老子 老子の履歴

老子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 07:12 UTC 版)

老子の履歴

史記の記述

老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家司馬遷紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝[8][9]」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。

1.老子者,楚苦縣厲郷曲仁里人也,姓李氏,名耳,字聃,周守藏室之史也。
2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)
3.老子脩道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。
— 史記 卷六十三 老子韓非列傳[8][9]
伝説では、老子は周を去る際、水牛に乗っていたという[10]

これによると老子は、は「李」、は「耳」、は「聃」(または「伯陽」[注 1])。の苦県[3](現在の河南省周口市鹿邑県[11])、厲郷の曲仁里という場所の出身で、の守藏室之史(書庫の記録官[3])を勤めていた。孔子紀元前551年 - 紀元前479年)がの教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた[3]。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所函谷関とも散関とも呼ばれる[3])に着くと、関所の役人である尹喜中国語版が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい[12][13][14][15]、その後の事は誰も知らない[3]。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。)

「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる[16][17][18][19]。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える[16][20][注 2][注 3]

出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県[11])に老子を訪ねている[21]。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる[11]。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であったの相というところが出身と書かれていたとも言う[11][22]

『史記』には続けて、

4.或曰:老來子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時云。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳[8][9]

とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える[14][15][23]。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると[23])または「ある人曰く」(ある人物によると[3])で始められている通り、前説とは別な話として書かれている[24]

さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。

5.蓋老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其脩道而養壽也。
6.自孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰:「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。
— 史記 卷六十三 老子韓非列傳[8][8][9]

ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸[23])」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている[14][15]。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ[3]、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う[23]

これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている[13]。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないため[3]これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である[24]。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す[25]

『史記』は老子の子孫についても言及する。

7.老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家於齊焉。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳[9]

老子の子は「宗」と言い、将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。

この膠西王卬(劉卬)とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している[26]

諸子百家の著述

荘子紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」[27]や外雑篇[28])、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる[28]荀子紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」[29](老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている[28]。さらに呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」[30](老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている[28]。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。

このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい[28]。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは代の郭象252年? - 312年[31])が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない[32]。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない[33]

定まらない評価

このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く[34]、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩381年 - 450年)だった。韓愈768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の代には陳師道葉適黄震らが老子の伝記を検証し、代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した[3]

20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古[35]とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老聃的生命和時代考』)、郭沫若(『老聃・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、馬叙倫中国語版(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、高亨中国語版(『重訂老子正詁』、1957年)、詹剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、陳鼓応中国語版(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、羅根澤中国語版(『老子及老子書的問題』)、譚戒甫中国語版(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した[3]。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し[3]、1957年に刊行された[36]杜国庠中国語版の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている[37]


注釈

  1. ^ 竹林の七賢のひとり嵆康の著『聖賢高士伝賛』など中外日報社説
  2. ^ 氏族の姓「老」は実在し、には老氏という貴族がいた。しかしこの一族と老子を結び付ける証拠は無い。貝塚、p87
  3. ^ 墨子の「墨」も姓ではないという説がある。しかしこれは元々姓を持たない階層の人物「翟」が入れ墨を入れられた囚人階級出身だったとか、または同音である宋の「目夷」氏の姓が転じたという説などがあり(貝塚、p34-35 第二章 人類愛と平和についての対話)、老子の名づけとは性質が異なる。
  4. ^ 貝塚は、当時の通信事情から、中国の新聞を武内義雄が見る機会はまず有り得ないと述べている。貝塚、p90
  5. ^ 出土した本牘に書かれた紀年から判明。浅野・湯浅、p30
  6. ^ 「建言」による引用はどこまでを指すのかは不確実である(出典『中国古典文学大系4』1973年P22 注2金谷治)。内容からすると、43章くらいまでが名言集であるように見える。
  7. ^ 老子が「道(タオ)と呼んできたものは、人間がこれまで神とか仏とか宇宙意識とか呼んでいた、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)

