第三青函丸 第三青函丸の概要

第三青函丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 03:28 UTC 版)

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ここでは第三青函丸、第四青函丸について記述する。青函丸の名称を持つ車両渡船の第3・4船であった。

車両渡船追加建造までの経緯

第一次世界大戦終結後の日本は、1920年(大正9年)の戦後恐慌に始まり、1923年(大正12年)の関東大震災1927年(昭和2年)の金融恐慌と続く長い不況下にあって、青函航路の貨物輸送実績も1921年(大正10年)度から3年連続で減少していた。しかし1924年(大正13年)度以降は増加に転じ、 翔鳳丸型4隻が車両航送を開始した翌年度で、年度途中から第一青函丸も加わった1926年(大正15年・昭和元年)度は5隻6往復となり[1]、貨物輸送量は上り下り合わせて65万4952トンと対前年比132%で、車両航送導入の威力を見せ付けた結果となった[2]

その後も1928年(昭和3年)10月の青森第2岸壁(太平洋戦争後は第1岸壁と呼ばれた最も南側の岸壁)使用開始を受け、5隻7往復となり[3]1929年(昭和4年)度には80万8441トンに達した。1930年(昭和5年)度には第二青函丸就航により6隻で9往復設定されたが、折からの世界恐慌のあおりを受け、不況は一層深刻化し[4]、実質7往復のままで[5]、同年度の貨物輸送量は前年割れの77万7569トンと、車両航送開始以降初めての減少を経験した。しかし1932年(昭和7年)度の74万9127トンを底に、翌1933年(昭和8年)度には景気回復で8往復に戻し[3]、83万5676トンまで増加した。翌1934年(昭和9年)には9往復に増便されたが、貨物輸送量の増加は一進一退で、依然上記6隻体制で対応可能であった[3][6]

しかし1936年(昭和11年)度の貨物輸送量は対前年比115%の109万7134トンに達し[7]1937年(昭和12年)7月の日中戦争 勃発以降は、第一次世界大戦時同様、船腹不足による海運貨物の鉄道への転移も加わり、前年比120%前後で増加を続けた。このため1937年(昭和12年)の秋冬繁忙期と翌1938年(昭和13年)8月以降は6隻で最大10往復運航して、これに対応したが[3]、これ以上の増便には船腹増強しかないため、鉄道省は1937年(昭和12年)9月、車両渡船建造を浦賀船渠へ発注、1938年(昭和13年)10月起工、1年の工期で1939年(昭和14年)10月竣工したのが第三青函丸であった[8][9][10]。 

その後も、戦線の拡大とともに、海運貨物の鉄道への転移はますます顕著になり、1940年(昭和15年)度の貨物輸送量は7隻12往復で[11]213万1500トンと4年間で倍増し、太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)夏には、北海道産石炭を京浜工業地帯へ輸送する船舶にも事欠く事態となった。しかし、当時は民間造船所においても海軍艦艇の建造が優先され、1939年(昭和14年)10月発注の第四青函丸は、ようやく1941年(昭和16年)8月起工したものの、1942年(昭和17年)2月からは海軍艦政本部の管理監督下におかれ[9]、一時船体工事中断の憂き目に遭いながらも[12]1年半以上を費やし、1943年(昭和18年)2月竣工した[8]。なお、1943年(昭和18年)度の貨物輸送量は364万597トンにも達していた[7]

第三青函丸の船体構造

第三青函丸は、青森、函館の専用岸壁を従来船と共用する旅客扱いしない車両渡船ということで、船体の長さや幅、車両積載数は第二青函丸と大差はなかった。しかし、第二青函丸就航から8年ぶりの建造で、その間の技術の進歩や、第一青函丸第二青函丸での使用経験を採り入れた、抜本的な改良が加えられていた。

船橋楼甲板全通による車両甲板被覆

第一青函丸第二青函丸では車両甲板に屋根がなく、荒天時や降雪時の車両緊締作業の難渋や、波浪による車両の損傷がたびたび発生していた。このため第三青函丸では、第二青函丸で車両甲板を部分的かつ別々に覆っていた同じ高さの、船首楼甲板、船体中央部船橋楼の遊歩甲板、船尾楼の後部船橋甲板、を前後につないで、全通の“船橋楼甲板”とし、車両甲板のほぼ全体を覆う屋根とした。更に車両甲板舷側も、車両甲板と船橋楼甲板の間を外板で覆い、“車両格納所”としての体裁を整え、船首楼と船橋楼の間には長さ約16m、船橋楼と船尾楼の間には長さ約29mにわたり、外舷外板に車両甲板面からの高さ3.5mを下縁とする縦1.3mの通風採光用の開口部を設け、冬期や荒天時には、これをキャンバス(帆布)で閉鎖する構造として積載車両の側面も被覆し、上記の問題を解決した[13]。なお、この第三青函丸から戦後の1948年(昭和23年)建造の車両渡船までは、この車両甲板車両格納所屋根の全通甲板を“Bridge deck”または“船橋楼甲板”と呼んだが、1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降は“船楼甲板”となった。

