米沢藩 藩政

米沢藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 15:21 UTC 版)

藩政

宗教

豊臣時代の領主である蒲生氏郷がキリシタン大名であった影響から[61]、旧蒲生領は東北地方におけるキリシタンの根拠地のような地域になっていた。米沢も氏郷の家臣の蒲生郷安が城主であり、この郷安が氏郷の影響からキリシタンであったため、米沢にも少なからずキリシタンが存在した。やがて上杉家が米沢に入封すると、慶長16年(1611年)にフランシスコ会の神父ルイス・ソテロによって上杉謙信時代の宿老甘粕景継の子信綱が入信し[62]、以後信綱ことルイス右衛門によって米沢のキリシタンが拡大することになった[63]

江戸幕府における慶長18年(1613年)の全国禁教令を契機として、厳しいキリシタン弾圧が展開された[61][63]。この幕府の弾圧で京都・大坂方面のキリシタンは衰退の一途を辿るが、それら迫害されたキリシタンは主に東北地方に逃れたため、かえって東北方面のキリシタンは盛況を呈するようになり、米沢では信綱の熱心な布教活動もあって信徒が1万人を越える勢いだった[63]。このため幕府は米沢にキリシタン弾圧を命じるが、上杉景勝は幕府の命令に形式的には従いながらもキリシタンにはかなり寛容な態度をとった[63]。これは上杉家中にかなりキリシタン武士が存在し、有能な人材を失いたくない景勝の思惑があったためとされる[64]。だが景勝の死後、跡を継いだ定勝は幕府の度重なる圧力に屈して寛永5年(1628年)に甘粕信綱とその家族家臣など14名を処刑したのをはじめ[64]、その後もキリシタン弾圧を続けて殉教者は寛永5年だけで70名以上に上った(米沢寛永5年のキリシタン弾圧[64]

島原の乱以後はキリシタン弾圧がさらに強化され[64]、定勝の従兄弟にあたる公家山浦玄蕃(知行1000石)も定勝没後の承応2年(1653年)に幕府の命令で処刑されている[65]

家臣の人数

米沢藩上杉家は他の藩と比較して下級武士の数が圧倒的に多かった[66]。これは関ヶ原の戦いに敗れて所領を4分の1に削減されたにも関わらず、家臣に暇を出すことをせず、そのまま米沢に連れて来たからである[66]。必然的に家臣ひとり当たりの知行高は低く抑えられ、のちのち上杉家そのものだけでなく家臣たちひとりひとりの極端な経済的困窮につながった。大坂の陣では上杉軍は2万の軍を率いて出陣しているが[30]、本来は30万石であるから動員できる兵力は多く見ても7500人から9000人(そもそも1万石の動員数が250人から300人)であり、上杉家は倍以上の兵を動員している勘定になる。同じ山形県内にあった庄内藩酒井家14万石の家臣は約1900人であるが、米沢藩は約5000人という数から比較しても、家臣の極端な大人数が財政難の原因のひとつとなったことは確かである[67]。なお、上杉家の上級家臣(高家衆・奉行・家老・分領家)は95人で全体のおよそ2パーセント、中級家臣(上杉謙信の旗本だった馬廻組・上杉景勝の旗本だった五十騎組・直江兼続の与板衆)が930人で全体のおよそ19パーセント、残りが下級家臣でおよそ3900人であった[67]

下級武士

一般的に最下級の足軽以下の階級は技能職分として扱われ、士分階級のように世襲ではなく1代雇用が原則であった[68]。だが米沢藩は足軽(特に鉄砲足軽)は世襲とされ、扶持に関しても手明組などの徒士階級、三扶持方の下士階級とあまり変わらず、場合によってはより高い扶持をもらっていた者もいた[68]。米沢藩では鉄砲の技能を重んじ、その修練を奨励しており、毎年正月には「矩(のり)の鉄砲」と呼ばれる藩主上覧の鉄砲披露があり、家臣が鉄砲の技量を競う晴れ舞台であったためだった[68]。鉄砲は中級武士も撃つことを許されたが、扱うことができたのは10匁筒だけであり[68]、20匁以上の大筒撃ちは専門職の足軽だけに許された特殊技能であり、特別の大筒を操作できる者には30匁撃ちに3石、40匁撃ちに4石、50匁撃ちに5石の加恩給を与えられた[69]

関ヶ原の戦い後に知行を大幅に削減されて下級武士の生活は困難になったため、米沢藩は会津口の南原、板谷口の山上、仙台口の東原に屋敷割りをして下級武士を住まわせ[69]、藩境警備の任務に当たらせると同時に周辺の荒地を開墾させて半士半農の生活をさせるという屯田兵の暮らしをさせ、この集団は原方衆と呼ばれた[70]。原方衆は下級武士の半数を占める約1900人であり、農民とあまり変わらぬ生活をしていたために「原方の糞つかみ」と蔑まれたが、彼らの中には武士の矜持を忘れずに学問や武芸の修練に励む者も多かったと伝わる。また、自ら開拓した土地はそのまま与えられ、収穫した年貢も一般農民よりは軽減されていたので、城下で暮らす武士階級よりずっと生活は安定していたといわれる[70]

逆に原方衆を蔑んでいたと伝わる城下集住の下級武士の生活はかなり苦しく、藩財政が逼迫して減俸されると扶持のみでは生計が成り立たなくなった[70]。このため、米沢藩特産品の筆結いなどの内職を行い、それでもなお不足なので職人や日雇い人足になって収入を稼ごうとした[70]。彼らの雇い主である米沢の町人は、日雇い武士に失礼のないようにと「人足様」「大工様」と敬称をつけて呼んでいたといわれ、この遺風は現在まで続いている[70]

財政(江戸初期から重定まで)

貢租は蒲生時代以来、半石半永制をとる。これは貢租納入の半分を貨幣で納入するもので幕末まで踏襲された。また貢租の貨幣にあてる分は一定の米や紅花青苧、真綿といった特産物の買い上げ代金を廻すという方法が採られた。このため、早くから藩の買上制が実施された。米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡銀山[注釈 1]などを失って大幅な収入減を受けた。関ヶ原の戦いの際に備えて雇った傭兵や浪人などは解雇したが、越後時代から付き従ってきた譜代家臣、並びに武田家小笠原家、蘆名家旧臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持した[26]。そのため、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。

また米沢城は、伊達氏時代からの三階櫓を中心とした平城であったがほとんど拡張を行わなかった。また城下町は伊達家・蒲生家時代から手狭だったため、上杉家の家臣や家族が入るに及んで大混乱が起こった[27]。このため上杉景勝・直江兼続らは下級武士を手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせたが、このような下級武士のことを原方衆という[28]。それでも初期の米沢藩は、2代藩主上杉定勝が表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに新田開発を進めたが、寛文4年(1664年)の15万石への半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。これ以降の実高は30万石程度(幕末の18万石への加増時には35万石前後)であるが、依然として家臣団は減らさなかったので、財政はますます厳しくなった[35]。ちなみに、明治初年の史料をもって比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7,077戸、男12,414名、卒族戸数9,474戸、男14,029人であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3,425戸、男7,565名、卒族戸数3,308戸、男11,980人であった。この比較からも、米沢藩の厳しい状況は一目瞭然である。

このような深刻な財政難にも関わらず、第3代藩主綱勝は藩士に対して倹約を命じつつ自らは大好きな能楽にのめり込み、明暦3年(1657年)の火事では城下の東600戸を焼失したにも関わらず6000人の家臣を動員して狩りを行い、それに要した費用は代官や商人から借りることで補い、米沢藩の借金生活がこの時から開始された[33]。綱憲は実父吉良義央夫妻の浪費による負債2780両を立て替えた上に[35]、藩主の実父であるとして毎年6000両の援助金を送り[35]、元禄11年(1698年)の鍛冶橋における吉良屋敷類焼では呉服橋に8000両の費用をかけて新邸を造築した上、米沢から大工50人を派遣した[35]。さらに麻布藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行い、藩の貯金を一般会計に流用するまでに至る。

7代藩主上杉宗房の代では領内農村の荒廃がすさまじく、年貢未進もかさんでいたため、元文3年(1738年)には当年分完納を条件に、それ以前7ヶ月の未納分の延納を許可する有様であった。上杉重定の代になると、派手好きで奢侈に走ったことに加え、寛永寺普請手伝いによる5万7千両超の工事費や宝暦5年(1755年)の凶作損毛高7万5800石超の被害も重なって、借財が莫大な額に上ったので、竹俣当綱(美作)の進言に従って幕府に15万石の返上を願い出ることを親族の尾張藩主に相談して[注釈 2]、明和元年(1764年)に諭される返答をされる始末であった。

財政(鷹山の改革)

1767年(明和4年)、17歳で重定の跡を継いだ養子の治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出した。倹約令発布、農村統制の強化、織物の専売制実施等の財政再建と、や漆の植樹、縮織技術の導入や黒井忠寄による灌漑事業などの殖産興業政策を行って藩財政を立て直した。また、先述のとおり特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にもあたった。一方で、1773年安永2年)7月には家老須田満主や奉行の色部照長千坂高敦らによる竹俣一派排除訴訟(七家騒動)も起こる。

米沢藩では、藩主上杉家の実質上の祖である上杉謙信が藩祖として祀られ、その遺骸を納めた甕は遠く越後春日山新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置されていた。上杉謙信崇拝に基づいた藩風は、越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって独特の誇り高い気風を生んだが、その一方で体面を重んじ、頑固で保守的な面があって、そのことが鷹山の藩政改革の障害となったという見方もある。しかし、鷹山隠居後も藩政改革に取り組む名君が続いたため、治憲・治広の代には借財を返済して5千両の囲い金(備蓄)を有するに至る。

財政(幕末から廃藩置県)

最後の藩主茂憲は、戊辰戦後に3万両を新政府に献上して三条実美らによる改易論を封じ込め、また、奥羽越列藩同盟参加の責任を戦死した家老色部久長に転嫁することによって藩存続の危機を乗り切った。廃藩置県の際は、旧藩士らに囲金や備金などから10万両余を分与した。明治4年5月には、禄券法(家禄を売買可能な禄券に換えて、私有財産化して処分出来るものとした方法)の伺いを政府に提出した[71]

米沢藩では、独自に発行した藩札も使用していた。金札が大半だったが、宝暦13年(1763年)に上杉家が京都屋敷を買戻してから、銀札も発行された。明治7年(1874年)、新政府による新通貨発足に伴い、回収時の引替率は、金札1両が1円であった(土佐藩の金札1両が33銭3厘、薩摩藩の32銭2厘などと比べ、破格の換金率であった)[72]

米沢藩のPLまたはSI(フロー/歳入の部)
=米納高+金納額/年
米沢藩のBS(ストック/資本の部)
=資産-負債
30万石時代…5万石+1万両(綱勝相続時)
15万石時代…3万石+3万両(治憲相続時)
14万7千石時代(列藩同盟処分の削封後)…6万石+15万両
綱勝相続時…13万両
治憲相続時…マイナス20万両余
治広相続時…5千両
斉憲相続時…5万両
  • 絹・綿(疋)は米(石、斗)、銀(貫、匁)・銭(文)は金(両、分)に換算(江戸中期には、金1両=銀60匁。銀1貫=1000匁。銭1貫文=1000文。ただし、米価は時代により相場変動あり、上記金額は概算)
  • (参考文献:「御家建て直し」「上杉鷹山の失敗に学ぶ」「日本史地図」「武田一族」「米沢藩」「羽前俗謡抄」ほか)

教育

初代上杉景勝の執政直江兼続は元和4年(1618年)に禅林文庫を創設して足利学校金沢文庫に匹敵する学問修行の道場とし、家臣の教育を図ろうとしたが、直江が翌年に病死したため実現までには至らなかった[51]。第4代綱憲は将軍徳川綱吉の奨学により学問所を創設したが、以後は米沢藩の藩財政悪化により学問所自体が退廃した[51]

このため、米沢藩で実質的に藩校が創設されるのは上杉鷹山の改革期である[73]。鷹山は自らの師細井平洲を米沢に招聘し[73]、師の命名で藩校は興譲館と名づけられた[74]。規模や内容は元和や元禄の比ではなく[73]、鷹山や細井は藩校に優秀な指導者となるべき人材の育成の役割を求め[74]、藩校の席次は身分ではなく長幼の序で定められて場合によっては生徒に手当として年1両の手当金、寄宿代の無料などの特典もあり、この藩校の子弟が藩の中枢にあって活躍していくことになる[74]

福祉

鷹山は仁慈の政治の実現を常とした人物であるが、財政再建が一段落した寛政4年(1792年)には家中・領民を問わずに90歳以上の老人には生涯1人扶持を与えることとする老齢年金制度、15歳以下の子供が5人以上いる家庭では末子が5歳に達するまで1人扶持の手当を支給することとするという子供手当を実施した[75]。ただし、米沢藩では享保13年(1728年)から孝行、貞節などで優れた「善行者」を表彰する制度があり、鷹山はこの制度を推奨して福祉を定め、さらに善行者にはとりわけ模範的な人物に対して生涯家の門柱に名前を記して顕彰したといわれる[74]




注釈

  1. ^ 佐渡で金鉱が発見されたのは、上杉氏改易後の1601年である。
  2. ^ 吉川弘文館の「上杉鷹山」や「山形県史」などでは徳川宗勝が諭したとしており、これが通説になっているが、そもそも宗勝は宝暦11年に死去している。
  3. ^ ただし、中老職は他藩では非常置であることが多く、単純に臨時の役職であった可能性もある。

出典

  1. ^ 小野 2006, p. 12.
  2. ^ 小野 2006, p. 36.
  3. ^ 小野 2006, p. 38.
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  10. ^ a b c 小野 2006, p. 59.
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  13. ^ 野口 2006, p. 16.
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  67. ^ a b 小野 2006, p. 89.
  68. ^ a b c d 小野 2006, p. 90.
  69. ^ a b 小野 2006, p. 91.
  70. ^ a b c d e 小野 2006, p. 92.
  71. ^ 松尾正人『維新政権』吉川弘文館〈日本歴史叢書〉、1995年。
  72. ^ 日本銀行貨幣博物館展示および公式web
  73. ^ a b c 小野 2006, p. 173.
  74. ^ a b c d 小野 2006, p. 174.
  75. ^ 小野 2006, p. 181.
  76. ^ 横山 1968.





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