脱植民地化 国連決議「植民地独立付与宣言」

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脱植民地化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/19 15:30 UTC 版)

国連決議「植民地独立付与宣言」

脱植民地化にとって非常に重要な事件が、1960年12月14日国際連合総会において決議1514第15項として可決された「植民地独立付与宣言」である。

賛成89、反対0、棄権が9カ国(主要宗主国であるアメリカ合衆国イギリスフランスベルギーポルトガルスペイン南アフリカの7カ国と、オーストラリアドミニカ共和国)であった。

2000年、国連決議1514可決40周年にあたり、国連総会は決議55/146を採択し、2001年〜2010年を第二次植民主義廃絶国際十年とした。

脱植民地後の組織

歴史や文化の共有のために、旧宗主国は旧植民地を植民地時代よりも緩やかな形で連合する組織を形成している。加入は任意であり、時には目標基準(通常は民主的統治の必須条件)を下回ったことを理由に除名される場合もある。これらの組織は連合国間の文化、経済、政治的利益をはかるが、実際には総体としてそれ自体が政治的に目立った活動を行っている例はない。

旧宗主国 組織 設立年
イギリス イギリス連邦 1931年
英連邦王国 1931年
旧英領連合州※ 1967年
フランス フランス連合 1946年
フランス共同体 1958年
フランコフォニー国際機関 1970年
スペイン・ポルトガル ラテン連合 (Latin Union 1954年
イベロ・アメリカ共同体 1991年
ポルトガル語諸国共同体 1996年
アメリカ合衆国 自由連合盟約 1982年
ヨーロッパ連合 ACP諸国 (ACP countries 1975年

 ※ 国家自由連合(en:Associated states)を参照。国家自由連合には上記組織以外に様々なものがある。

立場の相違

脱植民地化については相当の議論がある。脱植民地という最終目標は、通常遍くよいものとしてみなされているが、完全独立の承認へと至る最良の道筋については多くの議論がなされている。

脱植民地化と政治不安

一部の論者は、第二次世界大戦後の脱植民地化運動は、特にアフリカで、性急に展開しすぎ、結果として新たに独立した国々で政情が不安定になってしまったという。

これに反論する人々は、この種の不安は、主に植民地時代に端を発する問題、例えば恣意的な国境線や、現地民への教育訓練の欠乏、バランスを欠いた経済システムなどの結果であるとする。

経済効果

ジョン・ケネス・ガルブレイスは、第二次世界大戦後の脱植民地化は経済的理由のために行われたとしている。著作"A Journey Through Economic Time"の中でガルブレイスは、列強にとって植民地貿易よりも先進国間の経済活動の方が経済的に大きな意味を持つようになり、植民地への関心が薄れていったことを指摘している。

宗主国が植民地を手放すことに大きな経済的打撃を感じなかった理由の一つは、費用と利益がなくなったのではなく、変質したからであった。宗主国はもはや植民地に対して経済その他の義務を負うという負担を持たなくなったが、引き続き安価な製品や労働力を旧植民地から獲得することができた。また宗主国の求める結果を得るために経済的、政治的、軍事的圧力をかけることも依然可能であった。そして最も大きな違いは、宗主国は植民地に対する責任を否定することができるようになったのである。

入植者

脱植民地化は、多くの人々が入植した植民地においては、それも特に何世代にもわたってその地に定着している場合、易しい問題ではない。この人々は、一般的には本国へ帰還させる必要があり、しばしば財産の多くを失うという事態を伴う。例えば、旧フランス領であったアルジェリアの脱植民地化では、ヨーロッパ人およびセファルディ系ユダヤ人の人口が多かったため、事態は特に困難を窮め、アルジェリアの独立の際に彼らの多くはフランスに退避した(ピエ・ノワール参照)。また、ジンバブエ(旧ローデシア)では、ロバート・ムガベ大統領が1990年代より白人農場主を攻撃対象とし、その資産を強制接収している。満洲、朝鮮、台湾に入植していた日本人も引き揚げと財産放棄を強いられ、特に満洲では残留孤児問題を生んだ。一部の地域では、入植者の重要性があまりに大きかったり、現地民がもはや少数派となってしまったがために、脱植民地化がほとんど、あるいは全く不可能の地域すらある。これには例えば、イギリス系が優勢を占めるケイマン諸島や北米の入植者社会があたる。

冷戦時代

ソビエト連邦は西側諸国の植民地支配を撤廃するために、西側寄りあるいは西側支配の政府に対して直接的転覆を図ったり、間接的な政治的指導や援助を行ったりした。この時期の革命の多くはこの種の影響を受けている。特にベトナムニカラグアコンゴスーダンなどにおける紛争がその例として挙げられる。

共産主義者・社会主義者の反植民地主義

ソビエト連邦指導者の大半はマルクス・レーニン主義に基づき、帝国主義資本主義の頂点に位置づけられ、階級差別社会を生み出すものとした。そのため、ソビエト指導者は植民地の独立運動を支援したが、この動きは冷戦の激化とともにますます強まり、多くの独立戦争が冷戦の主戦場となったため、米国も反共の一環としていくつかの独立運動を支援する代理戦争に至った。

冷戦時代、共産主義国は多くの植民地でプロパガンダ、開発支援、経済支援、時には軍事支援をも行って反植民地主義運動を支持した。その中でも、アンゴラにおける武装反乱へのキューバの支援と、ベトナムにおけるソビエト連邦および中華人民共和国の支援が特筆に値する。




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