米沢藩 藩史

米沢藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 15:21 UTC 版)

藩史

上杉景勝の時代

上杉景勝
上杉家家老の直江兼続

上杉景勝が関ヶ原の戦いで出羽米沢に減移封されたため、直江兼続は米沢城を景勝に譲った。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市伊達郡福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣本庄氏を城代として置いた。

米沢は直江兼続の所領であったが、直江は上杉家全体の執政として若松城に詰めていたことが多かったため[12][27]、内政はほとんど整っておらず、城下は蒲生家の時代に築かれた8町6小路の町人町と数百の侍町があるに過ぎない小さな城下町であった[27]。この小さな城下町に会津に住んでいた家臣団や越後以来の寺社・職人などが大人数で移ってきたため、城下は大混乱した[27]。直江は上・中級家臣は別として[27]、下級家臣に対しては一軒に2、3世帯を共同で同居させてそれでも住居が無理なら掘っ立て小屋を建てたという[28]。また屋敷割りから祖の上杉謙信の霊廟を築いたりした[29]

大坂の陣では徳川方についた[30]。米沢の藩政の基礎を固めた直江兼続は元和5年(1619年)12月に[31]、上杉景勝はその4年後に死去した[31]

男系断絶と所領の半減

景勝の死後、家督はただ1人の息子であった定勝が継承した[32]。定勝時代の米沢藩は安定しており、事件は寛永17年(1640年)の数百戸を焼失した大火と寛永19年(1642年)の凶作くらいだったとされる[33]。定勝は正保2年(1645年)に死去し、家督は嫡子の綱勝が継いだ[33]。だが寛文4年(1664年)閏5月に綱勝は嫡子も養子も無いままに急死した[34]。このため上杉家は無嗣断絶の危機に立たされたが、綱勝の正室の父に当たる会津藩保科正之が奔走し、綱勝の妹富子高家吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲末期養子とすることを訴えて幕閣に認められた[34]。ただし所領に関しては、ペナルティとして信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収されて置賜郡内の15万石のみとされた[35]

綱憲から重定まで

綱憲の時代に忠臣蔵で知られる赤穂藩浪士の討ち入りがあった(赤穂事件[36]。これにより綱憲の実父の吉良義央は討たれ、次男の義周信濃諏訪藩に流罪とされて失意の内に死んでいる[36]。綱憲は事変の2年後に病気を理由に家督を長男の吉憲に譲って隠居した[36]

吉憲は在任18年で享保7年(1722年)に死去し[37]、長男の宗憲が第6代を継ぐが、宗憲も享保19年(1734年)に死去し[37]第7代を弟の宗房が継ぐが、これも延享3年(1746年)に死去と、病弱な藩主が相次ぎ短期間で入れ替わった[37]

第8代は宗房の弟の重定が継ぐ[37]。重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やした[37]。このため、米沢藩の財政は危機的状況に陥り、重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであった。

藩主が頻繁に入れ替わったため、藩政の実権は筆頭奉行の清野内膳が掌握したが、清野は宝暦6年(1756年)に辞職するまで藩政改革に手をつけず、何ら為すところが無かった[38]。重定の時代には与板組の下級武士ながら寵愛されていた側近の森平右衛門利直が出世して実権を握った[38]。森は租税の増収を図り、郷村の統制機構を整備して年貢の増徴を図ったが[38]、一方で自らの親類を側近に取り立てたり人事や賞罰を独断して行うなど専横が強まり、藩政は腐敗したため、宝暦13年(1763年)2月に森は竹俣当綱により誅殺された[39]

上杉鷹山の時代

上杉鷹山

第9代藩主の治憲(鷹山)は日向高鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が秋月藩黒田氏に嫁いだ上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない[40]明和4年(1767年)に鷹山は家督を継ぐ[40]。前述のように米沢藩は極端な財政難と政治腐敗で藩政が破綻寸前にあった。このため鷹山は、藩政と財政の再建を目指して自らが家督相続した強い決意を示し、さらに大倹約を主旨とした大倹令を発布した[41]。また自らの生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大幅なリストラを行った[42]。他にも殖産興業政策、籍田の礼、世襲代官制度の廃止、備荒20ヵ年計画など改革は次々と実行され、鷹山の時代に米沢藩は息を吹き返すことになった。

だが鷹山の改革は上杉家譜代の老臣らから根強い反対があり、1度は七家騒動において須田満主芋川正令らが処分されたが[43]、改革も後半になると再び老臣らが鷹山の腹心となっていた竹俣当綱を失脚させるなどした[44]。また天明の大飢饉などで改革が停滞に入ったことも事実であり、鷹山は天明5年(1785年)に隠居し、第10代は重定の四男の治広が継承した[45]。しかし治広と第11代藩主の斉定はいずれも鷹山の後見を望んだため、以後も鷹山の改革が続行されることとなる[46]

鷹山は停滞した改革を再び再建するため、借財返済の延期懇請と財政支出の大幅緊縮を行った[47]。しかし外国船の日本接近による軍役や家臣が多すぎる問題などから、財政は再び悪化していた[48]。このため鷹山は寛政期に入ると、等級の区別無く有能な人材を大量に召しだして登用した[49]。また財政再建16ヵ年計画を定め[50]、農村復興計画や上書箱の設置、緊縮財政から領民保護など様々な改革を行った。一方、藩財政の悪化から事実上廃絶していた藩校興譲館を再興した[51]。福祉政策も充実させて、滅亡寸前だった米沢藩を再建した名君上杉鷹山は、文政5年(1822年)3月に死去した[52]