出典

  1. ^ https://baike.baidu.com (4 April 2024). "老子". 百度百科. {{cite encyclopedia}}: |author=で外部リンクを指定しないでください (説明)
  2. ^ 百度百科 (4 April 2024). "老子". 百度百科.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 王岳川、訳:上田望. “老子‐中華思想の智慧への門(『老子:中華思想智慧之門』訳出)” (PDF). 金沢大学中国語学中国文学コース. 2010年10月9日閲覧。
  4. ^ Kohn (2000). Pg 4.
  5. ^ の王室もその一つであるが、唐王室はもともと八柱国の一つであり非漢民族であるため、僭称である。
  6. ^ Bellamy (1993). Pp 64, 67.
  7. ^ Roberts (2001). Pp 1-2.
  8. ^ a b c d e  司馬遷 (中国語), 史記/卷063, ウィキソースより閲覧。 
  9. ^ a b c d e 諸子百家、『史記』老子韓非列傳” (漢文). 中國哲學書電子化計劃. 2010年10月9日閲覧。
  10. ^ Renard, (2002), p.16
  11. ^ a b c d e 楠山、p230-239、七、謎の人老子 1.『史記』「老子伝」の批判(1)
  12. ^ 貝塚、p87-89
  13. ^ a b c d e f g h i 浅野、p50-56、一、『老子』の謎 『老子』の成立時期
  14. ^ a b c Fowler (2005). Pg 96.
  15. ^ a b c Robinet (1997). Pg 26.
  16. ^ a b c d 楠山、p7-10、はじめに
  17. ^ Luo (2004). Pg 118.
  18. ^ Kramer (1986). Pg 118.
  19. ^ Kohn (2000). Pg 2.
  20. ^ 貝塚、p86-87
  21. ^ 諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』天運篇5” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
  22. ^ 貝塚、p87
  23. ^ a b c d 貝塚、p89
  24. ^ a b 貝塚、p89-90
  25. ^ 貝塚、p90
  26. ^ 楠山、p239-247、七、謎の人老子 2.『史記』「老子伝」の批判(2)
  27. ^ 諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』内篇、徳充符篇3” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
  28. ^ a b c d e 浅野、p56-58、一、『老子』の謎 老聃なる人物
  29. ^ 諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荀子』” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
  30. ^ 諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『呂氏春秋』” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
  31. ^ 【郭象】”. デジタル大辞泉. 2010年10月9日閲覧。
  32. ^ 浅野、p75-76、第二章 混沌の魔術師・荘子 一、生涯とテキスト 『荘子』三十三篇
  33. ^ a b 貝塚、p91
  34. ^ a b c 浅野、p49-50、一、『老子』の謎 老子は実在したのか
  35. ^ 藪敏裕「『郭店楚墓竹簡』から見た『毛序』の成立 : 小雅・都人士篇を中心として」『岩手大学教育学部研究年報』第61巻第2号、岩手大学教育学部、2002年2月、141-148頁、doi:10.15113/00011436ISSN 0367-7370NAID 1200011238422022年3月3日閲覧 
  36. ^ 福永光司蔵書目録(中国語の部)” (PDF). 中津市立図書館. 2010年10月9日閲覧。
  37. ^ 貝塚、p86
  38. ^ Gray Goat Temple (Qingyanggong), Chengdu, Sichuan, China.
  39. ^ a b Simpkins & Simpkins (1999). Pp 12-13.
  40. ^ Morgan (2001). Pp 223-224.
  41. ^ a b 物語要素辞典2010年秋季版”. 愛知学院大学. pp. 【白髪】 (2010年). 2010年10月9日閲覧。
  42. ^ a b 明・釈徳清 (1886年(清光緒12年)). “老子道徳経解 二巻観老荘影響論一巻巻首一巻、序・老子伝” (PDF) (漢文). 小樽商科大学付属図書館. pp. 23. 2010年10月9日閲覧。
  43. ^ a b c 佐藤義寛. “第十二房第二資料庫 老子八十一化図解読”. 大谷大学. 2010年10月9日閲覧。
  44. ^ a b c 楠山、p265-274、七、謎の人老子 5.神となった老子
  45. ^ Simpkins & Simpkins (1999). Pp 11-12.
  46. ^ Morgan (2001). Pg 303.
  47. ^ a b c 浅野・湯浅、p175-176、六、老子と道家 老子の謎
  48. ^ a b c Kohn (2000). Pp 3-4
  49. ^ 】 (2008年3月18日). “社説:道教と仏教の老子像”. 中外日報. 2010年10月9日閲覧。
  50. ^ Morgan (2001). Pp 224-225.
  51. ^ Kohn (2000). Pg 720.
  52. ^ Drompp (2004). Pg. 254.
  53. ^ Fowler (2005). Pg. 153
  54. ^ Simpkins & Simpkins (1999). Pg 12.
  55. ^ a b 楠山、p258-264、七、謎の人老子 4.仙人となった老子
  56. ^ 諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』雑篇、天下篇5” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
  57. ^ a b c 貝塚、p94-96
  58. ^ 楠山、p247-258、七、謎の人老子 3.虚像、老子の形成
  59. ^ Simpkins & Simpkins (1999). Pp 11-13.
  60. ^ Morgan (2001). Pg 223.
  61. ^ a b 浅野・湯浅、p30-34、一、諸子百家と新出土資料 馬王堆漢墓帛書の発見
  62. ^ 郭店楚簡紹介”. 大阪大学中国哲学研究所内 戦国楚簡研究会. 2010年10月9日閲覧。
  63. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P165森三樹三郎
  64. ^ 『世界の名著 4 老子 荘子』中央公論社 1978年P117の注 小川環樹
  65. ^ 『老荘を読む』講談社 1987年 P114 蜂屋邦夫
  66. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社1978年P114 小川環樹
  67. ^ a b c 貝塚、p96-97
  68. ^ 浅野、p61-64二、「道」の思想 君主は「無為の治」を道とすべし
  69. ^ a b 諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『論語』” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
  70. ^ 貝塚、p94
  71. ^ a b c d e f 柄谷行人『普遍宗教は甦る』文藝春秋〈文藝春秋special 10(1)〉、2016年、131-140頁。 
  72. ^ 諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『道徳経』” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
  73. ^ 貝塚、p98-100
  74. ^ Maspero (1981). Pg 41.
  75. ^ Robinet (1997). Pg 63.
  76. ^ Kohn & Lafargue (1998). Pp 14, 17, 54.
  77. ^ Kohn & Lafargue (1998). Pg 55.
  78. ^ 第26集‐道家真人尹喜的故事” (漢文). 希望之聲國際廣播電台. 2010年10月9日閲覧。 []
  79. ^ Kohn & Lafargue (1998). Pp 55-56.
  80. ^ 二階堂善弘. “玄天上帝の変容 ‐数種の経典間の相互関係をめぐって‐”. 関西大学. 2010年10月9日閲覧。
  81. ^ a b 佐藤義寛 2001, p. 1.
  82. ^ a b 佐藤義寛 2001, p. 4.
  83. ^ a b c 烏雲畢力格 (2009). 歴史と民族の創生 : 17世紀モンゴル編年史における民族的アイデンティティの形成. p. 168、註23. NAID 500000521924. 
  84. ^ 佐藤義寛 2001, p. 5.

出典2

  1. ^ 『酉陽雑俎』巻2-59
  2. ^ 梁啓超「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』中華諸局、第38巻所蔵、1936年、p50-68






老子と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


品詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「老子」の関連用語

老子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



老子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの老子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS