継体天皇 隅田八幡神社人物画像鏡

継体天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 08:14 UTC 版)

隅田八幡神社人物画像鏡

隅田八幡神社所蔵[注 12]国宝人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とある(判読・解釈には諸説あり)。

隅田八幡神社は859年の設立であるが、人物画像鏡の出土場所、出土年代は明らかにされておらず、「癸未」については443年説と503年説など論争がある。 八幡人物画像鏡の銘文である「男弟」の読みは厳密には「ヲオト」であり、継体の「ヲホド」とは微妙に異なり(詳細はハ行転呼音唇音退化を参照)、「男弟王」を継体に当てるには、音韻上で難がある[59]。このことから、「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、妹の忍坂大中姫允恭天皇に入内した意富富杼王であると考える説もある[注 13]。その場合「癸未」は443年となり、鏡を作らせた「斯麻」を武寧王ではなく三嶋県主となる。継体は三嶋の対岸に位置する樟葉宮で即位していることから、曽祖父である意富富杼王とも深い親交があったとしても不自然ではない[60]

記紀には大王即位の57歳まで、男大迹王が何をしていたのか?記録にはない。 即位前の男大迹王が朝鮮半島の百済に渡り、武寧王と会っていたという説もある[61]

「癸未」を503年、「男弟王」を(おおと)=男大迹王つまり継体天皇と解釈すると、継体は癸未=武烈天皇5年8月10日(503年9月18日)の時点では、大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ、継体が畿内勢力の抵抗に遭って長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説が崩れる。503年説が正しければ、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は、当時倭国と同盟関係にあった百済武寧王(別名斯麻王)であろう。(「斯麻」は書紀本文、「百済新撰」さらに武寧王本人の墓誌からも武寧王のことである可能性が極めて高い[62])この場合、継体がすでに仁賢天皇在位中の503年に大和の忍坂に本拠をかまえ、大王の後継者として対百済外交を担当していたことになる[63]。この場合「記紀」に記された継体の即位事情はドラマティックに潤色した物語譚と言えよう[64]

近年では複数の学者が、文献史学、考古学ともに503年説が有力であるとしている[65][66][67] [68][69]


