米沢藩 前史

米沢藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 15:21 UTC 版)

前史

伊達政宗

米沢は戦国時代天文17年(1548年)から伊達家の本拠地であった。当時の伊達家は第14代伊達稙宗と嫡子の晴宗による内紛(天文の乱)が起こっており、その内紛に勝利した晴宗は伊達家第15代となり米沢に本拠を移した。しかし晴宗と嫡子の輝宗も内紛を起こし、輝宗が勝利して第16代となるも、伊達家はそのために勢力拡大が大幅に遅れていた。

天正12年(1584年)10月、輝宗は隠居して嫡子の政宗が第17代当主となる[1]。政宗は相馬家二本松畠山家蘆名家など奥州南部の諸氏を攻めて勢力を拡大。天正17年(1589年)6月に摺上原の戦いで蘆名家に大勝して同家を滅ぼし[2]、以後政宗は蘆名家の本拠であった黒川城を本拠とした。さらに二階堂家[3]石川家岩城家[4]を滅ぼした政宗は奥羽66郡の内、およそ半ばを支配する[5]奥羽の覇者となった。

しかし天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗は6月に小田原に参陣して豊臣秀吉に臣従した。このため伊達家の存続は許されたが、秀吉の奥州仕置により会津郡安積郡岩瀬郡など3郡は秀吉の発令していた奥羽両国惣無事令違反であるとして没収され[6]、政宗は再び本拠を米沢に移した[7]。だが秀吉は奥州仕置に際して厳しい検地を命じたため[8]、10月初旬に奥州仕置で改易された大崎家葛西家の旧領で一揆を起こした[9]。この一揆は会津の新領主となった蒲生氏郷と政宗によって鎮定されたが、一揆の扇動に政宗があり、また氏郷暗殺の謀略があったとして秀吉は天正19年(1591年)秋に政宗から故地米沢をはじめ、伊達郡信夫郡などを没収して大崎・葛西の旧領を与えた[10]。これにより伊達家の領地はさらに減少し、年貢収入に至っては従来の半分ほどになった[10]。政宗は岩手沢城を新たな居城と定めて岩出山と改名した[10]

政宗が移封された後、伊達家の旧領は会津の領主であった蒲生氏郷の所領となり、氏郷は米沢に蒲生郷安を入れた[11]。だが文禄4年(1595年)に氏郷が死去[12][13]。嫡子の秀行が13歳で跡を継ぐ[14]。しかし東北の鎮守として90万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍い[14]があって18万石に減封された[15][16]

蒲生家に代わって会津に入封したのは越後春日山城主の上杉景勝であった[17]。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であり[18]、これは徳川家康毛利輝元含む毛利一族(小早川秀包、安国寺恵瓊など)に次ぐ第3位の石高であった[12]。景勝は家老直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達政宗及び山形最上義光に対する抑えとした。ただし直江自身の所領は6万石だったといわれ[12]、直江は上杉家全体を執政する立場にあったことから米沢には城代を派遣し、自らは本拠の若松城で景勝を補佐した[12]

慶長3年(1598年)8月に秀吉が[12]、慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると[19]、徳川家康の勢力は豊臣政権内において抜きん出た立場になり、家康は政宗をはじめとする諸大名との無断婚姻を繰り返した。家康に対抗しようと五奉行石田三成は直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると[19]、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た[20]。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した[21][19]。しかしこの軍備増強は、越後の堀秀治[19]や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した[21][19]

神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた[22]。7月24日、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は[23][22]、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した[24]。直江兼続は家康を追撃しようとしたが[23]、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した[24]。一説に景勝は天下に上杉家の信を失い、恥辱を残すことを恐れて許さなかったとされている[23]。直江兼続は矛先を出羽山形の最上義光に向け、9月3日に直江は米沢に帰城すると[25]、大軍を最上領に差し向けた(慶長出羽合戦)。直江は現在の東村山郡山辺町大字畑谷にあった畑谷城を落としたが、長谷堂城で最上軍の猛烈な反撃を受けて攻勢は停滞[25]、その間の9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった[24][23]。9月29日に景勝のもとに石田大敗の急報が入り、景勝は直江に総退却を命じた[25]。この時、上杉軍と最上軍、及び最上を救援する伊達軍との間で熾烈な追撃戦が行われ、両軍合わせて3000余の戦死者が出た[25]

