紅葉山文庫
注釈
- ^ 「楓山」(ふうざん)は「紅葉山」の別称。
- ^ 石井研堂によると、「山里文庫」とも呼ばれたとされる。
一方、福井保は、「山里文庫」は幕末に江戸城西の丸に設けた幕府の記録類を収蔵する書庫を指す、としている[4]。
- ^ 江戸への移管後は他の蔵書と混在し、寛政10年(1798年)に林述斎が当時の移管目録を再発見するまで、永らく存在を忘れられていた。目録再発見に伴う所蔵調査の結果、22部が現存することが判明し、文化14年(1817年)には「駿府御譲本」(すんぷおゆずりぼん)と命名されて貴重書扱いとなった[6]。これらは、明治24年(1891年)に宮内省に移管され、現在は宮内庁書陵部の所蔵となっている。
- ^ 大学(明治2年)→大史局(同3年)→太政官正院式部寮(同4年)→太政官正院歴史課(同5年)→修史局(同8年)→修史館(同10年)。
- ^ この火災により、太政官や宮内省に貸出していた蔵書5,221冊、45箱、28帖、35軸、23枚、2本が焼失した。その中には、伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図『大日本沿海輿地全図』(伊能図)の原本や、江戸時代後期に編纂された地誌『新編会津風土記』『新編相模国風土記稿』の原本などが含まれている。
- ^ 内訳は、107,976冊、4,658帖、311軸、706張、299通。
- ^ 国立公文書館や宮内庁書陵部に現存する紅葉山文庫旧蔵書には、「秘閣図書之章」(大小2種)「紅葉山文庫印」「楓山蔵書」の蔵書印が捺されているものがあるが、これらは明治時代以降に押印されたものである。明らかに旧蔵書であっても蔵書印が捺されていないものや、明治時代以後の出版物で前記の印が捺されているものも存在する[2][7]。
- ^ 内訳は、『(御書物方)留牒』が16冊、『御書物方日記』が209冊。なお、幕末を中心に欠落している部分が複数存在するため、完全に網羅されているわけではない[9]。
出典
- ^ 福井 1980, p. 4-5.
- ^ a b 長澤 2012, p. 5.
- ^ 石井研堂 『増補改訂明治事物起原(復刻版)』 上巻、春陽堂書店 , 国書刊行会(発売)、1996年、540頁。ISBN 4394901480。
- ^ 福井 1980, p. 58.
- ^ “『日本書紀の誕生: 編纂と受容の歴史』(八木書店) - 編集:遠藤 慶太,河内 春人,関根 淳,細井 浩志 - 河内 春人による本文抜粋”. ALL REVIEWS (2020年11月18日). 2021年1月3日閲覧。
- ^ 福井 1980, p. 33-36.
- ^ 福井 1980, p. 132-133.
- ^ 松田 2018, p. 22-26.
- ^ 松田 2018, p. 30.
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