織田氏 明治以降

織田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/23 04:41 UTC 版)

明治以降

幕末維新期の大名織田家当主のうち柏原藩織田信親柳本藩織田信及芝村藩織田長易の3名は戊辰戦争で官軍に属したので特に何の問題もなく、明治2年(1869年)の版籍奉還でそれぞれの藩の藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年の廃藩置県まで藩知事を務めた[15]天童藩主織田信敏のみ戊辰戦争で賊軍に与したことで隠居を命じられて、代わって弟寿重丸に2000石減封の1万8000石の相続が許された。その後は他の3家と同様に藩知事に任じられると同時に華族に列し廃藩置県まで藩知事を務めた[16]

高家旗本だった3家の織田家はいずれも早期に朝廷に帰順したため本領を安堵されて幕臣から朝臣に転じ、中大夫席を与えられた。明治2年(1869年)に中大夫以下の称が廃されると士族に編入された[17]

明治17年(1884年)の華族令制定で華族が五爵制になると旧大名の織田4家は爵位基準を定める『叙爵内規』に基づき旧小藩知事[注釈 13]として子爵家に列した[18]

『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案(『爵位発行順序』所収)では元高家が男爵に含まれており、旧高家の織田家3家も男爵候補に挙げられていたが、最終的な『叙爵内規』では高家は対象外となったため士族のままだった[17]

読売新聞』明治25年11月24日付けの朝刊で織田信長三男信孝の末裔を名乗る大阪府平民織田信義が叙爵請願書を大阪府知事山田信道に提出していることが確認できる。信長の息子で信孝の家系だけ旧幕時代に大名にも旗本にもなれなかったことを指摘し、信孝系救済のための叙爵を求めたが、不許可に終わっている[19]

大正6年(1917年)には織田信長に正一位が追贈された。これは当時の政府の議会対策で貴族院議員である旧大名家当主たちの祖先の戦国武将に位階が奮発された結果、彼らが仕えた信長や秀吉にも最高位を与える必要が出たためといわれる。2022年(令和4年)現在のところ正一位に叙された人物は信長が最後となっている[20]

昭和前期に天童織田子爵家の邸宅は東京市牛込区市谷薬王寺町[21]、柏原織田子爵家の邸宅は東京市目黒区大岡山[22]、柳本織田子爵家の邸宅は東京市淀橋区百人町[23]、芝村織田子爵家の邸宅は東京市麻布区霞町[24]にあった。

天童織田家の織田信恒子爵は日刊アサヒグラフ編集部に勤務していた大正11年に椛島勝一絵『正チャンの冒険』の案と文を担当して漫画のフキ出しを初めて採用した。この漫画は子供たちの人気を得て「正ちゃん帽」を流行させた。昭和3年からは貴族院の子爵議員を務め、農林政務次官、静岡電鉄社長、NHK理事などを歴任。戦後に爵位を失った後には京浜急行取締役、京浜自動車工業社長、川崎さいか屋取締役、財団法人安達峰一郎記念館理事長などを務め実業家として活躍した[25]

柏原織田家の織田信親子爵は、宮内省に勤務した[26]。同家の現在の当主はコピーライター織田孝一(本名織田信孝)である。歴史雑誌・ムック[注釈 14]に度々寄稿している。

芝村藩織田家は代々有楽流の家元を務めており、現在の当主織田宗裕も有楽流の家元である[28]

1990年代にテレビタレントとして活躍した僧侶の織田無道は織田信長の子孫であると自称していた[29]

フィギュアスケート選手だった織田信成も信長の末裔と称しているが、これについて孝一は「私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった。というのは、同じ織田家でも大名家は、旗本家とはほとんど交流がなかったからだ。さらに明治以降は大名家は華族になり、別世界で生きていたからなおさらである。大名家だった織田家はどこも、彼がフィギュアスケートで有名になるまで、そんな家系があることすら知らなかった。伝え聞くところ、信成君は信長の七男の末裔で、江戸時代は旗本高家であったそうだ。織田信長には11人も息子がいて、何人かが江戸時代に旗本になった。そうした家の一つなのだろう。途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない。」と述べている[30]