この、船橋楼甲板全通により船体縦強度が増し、第一青函丸、第二青函丸のような車両甲板下の鉄骨トラス構造による船体補強は不要となり、また第一青函丸、第二青函丸では低い車両甲板を上甲板とし、積載車両丸見えの、いかにも“貨車渡船”という外観から、第三青函丸の全通の高い船橋楼甲板を持つ堂々たる大型船、という印象になった。しかし、これが風圧面積の増大と重心の上昇を招き、前者に対しては舵面積の増大で対応したが、この大きくなった舵を動かせるだけの大出力を持ちながら、車両甲板下の天井の低い操舵機室内に納まる操舵機として、新型汽動式の浦賀式操舵機が考案され、採用された[14]

一般配置

第二青函丸では、端艇を遊歩甲板(第三青函丸の船橋楼甲板に相当)の甲板室屋上に載せていたため、ここを端艇甲板と称したが、本船では、広くなった船橋楼甲板の後部両舷に端艇2隻ずつを懸架し、船橋楼甲板室の屋上には端艇がなくなったため、ここを遊歩甲板と称した。この甲板室2階の遊歩甲板には、第二青函丸同様、個室の甲板部高級船員居室が配置されたほか、第二青函丸では1層下にあった無線室も上がってきた。甲板室1階の船橋楼甲板には個室の機関部・事務部の高級船員居室、高級船員食堂とその厨房、事務室等が設けられた。甲板室3階の航海船橋には第二青函丸と同様、両舷に張り出した操舵室が設けられたが、その平面形状は、前面を丸く張り出し、その下に続く甲板室前面の遊歩甲板遊歩廊、船橋楼甲板遊歩廊の各ブルワークも操舵室前面に揃えて同様に丸く、船橋楼甲板の遊歩廊は更に両舷側の遊歩廊にもつながり、後部煙突基部まで続いて、これらが白く塗装され、前面の丸くなった甲板室が視覚的に強調された[15]

船橋楼甲板船尾端中央部には、後部船橋が設けられた。青函連絡船では前進で入港し、岸壁直前で補助汽船の助けを借りて右回頭する着岸操船法が翔鳳丸型による車両航送開始時以来採られたため、港外で回頭後、後進で入港することを想定して装備された翔鳳丸型と第二青函丸の船首舵は有効に使用される機会がなく、本船以降の青函連絡船には船首舵は装備されなかった。このため、後部船橋内には上記5隻で装備された舵輪も装備されなかった[16][15]。しかし車両積卸しを目視しながらヒーリング装置の遠隔操作を行う場所としては、後述の理由でその重要性を増していた。

第二青函丸では、船首楼2階の低船首楼甲板と呼ばれた部分は、本船では、車両甲板船首の中2階となり、“Partial Deck”あるいは“部分甲板”と呼ばれ[17]、定員数名から十数名の2段寝台室の甲板部員居室、浴室、トイレが配置され、その下の車両甲板船首部には甲板部員用の食堂、機関部員用浴室、トイレが配置された。更に車両甲板下の錨鎖庫後ろに隣接する第1船艙の第二甲板に、やはり定員数名から十数名の2段寝台室の機関部員居室と機関部員食堂が設けられた。なお“馬匹付添人”等の“その他の者”には、車両甲板下、機械室後ろ隣の車軸室第二甲板に3等船室レベルの雑居室を設けて対応した[18]。第1船艙の後ろには水密隔壁を隔て両舷にヒーリングタンクを抱えた第2船艙があり、更にボイラー室、機械室、車軸室、第3船艙、操舵機室と続き、全通の2重底であった。

車両積載設備

車両甲板は第一青函丸第二青函丸と同様、可動橋の架かる船尾端は3線で、すぐに中線が分岐して車両甲板の大部分で4線となるよう軌道が敷設され、車両甲板船首には船員居住区があり、4線ともその直前で横並びの終点で、各線に自動連結器付き車止めが設置されていた。各線の軌道有効長とワム型貨車積載両数は、左舷の船1番線から右舷の船4番線にかけて、それぞれ94m 12両、94m 12両、64m 8両、94m 12両で、計44両の積載が可能であった[13][19]