景勝は家康と和睦するため、11月に重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させた[24]。自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した[26][24]。こうして上杉家の支配による幕藩体制下の米沢藩が成立した[26]




注釈

  1. ^ 佐渡で金鉱が発見されたのは、上杉氏改易後の1601年である。
  2. ^ 吉川弘文館の「上杉鷹山」や「山形県史」などでは徳川宗勝が諭したとしており、これが通説になっているが、そもそも宗勝は宝暦11年に死去している。
  3. ^ ただし、中老職は他藩では非常置であることが多く、単純に臨時の役職であった可能性もある。

出典

  1. ^ 小野 2006, p. 12.
  2. ^ 小野 2006, p. 36.
  3. ^ 小野 2006, p. 38.
  4. ^ 小野 2006, p. 39.
  5. ^ 小野 2006, p. 40.
  6. ^ 小野 2006, p. 46.
  7. ^ 小野 2006, p. 49.
  8. ^ 小野 2006, p. 50.
  9. ^ 小野 2006, p. 51.
  10. ^ a b c 小野 2006, p. 59.
  11. ^ 小野 2006, p. 69.
  12. ^ a b c d e f 小野 2006, p. 70.
  13. ^ 野口 2006, p. 16.
  14. ^ a b 野口 2006, p. 17.
  15. ^ 坂本 2011, p. 13.
  16. ^ 糠澤 2010, p. 12.
  17. ^ 野口 2006, p. 19.
  18. ^ 糠澤 2010, p. 13.
  19. ^ a b c d e 小野 2006, p. 71.
  20. ^ 野口 2006, p. 20.
  21. ^ a b 野口 2006, p. 21.
  22. ^ a b 野口 2006, p. 22.
  23. ^ a b c d 小野 2006, p. 72.
  24. ^ a b c d e 野口 2006, p. 23.
  25. ^ a b c d 小野 2006, p. 73.
  26. ^ a b c 小野 2006, p. 74.
  27. ^ a b c d e 小野 2006, p. 75.
  28. ^ a b 小野 2006, p. 76.
  29. ^ 小野 2006, p. 77.
  30. ^ a b 小野 2006, p. 78.
  31. ^ a b 小野 2006, p. 79.
  32. ^ 小野 2006, p. 81.
  33. ^ a b c 小野 2006, p. 82.
  34. ^ a b 小野 2006, p. 83.
  35. ^ a b c d e 小野 2006, p. 84.
  36. ^ a b c 小野 2006, p. 85.
  37. ^ a b c d e 小野 2006, p. 86.
  38. ^ a b c 小野 2006, p. 109.
  39. ^ 小野 2006, p. 110.
  40. ^ a b 小野 2006, p. 113.
  41. ^ 小野 2006, p. 117.
  42. ^ 小野 2006, p. 118.
  43. ^ 小野 2006, p. 121.
  44. ^ 小野 2006, p. 136.
  45. ^ 小野 2006, p. 137.
  46. ^ 小野 2006, p. 138.
  47. ^ 小野 2006, p. 141.
  48. ^ 小野 2006, p. 142.
  49. ^ 小野 2006, p. 146.
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  54. ^ a b 小野 2006, p. 189.
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  56. ^ 小野 2006, p. 191.
  57. ^ a b 小野 2006, p. 192.
  58. ^ 小野 2006, p. 193.
  59. ^ 小野 2006, p. 194.
  60. ^ 小野 2006, p. 199.
  61. ^ a b 糠澤 2010, p. 19.
  62. ^ 小野 2006, p. 94.
  63. ^ a b c d 小野 2006, p. 95.
  64. ^ a b c d 小野 2006, p. 96.
  65. ^ 小野 2006, p. 97.
  66. ^ a b 小野 2006, p. 88.
  67. ^ a b 小野 2006, p. 89.
  68. ^ a b c d 小野 2006, p. 90.
  69. ^ a b 小野 2006, p. 91.
  70. ^ a b c d e 小野 2006, p. 92.
  71. ^ 松尾正人『維新政権』吉川弘文館〈日本歴史叢書〉、1995年。
  72. ^ 日本銀行貨幣博物館展示および公式web
  73. ^ a b c 小野 2006, p. 173.
  74. ^ a b c d 小野 2006, p. 174.
  75. ^ 小野 2006, p. 181.
  76. ^ 横山 1968.





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