注釈

  1. ^ 先帝とは2親等以上離れて即位した最初の天皇は仲哀天皇(先帝は叔父・成務天皇(父・日本武尊の弟))とされている。
  2. ^ 『古事記』では485年。
  3. ^ 上宮記では、弥乎國高嶋宮(みをのくにのたかしまのみや)。
  4. ^ 「天皇(武烈)既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(応神)天皇の五世孫、袁本杼(をほど)命を近淡海(ちかつおうみ)国より上り坐しめて、手白髪(たしらか)命に合わせて、天下を授け奉りき。」[3]
  5. ^ 『日本書紀』によれば、「妊婦の腹を切り裂いて胎児を見た」、「人を木に登らせて弓矢で射落とした」、「池に人を入れて矛で突き殺した」など数多くの悪行が書かれており、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず(悪い事ばかりを行い、一つも良いことを行わなかった)」と評されている。
  6. ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、南東部であるという説が存在する[8]
  7. ^ 後の欽明朝初期にこの四県割譲が問題となり、責任を問われた金村が失脚している。
  8. ^ この「凡牟都和希王」を「ホムツワケ」と読んで、応神天皇ではなく垂仁天皇の第一皇子である誉津別命(ほむつわけのみこと)とする説もある。しかし系譜上の始祖には天皇を据えるのが普通であり、母系の始祖には垂仁を据えているにも拘らず父系には書かないというのは不可解である。また父母が共に世代の異なる垂仁の子孫ということになるため、やはり不自然といえる[19]
  9. ^ 現在は断絶している王朝、および伝説を含めるのであれば、メネリク1世からハイレ・セラシエ1世に至るエチオピアの皇朝が3000年続いたとされる。
  10. ^ 継体天皇は、父彦主人王同様に三尾氏の勢力圏である湖西の高島に基盤を置き、ここを通る北陸道を介して越前三国にも勢力を持った。 湖東の息長氏の勢力圏から東山道を介して東国尾張と結び付いた。 継体は、応神天皇五世の孫として皇統からは遠い存在ではあったが、代々近江を勢力基盤とし、東国·北陸の勢力を背後に持つことで、畿内勢力に対抗して即位できたのである。 近江の地名 その由来と変遷(淡海文庫)2020/6/30京都地名研究会P47
  11. ^ 「継体天皇の父、彦主人王は近江の高島の三尾の豪族であった。 それでは、近江の高島郡とはどのような場所であろうか。 琵琶湖の北西部の安曇川の流域にあたり、湖西では広い水田を持つ地域である。それにしても、湖と山地に挟まれたささやかな地域であって、この農業生産をもって天皇になれるほどの力を持てたとは、とうてい考えられない。この地域がそれほどの重要性を持てたことの唯一可能な説明は、この地域が古代における最も有力な製鉄地帯だったことである。近畿地方における最古の製鉄遺跡は八世紀に下るが、それは滋賀県高島郡マキノ製鉄遺跡群である。 (『日本民俗文化体系3 稲と鉄』森浩一「稲と鉄の渡来をめぐって」)。 森浩一氏は、古い時代の製鉄の遺跡自体は認められなくとも、農業生産としてはとるに足らない山間部の製鉄遺跡地帯に、六、七世紀の大群集墳があるので、その経済的基盤として製鉄を考えざるを得ないという。近畿地方における製鉄は、六世紀に始まると森氏は考えている。 この六世紀初頭こそ、継体天皇が出現した時期にあたる。」聖徳太子と鉄の王朝 角川選書 1995/7/1 上垣外 憲一 P16 からの引用文
  12. ^ 銅鏡は長年東京国立博物館に寄託されているが、所有者は隅田八幡神社である。
  13. ^ 「男弟王」の語は『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国の女王卑弥呼を佐治した弟を指すために使われている。意富富杼王は忍坂大中姫の兄だが、允恭よりは年下なのでこう記したと考える。
  14. ^ 『日本書紀』は、父親の彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫としている。しかし、その系譜については何も記していない。 『古事記』は、継体を「品太天皇(応神)五世之孫」と伝えているが、同様にそれ以外の系譜は全く不明である。 『釈日本紀』に逸文を残す『上宮記』の系譜では、「凡牟都和希王(応神天皇)─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子 ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)」とされ、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』では、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀の系譜とは、たがいに異なる内容になっているが、記紀では、系譜が全く記されておらず、不明な状態となっている。
  15. ^ 『日本書紀』、『古事記』ともに、旧王家の皇女、手白香皇女を娶ったと記している。 先代天皇と血縁が非常に遠い継体天皇は、先代天皇の同母姉である手白香皇女を皇后にすることにより、入り婿という形で正統性を獲得した。 そのため、継体天皇は大和に入る以前、複数の妃をもち、沢山の子(安閑天皇宣化天皇他)がいたにもかかわらず、手白香皇女との皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)が正式な継承者となった。 『古事記』は、「合於手白髮命、授奉天下也」(手白髪命を娶らせて、天下を授けた。)とあるが、他の天皇の記事は、「小長谷若雀命(武烈天皇)、坐長谷之列木宮、治天下」「白髮大倭根子命(清寧天皇)、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也」 など「天下を治めた」という表現になっており、「天下を授けた」という表現を使っているのは、継体天皇に対してのみである。
  16. ^ 『日本書紀』「顕宗即位前紀」にみえる
  17. ^ 「神武天皇が東征の途中、筑紫の岡田宮や阿岐の多祁理宮や吉備の高島宮に滞在したことは、六世紀初め、越前(福井県)から現れて皇位を継いだ継体天皇が、大和へ入るまでに、河内の樟葉、山背の筒城、同じく山背の弟国に数年ずつ滞在したことと関係があると思われる。 『日本書紀』によると、継体天皇は筒城に七年、弟国に八年滞在しているが、『古事記』にみえる神武天皇は多祁理宮に七年、高島宮に八年滞在する。 この一致は偶然とは思われない。 神武天皇が大阪平野から直接大和へ入らず、熊野を迂回するのは、継体天皇が越前を出発してから大和へ入るのに、大変手間取っている事に影響されたのではあるまいか。 古代の歴史物語である「旧辞」が初めてまとめられたのは、この継体天皇から欽明天皇の頃(六世紀前半ないし中葉)であろうということは、津田左右吉氏の研究以来、学界の定説であるが、神武天皇の物語の骨組みもこの頃に大体出来上がったと思われる。[83]

