11宮家の臣籍降下

昭和20年(1945年)、第二次世界大戦の敗戦により、日本は連合国軍による占領を受け、主権を一時喪失する。敗戦政策の中で、皇族の大多数は、臣籍降下を余儀なくされた。

まず、敗戦直後から一部皇族は、敗戦の責をとってぞ初的な皇籍返上を申し出ており、特に、敗戦直後に首相として一時政治を担った東久邇宮稔彦王は首相辞任直後の10月12日、宮中改革の一環として傍系宮家は臣籍に下り、一国民として仕えるという持論を公表する。しかしこの意見に対しては、皇室内部からも、宮家の減少は「皇位の安定的継承に支障をきたす」(三笠宮崇仁親王、11月16日)等の反対意見が出され、東久邇宮は持論を撤回、皇族の側からの臣籍降下の申し出はなされなかった[2]。また昭和天皇も、連合国の許す限り全ての皇族と行動を共にする決意であり、臣籍降下の申し出があったとしても、よほどの深い条理がない限りは勅許しない考えであった[3]

しかし、日本の占領行政を担った連合国軍最高司令官総司令部(以下、GHQ)は、直系の皇統が途絶えた時に皇位を引き継ぐための控えとして存在している宮家を、「天皇となる可能性の非常に低い者」と表現し、そのような者まで皇族として遇し、歳費を支出している現状を問題視する[4]。昭和21年(1946年)5月頃、加藤進宮内庁次長はGHQとの意見交換によりこの方針を受け取り、当時の14宮家の内、天皇の弟宮である秩父高松三笠の3宮家を除いた、伏見宮系統の11宮家を引き続き皇族として遇するのは困難であるという結論に達し、天皇、皇后皇太后に奏上、内諾を得る[5]。直後の5月21日、「皇族の財産上その他の特権廃止に関する総司令部覚書」(SCAPIN1298A)が発令。14宮家への歳費支出は5月分をもって打ち切ると通告[注釈 2]、また課税の免除もなくなる等、皇室は経済面で苦境に立たされる[7]。5月28日、31日の両日、皇族情報懇談会で加藤次長から皇族に説明があったが、皇族間からは、皇室の重大事を加藤次長が独断で決定、事後報告としたことに反発の意見が示される[8]。また、降下についても、「国家存亡の際、われわれ皇族には皇族として何か御奉公すべき途があるのではないか」(竹田宮恒徳王、7月2日皇族親睦会にて発言)等、臣籍降下に否定的な意見が多かった。

しかし、GHQは経済面での締め付けを続けた。8月15日、チャールズ・L・ケーディス民政局次長は「彼等を貧窮に陥れようとは絶対に考えて居ない」と述べつつ、その「彼等」として想定していたのは3宮家のみであった[3]。11月2日、同じくケーディス次長は、「臣籍に降下せられる(略)別に反対があるわけではないが」と述べる等、あくまで日本側が自発的に行う形で、臣籍降下への道筋はつくられた[4]。 また、当問題に関する重臣会議の席上で、鈴木貫太郎が「皇統が絶えることになったらどうであろうか」と質問したのに対し、加藤が「かつての皇族の中に社会的に尊敬される人がおり、それを国民が認めるならその人が皇位についてはどうでしょうか」と将来的な皇籍復帰を示唆する内容の発言をしたという記録も残っている[9][10]


この情勢の中で、内廷皇族及び3宮家を守ることを優先するため、11宮家を臣籍降下させることを決定[11]。11月29日、天皇より11宮家に対して直々に、「情においては誠に忍びないが、直宮三家を残し、一同は臣籍降下を決意されたい」と、言い渡される[12]。翌昭和22年(1947年)10月13日の皇室会議での議決を経て、14日、11宮家51名が臣籍降下した。

この時の臣籍降下は、皇室財政の圧迫によるやむを得ない実施というイレギュラーなものであったことから、天皇は「従来の縁故と云ふものは今後に於いても何等変わるところはないのであって将来愈々お互いに親しく御交際を致し度いと云うのが私の念願であります」と、臣籍降下以降もこれまでと同様の交際を行う考えであることを述べる。また、臣籍降下前に宮内庁文書「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取扱方針」が作成されてその待遇が公文書で定められる、親睦団体としての菊栄親睦会が新たに組織される、園遊会即位の礼においては席次が首相よりも上位で遇される等、現在に至るまで、皇族に准じる存在とされている[13]。また一般的にも、歴代の臣籍降下をした者のうち、この時の11宮家及びその子孫を「旧皇族」と呼称して特別視している。

現代

上記の昭和22年以降の皇籍離脱は、いずれも、女性皇族が臣下の男性と婚姻をした際に限られている。

皇籍復帰

一度臣籍に降下した後には皇籍に復帰することは許されないのが原則であるが、皇位継承に備えるなどの事情に応じて、皇籍に復帰する事例も比較的多く見られた。また、臣籍降下後に生まれた子が、親が皇籍復帰すると同時に新たに皇籍を付与される事例もある(ただし、天皇の子が無条件に親王・内親王とされた律令法の原則が親王宣下(内親王宣下)の概念が導入された時点で崩れた結果、天皇の子の身分は時の天皇の判断によって異動できるものとされ(「身分と身体の分離」)、臣籍降下と同じように皇籍復帰も可能と解釈されていたとする見解もある[14])。そのため、皇籍にある皇位継承者が不足し、皇位の継承が途絶する危機に見舞われた時(皇位継承問題)には、すでに臣籍に下った旧皇族およびその子孫が皇籍に復帰するのが、常道ではないかという議論がある。


注釈

  1. ^ 異母弟(光仁天皇皇子)の広根諸勝と自己の皇子である長岡岡成良岑安世。いずれも生母の身分が低く、皇位継承の可能性が乏しかった。
  2. ^ その後、松平康昌宮内大臣を通じた天皇の要望により、ダグラス・マッカーサーGHQ長官の「好意的配慮」として、一年間の延長認められる[6]

出典

  1. ^ 藤木邦彦「皇親賜姓」『平安時代史事典』角川書店、1994年、P822。
  2. ^ 勝岡, pp. 77–78.
  3. ^ a b 勝岡, p. 80.
  4. ^ a b 勝岡, pp. 83–84.
  5. ^ 勝岡, pp. 80–81.
  6. ^ 勝岡, p. 79.
  7. ^ 勝岡, pp. 78–79.
  8. ^ 勝岡, p. 81.
  9. ^ 竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』小学館、2005年
  10. ^ 朝日新聞 2005年11月19日付朝刊38面
  11. ^ 勝岡, pp. 82–83.
  12. ^ 勝岡, p. 84.
  13. ^ 勝岡, pp. 88–89.
  14. ^ 仁藤智子「平安時代における親王の身分と身体」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P362-371.


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