幕末

上杉茂憲

第12代藩主斉憲の時代に、米沢藩は幕末を迎える。斉憲は佐幕派として文久3年(1863年)に上洛して京都警衛を果たし、翌年からは嗣子茂憲が上洛して2年間京都警衛を果たしたため、その功績により慶応2年9月(1866年10月)に屋代郷3万7248石を幕府より与えられ、米沢藩の知行高は19万石近くまで増加した[53]大政奉還が行われると、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれたが、藩主斉憲は保科正之の旧恩があるとして幕府に味方した[54]

慶応4年4月に江戸城の無血開城が成り、戊辰戦争がいよいよ東山道に波及し始めると、米沢藩はかつての保科正之への恩義もあることから会津藩と新政府軍の間に立って仲介に努めたが[54]、その行動はかえって新政府軍から疑いの目を向けられる結果を招いた。するとこれを察知した米沢藩の方でも、新政府軍は会津攻撃が終了したあとも北進して東北の佐幕派諸藩を攻撃するらしいという風聞を信じて驚き慄き、双方疑心暗鬼のうちに米沢藩は奥羽越列藩同盟に加わって仙台藩や会津藩とともに新政府軍に対峙するという好ましからぬ状況にはまってしまった[55]。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩はその故地でもある越後を担当したが、長岡藩と共同して戦った北越戦争において新政府軍に敗退、羽越国境の大里峠まで迫られたところで、同年8月18日新政府軍方から思いがけない報せが藩主の正室 貞姫を経由して米沢藩にもたらされた。東山道先鋒総督府は土佐藩迅衝隊を中心に編成された部隊だったが、その幹部である谷干城片岡健吉伴権太夫らは連名で米沢藩に恭順を薦める内容の書状を書き、これを土佐藩主山内豊資 → その三女で米沢藩主上杉茂憲の正室となっていた貞姫 → 藩主茂憲へと送付したのである。これを受けて米沢藩は24日までに藩論をまとめて恭順した[56]。その後は新政府軍のために勤皇し、庄内藩攻撃のために兵を出し、会津藩に対してもその非を説き恭順することを諭した。

米沢藩は戦後の処置で、明治元年(1868年)12月に4万石を減封されて14万7000石となった[57]。また藩主斉憲は隠居となり、嫡子の茂憲が家督を継いだ[57]。明治2年(1869年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。

米沢藩は宮島誠一郎の指導のもと、版籍奉還などの明治政府の改革を積極的に支持していくことで「朝敵」の汚名をそそぐことに尽力した。明治4年7月14日(1871年8月29日)廃藩置県によって米沢県となり[58]、11月に置賜県を経て[59]、山形県に編入された。

藩主家は明治2年6月17日の版籍奉還と同時に華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令伯爵を授けられた。上杉茂憲は藩主退任後、沖縄県令として県政の再建に尽力している[60]




注釈

  1. ^ 佐渡で金鉱が発見されたのは、上杉氏改易後の1601年である。
  2. ^ 吉川弘文館の「上杉鷹山」や「山形県史」などでは徳川宗勝が諭したとしており、これが通説になっているが、そもそも宗勝は宝暦11年に死去している。
  3. ^ ただし、中老職は他藩では非常置であることが多く、単純に臨時の役職であった可能性もある。

出典

  1. ^ 小野 2006, p. 12.
  2. ^ 小野 2006, p. 36.
  3. ^ 小野 2006, p. 38.
  4. ^ 小野 2006, p. 39.
  5. ^ 小野 2006, p. 40.
  6. ^ 小野 2006, p. 46.
  7. ^ 小野 2006, p. 49.
  8. ^ 小野 2006, p. 50.
  9. ^ 小野 2006, p. 51.
  10. ^ a b c 小野 2006, p. 59.
  11. ^ 小野 2006, p. 69.
  12. ^ a b c d e f 小野 2006, p. 70.
  13. ^ 野口 2006, p. 16.
  14. ^ a b 野口 2006, p. 17.
  15. ^ 坂本 2011, p. 13.
  16. ^ 糠澤 2010, p. 12.
  17. ^ 野口 2006, p. 19.
  18. ^ 糠澤 2010, p. 13.
  19. ^ a b c d e 小野 2006, p. 71.
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  22. ^ a b 野口 2006, p. 22.
  23. ^ a b c d 小野 2006, p. 72.
  24. ^ a b c d e 野口 2006, p. 23.
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  46. ^ 小野 2006, p. 138.
  47. ^ 小野 2006, p. 141.
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  54. ^ a b 小野 2006, p. 189.
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  59. ^ 小野 2006, p. 194.
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  61. ^ a b 糠澤 2010, p. 19.
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  66. ^ a b 小野 2006, p. 88.
  67. ^ a b 小野 2006, p. 89.
  68. ^ a b c d 小野 2006, p. 90.
  69. ^ a b 小野 2006, p. 91.
  70. ^ a b c d e 小野 2006, p. 92.
  71. ^ 松尾正人『維新政権』吉川弘文館〈日本歴史叢書〉、1995年。
  72. ^ 日本銀行貨幣博物館展示および公式web
  73. ^ a b c 小野 2006, p. 173.
  74. ^ a b c d 小野 2006, p. 174.
  75. ^ 小野 2006, p. 181.
  76. ^ 横山 1968.





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