出典

  1. ^ 謎多き古代天皇、福井に残る痕跡 朝鮮との結びつきも”. 朝日新聞デジタル (2020年4月15日). 2021年2月12日閲覧。
  2. ^ a b 網野ほか 1994, p. 82.
  3. ^ 『古事記』継体即位記
  4. ^ 水谷 2001, p. 73.
  5. ^ 日本書紀 継体即位条
  6. ^ 『日本書紀』巻第十七、継体天皇元年正月6日条
  7. ^ http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu7/5inoue.pdf
  8. ^ 田中 2009, p. 80.
  9. ^ 直木 2009, p. 138.
  10. ^ (高槻市教委 2008)P153-154 水野正好による論考。
  11. ^ 安本 1999, p. 195.
  12. ^ 継体天皇陵と手白香皇后陵”. 『福井県史』通史編1. 福井県 (1993年). 2023年11月13日閲覧。
  13. ^ 網野ほか 1994, p. 10.
  14. ^ a b 網野ほか 1994, p. 27,98.
  15. ^ 網野ほか 1994, p. 83.
  16. ^ 網野ほか 1994, pp. 85–86.
  17. ^ 網野ほか 1994, p. 86.
  18. ^ 網野ほか 1994, p. 87.
  19. ^ 水谷 2001, p. 92.
  20. ^ 黛 1982.
  21. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版>[2007‐12‐20] 2020‐3‐1 174‐187頁
  22. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版> [2007‐12‐20]2020‐3‐1 188頁
  23. ^ 中皇子(なかつみこ。) 坂田公(滋賀県米原市)の祖。とある。菟皇子(うさぎのみこ。) 酒人公の祖 酒人公については、『新撰姓氏録』左京皇別には「坂田酒人真人」と記され、「息長真人」と同祖とする。 息長氏の本拠地は近江国坂田郡である。 古事記と日本書紀 主婦の友ベストBOOKS 添田一平 (イラスト) 瀧音 能之 (監修)2010 P157
  24. ^ 「上宮記」
  25. ^ [1]
  26. ^ 壬申の乱における三尾城の所在をめぐって(滋賀文化財だより No.64) (PDF)』財団法人滋賀県文化財保護協会、1982年。 
  27. ^ 田中勝弘『遺跡が語る近江の古代史』(サンライズ出版、2007年) P99
  28. ^ 『天川ダム障害防止対策事業に伴う発掘調査報告書:東谷遺跡』滋賀県教育委員会事務局文化財保護課他 2004
  29. ^ 『斧研川荒廃砂防事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書:北牧野古墳群』滋賀県教育委員会 2003
  30. ^ 記紀の考古学 P330 朝日文庫 2005年 森浩一
  31. ^ 谷口義介・宮成良佐『北近江の遺跡』(サンブライト出版、1986年)P175
  32. ^ 2021年現在は高島市立今津図書館前に説明文と共に展示されている。
  33. ^ 滋賀県教育委員会・滋賀県文化財保護協会 大道和人ほか『東谷遺跡』( 2004年)
  34. ^ 森浩一「若狭・近江・讃岐・阿波における古代生産遺跡の調査」『滋賀県北牧野製鉄遺跡調査報告』(同志社大学文学部文化学科、1971年)
  35. ^ 日本書紀
  36. ^ 上宮紀
  37. ^ (水谷 2013)P72
  38. ^ a b c 『日継知らす可き王無し 継体大王の出現』(滋賀県立安土城考古博物館、2003年)
  39. ^ 『高島市歴史散歩』(高島市教育委員会、2017年) P8
  40. ^ a b (水谷 2013)P73
  41. ^ 『高島市歴史散歩』(高島市教育委員会、2017年)P8
  42. ^ 『高島市歴史散歩』(高島市教育委員会、2017年)P7
  43. ^ 滋賀県高島市鴨の天神畑遺跡発掘調査現地説明会資料 2011.05.15 調査主体 滋賀県教育委員会 調査機関 財団法人滋賀県文化財保護協会 http://shiga-bunkazai.jp/download/pdf/110515_tenjinbata.pdf
