老子
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老子の履歴
史記の記述
老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝[8][9]」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。
これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」[注 1])。楚の苦県[3](現在の河南省周口市鹿邑県[11])、厲郷の曲仁里という場所の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官[3])を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた[3]。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる[3])に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい[12][13][14][15]、その後の事は誰も知らない[3]。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。)
「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる[16][17][18][19]。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える[16][20][注 2][注 3]。
出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県[11])に老子を訪ねている[21]。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる[11]。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う[11][22]。
『史記』には続けて、
とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える[14][15][23]。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると[23])または「ある人曰く」(ある人物によると[3])で始められている通り、前説とは別な話として書かれている[24]。
さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。
ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸[23])」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている[14][15]。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ[3]、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う[23]。
これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている[13]。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないため[3]これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である[24]。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す[25]。
『史記』は老子の子孫についても言及する。
7.老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家於齊焉。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳[9]
老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。
この膠西王卬(劉卬)とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している[26]。
諸子百家の著述
荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」[27]や外雑篇[28])、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる[28]。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」[29](老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている[28]。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」[30](老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている[28]。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。
このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい[28]。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年[31])が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない[32]。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない[33]。
定まらない評価
このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く[34]、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩(381年 - 450年)だった。唐の韓愈(768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した[3]。
20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」[35]とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老聃的生命和時代考』)、郭沫若(『老聃・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、馬叙倫(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、高亨(『重訂老子正詁』、1957年)、詹剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、陳鼓応(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、羅根澤(『老子及老子書的問題』)、譚戒甫(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した[3]。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し[3]、1957年に刊行された[36]杜国庠の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている[37]。
注釈
- ^ 竹林の七賢のひとり嵆康の著『聖賢高士伝賛』など中外日報社説
- ^ 氏族の姓「老」は実在し、宋には老氏という貴族がいた。しかしこの一族と老子を結び付ける証拠は無い。貝塚、p87
- ^ 墨子の「墨」も姓ではないという説がある。しかしこれは元々姓を持たない階層の人物「翟」が入れ墨を入れられた囚人階級出身だったとか、または同音である宋の「目夷」氏の姓が転じたという説などがあり(貝塚、p34-35 第二章 人類愛と平和についての対話)、老子の名づけとは性質が異なる。
- ^ 貝塚は、当時の通信事情から、中国の新聞を武内義雄が見る機会はまず有り得ないと述べている。貝塚、p90
- ^ 出土した本牘に書かれた紀年から判明。浅野・湯浅、p30
- ^ 「建言」による引用はどこまでを指すのかは不確実である(出典『中国古典文学大系4』1973年P22 注2金谷治)。内容からすると、43章くらいまでが名言集であるように見える。
- ^ 老子が「道(タオ)と呼んできたものは、人間がこれまで神とか仏とか宇宙意識とか呼んでいた、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)
出典
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出典2
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