第41回NHK紅白歌合戦
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演奏
審査員
- 山本陽子(女優):この年下期の連続テレビ小説『京、ふたり』の能田妙子役。
- 中村鴈治郎(歌舞伎俳優):この年三代目・中村鴈治郎を襲名。
- 諏訪内晶子(ヴァイオリニスト):この年の第9回チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門で史上最年少且つ日本人初の第1位を獲得。
- 野田秀樹(俳優・劇団『夢の遊眠社』主宰):この年のエディンバラ国際芸術祭に参加し『半神』を上演。
- コシノジュンコ(ファッションデザイナー):この年のオペラ『天国と地獄』など多くの舞台のコスチュームを手掛ける。
- 渡辺久信(西武ライオンズ投手):この年ライオンズを日本一に導き、18勝(10敗)で最多勝利(自身3度目)、ゴールデングラブ賞にも輝いた。
- 森口祐子(プロゴルファー):この年の女子プロゴルフ界を盛り上げた立役者の一人。
- 松岡修造(プロテニスプレーヤー):前年のATPツアートーナメント・ハイネケン・オープン男子ダブルスで優勝。
- 沢口靖子(女優):翌年の大河ドラマ『太平記』の赤橋登子役。
- 真田広之(俳優):同じく『太平記』の主人公・足利尊氏役。
- 沖清司・NHK番組制作局長
- 客席審査員9名
- 家族審査員(全国200家族)
大会委員長
- 小山森也・NHK放送総局長
出場歌手
初出場、 返り咲き。
選考を巡って
- この年は、「今年の歌」「21世紀に伝える歌」「大晦日に相応しい熱唱」という観点が出場者・曲目決定にあたって重要な基準とされた[15](このうち「21世紀に伝える歌」に関しては前年の第1部における「昭和の紅白」をイメージした番組構成が高い評価を得たことによるものである)。それに伴い、往年の紅白を賑わせた歌手が数多くカムバックした。
- 青江三奈は、この年12月2日に亡くなった「恍惚のブルース」の作曲家でもある浜口庫之助を偲ぶ形式で第34回(1983年(昭和58年))以来7年ぶりに復帰した。しかし、その後は青江が2000年(平成12年)7月2日に亡くなる(享年59)まで紅白出場は果たせず、今回が青江の生涯最後の紅白出場となった。
- 尾崎紀世彦も第23回(1972年(昭和47年))以来18年ぶりに復帰した。代表曲「また逢う日まで」を歌唱したが、これが尾崎の生涯最後の紅白出演となり、2012年(平成24年)5月30日に69歳で死去した。
- 植木等が歌手としては第18回(1967年(昭和42年))以来、23年ぶりに紅白に登場(2007年3月27日死去、享年80。最後の出場でもある。ただし植木は第44回(1993年(平成5年))に審査員として出演している)。この年の末に発表した「スーダラ伝説」(植木のソロ名義で発売されたものを含む、クレージーキャッツの代表的なヒット曲をつなぎ合わせたヒットメドレー的な楽曲)を白組出場メンバー総出の応援の下で熱唱。この時のパワフルなパフォーマンスがきっかけとなり、翌年にかけて若年層を中心に植木等の歌手・タレントとしての功績の再評価がなされることとなった。
- 大津美子がクモ膜下出血の難病を見事に克服し、第13回(1962年(昭和37年))以来28年ぶりにカムバック出場。自身最大の代表作でありながら、これまで紅白では一度も披露されていなかった「ここに幸あり」を歌唱した。
- 第45回(1994年(平成6年))を除き第58回(2007年(平成19年))まで連続出場したさだまさしがカムバックしたのも今回から。演奏時間7分以上の大作「風に立つライオン」を披露した。
- この他、郷ひろみや橋幸夫、布施明ら往年の紅白の常連組も久々に紅白に登場した。白組司会の西田も、歌手兼業で出場している。
- 今回の主な初出場者は上記の宮沢、長渕のほか、この年のオリコン年間シングルチャート1位でもある「おどるポンポコリン」を引っ下げて登場のB.B.クィーンズや久保田利伸、吉田栄作など、海外からはシンディ・ローパーやポール・サイモンなどの大物も含めて計19組となった。これは、紅白では翌年の第42回に次いで2番目に多い初出場歌手数であった。
- 「歌合戦」という冠でありながら、インストゥルメンタルバンドG-クレフも出場した(インストバンドとしては初)。