当時就航中の翔鳳丸型は船内軌道3線であったが、中線の船2番線は船体中央部の機関室囲壁で行き止まりのため、機関室囲壁より船首側では、船1番線と船3番線は近接して、船体中心線からの距離は比較的短かった。また第一青函丸第二青函丸は4線であったが、上部構造物が小さく重心が低かった。このため、これら6隻では、車両積卸し時、船体横傾斜ゼロから、積卸し側の舷側ヒーリングタンクと船外との注排水だけで船体横傾斜を制御できていた。しかし、本船では船橋楼甲板全通による上部構造物増加で、重心が上昇したため、車両積卸し時の船体横傾斜が増大し、このような方法では、当時の可動橋の船体傾斜追従性能を越えてしまうため、両側のヒーリングタンクにそれぞれ半分量の海水を入れておき、船1番線、船4番線積込み前に予め反対側へ2度船体を傾け、積込み時には両側のタンク間で海水移動を行って横傾斜を2度以内に収める操作が必要になり[20][21]、後部船橋からのヒーリング操作の重要性が増していた。

なお、第二青函丸同様、ボイラーからの煙路を車両甲板両舷側に振り分けたため、ヒーリングタンクをボイラー室舷側へは設置できず、前隣の第2船艙舷側への設置となったが、煙路を支障しない程度にヒーリングタンク後部をボイラー室舷側へはみ出させ、ヒーリングポンプをボイラー室前部のポンプ室に配置することで、両舷タンク間の移水パイプを前後に引きまわすことなく設置できた[22]

このヒーリング装置翔鳳丸型、第一青函丸、第二青函丸と同じシステムを踏襲し、ヒーリングポンプには第一青函丸、第二青函丸と同容量(2,000m3/h×7.0m(水頭))で吐出方向一定の汽動式遠心ポンプを用い[23]、ポンプの前後に配置された2個の4方コックの栓を所定位置まで回す電動機は船内電力交流化により交流電動機が用いられ、船橋楼甲板船尾端の後部船橋からの遠隔操作で、全てのヒーリング操作が可能であった[24]

係船機械

船橋楼甲板船首には汽動式揚錨機が設置され、その前方、船体中心線上には揚錨機からのシャフトを介して駆動される回転軸が垂直のキャプスタンも設置され、船橋楼甲板船尾には汽動式キャプスタンが左右に1台ずつ設置されていた。これらの配置は翔鳳丸型とほぼ同様であったが、翔鳳丸型を含め通常、揚錨機の力量は錨の大きさで決められていた。揚錨機は両舷の錨の投揚錨を行うほか、揚錨機本体の両側面にはワーピングドラムという水平軸で回転する糸巻き形のドラムが突出しており、これに岸壁と繋いだ係船索を数回巻き付け、スリップさせて張力を調節しつつ係船索を巻き込んで着岸していた。青函連絡船では定時運航確保のため、この着岸係船作業を、1日4回、たとえ悪条件下でも迅速に行うことが求められ、係船索を巻き込むワ―ピングドラムの力量が問われた。しかし錨の大きさで決められた力量では不十分であったため、第三青函丸からは係船索を10トン近い力で引張られても負けない程度の大型の揚錨機が採用され、以後の標準となった[25][26]

機関部

運航船舶数が増加し便数が増加すると、第一青函丸第二青函丸 のような青森-函館間を6時間運航する船と、翔鳳丸型のように4時間30分運航する船とを混用すると、航海中の追越しや、岸壁使用上の制約が発生し、ダイヤ作成が煩雑になるため、第三青函丸以降の新造船には、翔鳳丸型並みの4時間30分運航が可能な性能を持たせ、併せて1日2往復による運航回数増加を図った。

このため、大型ボイラーが搭載できるよう、深さ(車両甲板から船底までの距離)を第一青函丸第二青函丸より約50cm増しの6.6mとしたうえで[13]、舶用スコッチボイラーを各舷前後方向に3缶ずつ計6缶搭載し[22]、各舷とも煙路を前1缶と後ろ2缶に分けたため、煙突は各舷2本ずつの計4本となり、第二青函丸同様、何れの煙突も船橋楼甲板室舷側の遊歩廊屋根(遊歩甲板)から立ちあがった[27]。ちょうどこの頃、浦賀船渠でも自社開発の蒸気タービン製造を開始し、その初号機が第三青函丸に搭載された[28][29]。定格出力2,000馬力の高低圧タービンの2筒式、2段減速歯車付衝動タービンで[30][22]、これを2台搭載して、航海速力を11ノットから15.5ノットに上げた[31]