注釈

  1. ^ 半国もしくは15万石前後の大名。丹羽・立花・榊原など。四品になると国主と同じ大広間に進む。
  2. ^ 柏原では、信包系(信勝のときに無嗣断絶した「前の織田」)と区別して「後の織田」とも呼ばれる。
  3. ^ 出羽の本間家は佐渡の元大名で、上杉氏転封の折に山形へ移り現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めたという。
  4. ^ 名目は「献金をした者には江戸で人気の絵画を褒美に与える」と称したが、実質的な絵画の領内販売に近い。葛飾北斎は小林平八郎央通の曾孫と公言し、また、歌川広重は上杉家の畠山氏や織田家の吉田氏と交流があったとされる。
  5. ^ 石高は不明だが、数万石と思われる。
  6. ^ 『近江輿地志略』や『淡海温故録』によると2万石となっている。
  7. ^ 寛永元年当時、父信貞は浪人中であったが、貞置による再興とは別に、微禄で召し抱えられたという説もある。
  8. ^ 『系図纂要』や『地下家伝』以外には記されていない。江戸幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』にも記載されておらず、信長の子の「織田信正」なる人物は同時代の史料には一切登場しないため、実在については確証がない。
  9. ^ 柏原では、信雄系(幕末まで続く「後の織田」)と区別して「前の織田」とも呼ばれる。
  10. ^ 時系列でみて辻褄が合わない点があり、信憑性が低いという説もあるが、俊長の末裔家を称する肥前鹿島藩士の伝承が残っている。
  11. ^ 高家肝煎で上杉一族でもある畠山義寧は、赤穂事件に懲りて指南役の権限を御馳走役首座の秀親に委譲している。
  12. ^ 老中からの奉書を前田に見せない等の嫌がらせがあったという説もあり。
  13. ^ 旧柏原藩は現米9190石(表高2万0000石)、旧天童藩は現米7650石(表高1万8000石)、旧柳本藩は現米6600石(表高1万石)、旧芝村藩は現米5210石(表高1万石)でいずれも現米5万石未満の旧小藩に該当[18]
  14. ^ 孝一自身は、「織田の本家は天童」「うちの柏原藩は既に信長の血筋ではない(男系では交代寄合の大和平野氏)」と前置きをしたうえで、織田家の末裔として意見を述べている[27]
  15. ^ 達定は継いでいないとする説もある。
  16. ^ 広高以降の当主は大和守家出身とされる信安の代まで不明である。
  17. ^ 達勝の父は織田勝秀ともされ、出自については解っていない。
  18. ^ 信友の父は織田因幡守ともされ、出自については解っていない。
  19. ^ 父は織田敏定または敏信とされ確定されていない。
  20. ^ 父は織田敏定とも。
  21. ^ 傍流。『系図纂要』にあるのみで、公式の系図には記されず。
  22. ^ 織田信栄四男
  23. ^ 織田信栄次男
  24. ^ 織田信栄五男
  25. ^ 細川行芬の三男
  26. ^ 血筋上の先祖は藤原北家勧修寺流(信恒は相馬氏からの養子で、相馬氏には江戸時代佐竹氏より養子が入っており、その佐竹氏には室町時代上杉氏より養子が入っているため)。
  27. ^ 血筋上の先祖は旗本平野氏である(織田信親の実父の山崎治正は平野氏よりの養子)。
  28. ^ 旗本・能勢頼寛の三男。
  29. ^ 旗本・織田信義の次男。
  30. ^ 天野康建の子
  31. ^ 遠山友寿の五男
  32. ^ 土岐頼左の子
  33. ^ 松平正淳次男

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)等『織田氏』 - コトバンク
  2. ^ 信長は平氏ではない! 祖先の墓発見2011年11月2日・産経新聞)
  3. ^ 劔神社と織田信長公 (日本語) - 劔神社
  4. ^ 橋本政宣「[おた]信長と[とよとみの]秀吉」(初出:『古文書研究』44・45号(1997年)/所収:橋本『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年)
  5. ^ 尾張守護代沿革小稿 河村昭一
  6. ^ 蔭涼軒日録・延徳3年11月19日条
  7. ^ 蔭涼軒日録・明応元年4月1日条
  8. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp32-46.
  9. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp71-73.
  10. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp90-91・99-101.
  11. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp100-102.
  12. ^ 『三重県の歴史』山川出版社、154頁。 
  13. ^ 太閤検地『当代記』、『大日本六十六国並二島絵図』、『日本賦税』、慶長3年(1598年)など。wikipedia「石高」記事も参照。
  14. ^ 「江戸三百藩・第60号」(ハーパー・コリンズ)、「“御家”立て直し」中江克己(青春出版社)など
  15. ^ 新田完三 1984, p. 327/403-404/862.
  16. ^ 新田完三 1984, p. 558.
  17. ^ a b 松田敬之 2015, p. 186/188.
  18. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 152.
  19. ^ 松田敬之 2015, p. 188.
  20. ^ 叙位最高位「正一位」 最後に贈られたのは1917年の織田信長 SAPIO2016年1月号
  21. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 253.
  22. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 304.
  23. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 331.
  24. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 408.
  25. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和『織田信恒』 - コトバンク
  26. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『織田信親』 - コトバンク
  27. ^ 「歴史と旅」「歴史読本」ほか
  28. ^ 橿原神宮で3年ぶり献茶祭 有楽流宗家「奉仕に感謝の気持ち」 奈良新聞 2022年5月6日
  29. ^ 除霊僧織田無道さん死す、68歳 9日未明…がんで サンスポ 2020年12月12日
  30. ^ 「信成君がメダルを取れなかった理由」織田家18代当主が分析 週刊朝日2015年9月7日






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