  44. ^ (水谷 2013)P145
  45. ^ 森浩一・上田正昭編『継体大王と渡来人 枚方歴史フォーラム』(大巧社、1998年)P98
  46. ^ 「継体王朝」大巧社 2000‐11‐15 85-86頁
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  50. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版> 2020‐3‐1 45頁
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  52. ^ 「継体王朝」大巧社 42‐43頁
  53. ^ 「継体王朝」 大巧社 82頁
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  55. ^ 「継体王朝」大巧社 2000‐11‐15 82‐83頁
  56. ^ 鴨稲荷山古墳
  57. ^ 水谷 2013, p. 131-133.
  58. ^ 「継体王朝」大巧社 2000‐11‐15 30‐37頁
  59. ^ 世界大百科事典 2007年版 P531
  60. ^ (高槻市教委 2008)P52-54 和田萃による論考。
  61. ^ 水谷 2013, p. 237.
  62. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版>吉川弘文館 2020年3月1日 34‐35頁
  63. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版>吉川弘文館 2020年3月1日 168頁
  64. ^ 笹川尚紀(京都大学助教)は、継体天皇に該当するとされる十一から十三文字目の某王に関しては、文字を確定するのが至難であって、その銘文を土台にして、同天皇に引きつけて論を展開するのは避けるべきであろうという見解を示している「新古代史の会|2022|p=63」
  65. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版>吉川弘文館 2020年3月1日 33頁
  66. ^ 「継体天皇と朝鮮半島の謎」文春新書 2013 199頁
  67. ^ 「古代天皇の誕生」角川ソフィア文庫 令和元年6月25日 86頁
  68. ^ 高森明勅公式サイト2020年5月21日 「継体天皇は「皇族」として即位」
  69. ^ 「古代史講義」佐藤信 2023-9-10 92頁
  70. ^ a b 三尾別業(平凡社) & 1991年.
  71. ^ 「近江国高島郡水尾村の古墳」京都帝國大學 1923-12-11
  72. ^ 水谷 2013, p. 108-133.
  73. ^ 『筒城宮遷都1500年記念シンポジウム資料集』(京田辺市教育委員会 、2011年)
  74. ^ [2]「広報 京たなべ」(2011年10月1日号誌)
  75. ^ 枚方市 2000, p. 174-175.
  76. ^ 馬部隆弘『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に』(勉誠出版、2019年)
  77. ^ a b 繼體天皇 三嶋藍野陵”. 天皇陵. 宮内庁 (2020年3月19日). 2023年11月12日閲覧。
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  80. ^ (水谷 2013)P17
  81. ^ "橋の石材、「真の継体天皇陵」の石棺か 高槻の歴史館発表「大王のひつぎの実態に迫る発見」"(産経新聞、2016年11月10日記事)。
  82. ^ 『謎の大王継体天皇』文藝春秋文春新書〉、2001年9月。ISBN 4-16-660192-X  P86
  83. ^ 神話と歴史 2006 直木孝次郎 吉川弘文館 P165
  84. ^ 新古代史の会 2022, p. 57.






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