垂線間長[32]は110.00mと、第二青函丸の109.73mからほとんど伸びていなかったにもかかわらず、船内の軌道を各線とも約1mずつ延ばし[13]、車両積載数を1両増加させたため、車両甲板船首部分の幅が広くなり、一方、航海速力を15.5ノットに上げるため、船首部分の喫水線以下を鋭くしたため、船首付近側面の喫水線から車両甲板の高さに至る船体外板の傾斜が大きい、フレアーの大きな船型となってしまい、荒天の縦揺れ時に波にたたかれる問題が生じた[33]

青函連絡船初の船内交流電化

鉄道省では、1936年(昭和11年)建造の関釜連絡船 金剛丸(7,081.74総トン)から、日本で初めて、船内電力を、従来の直流100Vから、三相交流60Hz  225Vに変更して採用し[34]青函連絡船でも、この第三青函丸から、船内電力の60Hz  225V三相交流化が始まった。蒸気タービン駆動の50kVA発電機2台装備し、航海中は1台使用し、出入港時は2台使用となったが、2台並列運転はできなかったため、負荷をそれぞれ、照明と動力に分けて運転した[35][36]。しかし、揚錨機や操舵機、ヒーリングポンプ等の重要機器は従来通り汽動式のままであった。




  1. ^ 青函連絡船史p196、197 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  2. ^ 青函連絡船史p232~235 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  3. ^ a b c d 青函連絡船史p197 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  4. ^ 宮原武夫、黒羽清隆他 高校日本史p297~300実教出版1983
  5. ^ 青函栄光の航跡p145 北海道旅客鉄道株式会社1988
  6. ^ 青函連絡船史p234、235 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  7. ^ a b 青函連絡船史p237 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  8. ^ a b 山本熈 車両航送p245 日本鉄道技術協会1960
  9. ^ a b 北海道鉄道百年史(中巻)p192 国鉄北海道総局1980
  10. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p59、60 成山堂書店1988
  11. ^ 青函連絡船史p198、199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  12. ^ 浦賀船渠六十年史p353 浦賀船渠株式会社1957
  13. ^ a b c d e 山本熈 車両航送p246 日本鉄道技術協会1960
  14. ^ a b 青函連絡船史p156 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  15. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p78 成山堂書店1988
  16. ^ 航跡p96、97 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  17. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p39 JTBパブリッシング2008
  18. ^ 山本熈 車両航送 巻末表-36 日本鉄道技術協会1960
  19. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p263 成山堂書店1988
  20. ^ 鉄道技術発達史第6篇(船舶)p25 日本国有鉄道1958
  21. ^ 厳密には1度50分以内:山本熈 車両航送p240 日本鉄道技術協会1960
  22. ^ a b c 青函連絡船史p155、156 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  23. ^ 青函連絡船史 巻末附表p19 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  24. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p274、275 成山堂書店1988
  25. ^ 古川達郎 連絡船ドックp79 船舶技術協会1966
  26. ^ 第六青函丸の揚錨機では、錨鎖を巻き上げる力量は19トン×9m/分、係船索を引くワ―ピングドラムの力量は9トン×20m/分:泉益生 連絡船のメモ(下巻)p17 船舶技術協会1972
  27. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p286 成山堂書店1988
  28. ^ 浦賀船渠六十年史p586 浦賀船渠株式会社1957
  29. ^ 日本の舶用蒸気タービン発達史(1945年まで) 日本舶用機関学会誌28巻1号p15 1993
  30. ^ a b c d 山本熈 車両航送p247 日本鉄道技術協会1960
  31. ^ a b 山本熈 車両航送 巻末表30 日本鉄道技術協会1960
  32. ^ 船首と満載喫水線の交点から舵柱もしくは舵頭材の中心までの距離。Lpp(length between perpendiculars)
  33. ^ a b c 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p107 成山堂書店1988
  34. ^ 徳永勇 日本の艦艇商船の電気技術史 船の科学39巻10号p66 1986
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  37. ^ 古川達郎 連絡船ドックp104、105 船舶技術協会1966
  38. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p108 成山堂書店1988
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  40. ^ 1938年4月1日公布の国家総動員法第13条「政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは、勅令の定むるところにより、総動員業務たる事業に属する工場、船舶その他の施設を管理、使用又は収用することを得」に基づく同年5月4日公布の「工場事業場管理令」第6条により、1940年3月5日、浦賀船渠浦賀工場は海軍管理工場に指定されていた:浦賀船渠六十年史p297 浦賀船渠株式会社1957
  41. ^ 青木栄一 青函連絡船の今昔(前) 鉄道ピクトリアル13巻6号p29 1963
  42. ^ "戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件(昭和17年10月6日 閣議決定)". リサーチ・ナビ. 国立国会図書館. 20 December 2012. 2020年8月13日閲覧
  43. ^ a b c 青函連絡船史p196~199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
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  45. ^ 青函連絡船史p327 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
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