- 今回の出場者数、紅白各29組は第54回に各31組の出場者が選考されるまで紅白最多出場者数記録となっていた。しかし、当初の企画段階ではこれよりも更に2、3組の上積みを予定しており、その枠には海外の大物アーティストを起用する方針であったという。事実、12月6日に出場者の発表が行われた際にも、紅組29組、白組27組の出場歌手を先ず発表した上で、「今年は31組ずつの歌手を選ぶ方針で人選を進めているため、残りの数組についてはまた交渉がまとまり次第おって発表をする」という異例の声明が出されている。だが、当初出場を念頭に交渉に当たっていたビリー・ジョエルやジュリー・アンドリュースらからは「スケジュールが取れない」という理由で悉くオファーを固辞されてしまい[16]、結局は予定よりも2組少ない紅白各29組ずつとなり、残りの白組の2枠については、唯一、大物アーティストの中で出演OKの返事がきたポール・サイモンと、アメリカの黒人ソウルシンガー、アリスン・ウィリアムスとのセットで国内の歌手から久保田利伸を選出、そして両者をNHKホールではなく、アメリカからの衛星中継で出演させる形で決着が図られた。最終的に出場者が全決定したのは12月19日のことだった[17]。
- 特別ゲストとして、フランク・シナトラとの出演交渉を行ったが結局シナトラとの交渉は暗礁に乗り上げ、出演はならなかった[16][18]。
- 『週刊読売』によると、Winkは落選した[19]。松田聖子も自ら辞退宣言をしたが、実際はNHK自身オファーするつもりはなかったという[20]。近藤真彦も落選[20]。中森明菜は候補には入っていたものの辞退となった[20]。松任谷由実は出演拒否[20]。島倉千代子もオファーしたが、「卒業しました」と辞退している[20]。男闘呼組も、同じくジャニーズ事務所所属の忍者と入れ替わる形で不出場となった[20]。冠二郎は2年連続で次点となり落選[20]。なお、たまも辞退を考えていたが、レコード会社の人間から必死に止められたため出演している。
その他
ゲスト出演者
- 今いくよ・くるよ:少年隊と工藤静香の曲間およびB.B.クィーンズの曲中。
- 宮川大助・花子:同上。
- オール阪神・巨人:同上。
- 栗田貫一:瀬川瑛子の曲紹介。
- 森口博子:東京都渋谷区より中継およびB.B.クィーンズの曲後。
- ティム・コール(イリュージョニスト):「ティム・コールのイリュージョン」
- 大竹まこと:B.B.クィーンズの曲中。
- 高田純次:同上。
- チャーリー浜:EVEの曲前。
- ジョージ・カール(パフォーマー)。西田敏行の曲前。
- 杉浦圭子(東京アナウンス室):ブラジル・サンパウロ・オリンピア劇場より中継。
- チョウ・ヨンウン(BSキャスター):。韓国・ソウル・ロッテワールドより中継。
演奏ゲスト
- ^ 合田道人『紅白歌合戦の真実』、292頁。
- ^ a b 合田『紅白歌合戦の真実』、293頁。
- ^ 三田も『大河ドラマ』の主演経験者(1986年作品『いのち』主演)であり、史上初の『大河ドラマ』主演経験者同士の両組司会となった。
- ^ a b c 長渕剛 13年ぶり紅白出場へ、スポニチアネックス、2003年11月26日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ 紅白歌手別視聴率、40%超えは嵐ら3組だけに…前回は31組、スポーツ報知、2020年1月7日 6時0分。
(平成以後の紅白歌手別瞬間最高視聴率) - ^ アメリカ合衆国・ニューヨーク・ワシントンスクエアより中継
- ^ ドイツ・ベルリン・フランス聖堂より中継。
- ^ 東京都港区芝浦より中継。
- ^ 「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド (指名手配)」「2年目のジンクス」のメドレー
- ^ 「スーダラ節」「無責任一代男」「ドント節」「だまって俺について来い」「ハイそれまでョ」のメドレー
- ^ a b ブラジル・サンパウロ・オリンピア劇場より中継。
- ^ 韓国・ソウル・ロッテワールドより中継。
- ^ ドイツ・ベルリンからの映像。
- ^ アメリカ合衆国・ニューヨークからの映像。
- ^ 『読売新聞』1990年12月7日付東京夕刊、13頁。
- ^ a b 『読売新聞』1990年12月20日付東京夕刊、11頁。
- ^ 『朝日新聞』1990年12月20日付朝刊、30頁。
- ^ 『毎日新聞』1990年12月20日付東京朝刊、26頁。
- ^ 『週刊読売』1990年12月23日号、199頁。
- ^ a b c d e f g 『週刊読売』1990年12月23日号、201頁。
- ^ ただし、この間西田は第58回(2007年)でナレーションとして出演している。
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