第一次ベララベラ海戦
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参加艦艇
日本海軍
- 警戒隊:艦載水雷艇1隻、武装大発2隻、第5号駆潜特務艇[43]、第12号駆潜特務艇[43]、陸軍装甲艇1隻(九〇式五糎七戦車砲装備)[44]
- 輸送隊:艦載水雷艇3隻、陸軍大発10隻、海軍大発3隻
- 陸軍290名、海軍陸戦隊150名[40]
アメリカ海軍
戦闘経過
作戦実施にあたり、第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐は川内型軽巡洋艦川内から吹雪型駆逐艦漣(第7駆逐隊)に移乗し、漣に将旗を掲げた[46]。川内はラバウルからブーゲンビル島ブインへの輸送作戦(第19防空隊450名、資材130トン)に従事した[47]。 8月17日午前3時、伊集院指揮下の駆逐艦4隻(漣、浜風、磯風、時雨)はラバウルを出撃した[27][48]。ブーゲンビル島の東を通ってベララベラ島近海へと向かう[49]。 輸送隊のうち海軍側部隊は同日午前7時にブインを出撃[27]、輸送梯団は同日午前10時30分にエレベンタ(ブイン北方)を出撃した[40]。21時ごろに夜戦部隊と輸送部隊はベララベラ島北東海面で合同するが[27][49]、夜戦部隊はこの少し前に夜間爆撃を受けたものの撃退した[48][50]。輸送部隊は順調にホラニウに向かい、8月18日0100ごろには入泊可能と判断された[27]。
輸送部隊がホラニウに向かっている頃の22時32分[27]、漣(第三水雷戦隊旗艦)はベラ湾の方向約15,000メートル先に「ポートランド級重巡洋艦あるいはアトランタ級軽巡洋艦4隻を含む敵艦隊を発見した[48]。これが、ベララベラ島上陸部隊を護衛していたトーマス・J・ライアン大佐指揮下のフレッチャー級駆逐艦4隻であった[46][51]。 伊集院司令官は直ちに集結を令し、敵艦隊(第41駆逐群)を北方へと誘い込むべく行動を起こすも[51]、先の夜間爆撃により日本側の隊列は乱れていた[50]。第938航空隊の零式水上偵察機が照明弾を投下する[46][4]。三水戦はそれぞれ単独で魚雷を発射するも(時雨8本、磯風7本、浜風8本、漣8本)[52]、全て回避されて命中しなかった[53]。時雨が発射した魚雷は水面から飛び出して航走したので、連合軍に魚雷発射を悟られてしまったという[54][4]。戦闘中、時雨は魚雷4本を再度発射したが[52][55]、命中しなかった。
22時59分頃からは夜戦部隊と第41駆逐群の砲戦に移り[48]、23時10分には磯風が単独で二度目の雷撃を行うも、これまた命中した様子はなかった[56]。交戦は23時30分頃まで続き[48]、23時40分に戦場から去っていった[27][57]。戦場から去る際、磯風は二発の命中弾を受けて負傷者を出し、浜風も被弾損傷した[57][47]。夜戦部隊はショートランドを経て、8月18日13時30分にラバウルに帰投した[27]。
輸送部隊からは陸軍側大発動艇10、装甲艇1、海軍側大発4が危険を冒してベララベラ島東岸ホラニウ港に突入した[40]。22時30分から第41駆逐群の砲火を受け、第5号駆潜特務艇と第12号駆潜特務艇、大発1隻が沈没した[43]。また、艦載水雷艇1隻が交戦中の0200頃ホラニウ沿岸で座礁し、後刻焼却処分された[43]。また、揚陸地点にいるはずの陸戦隊が見当たらなかったので、いったん退避・避泊のうえ8月19日夜に揚陸を行った[43]。上陸してみると、ベラ湾海戦で乗艦を沈められたあと漂着した陸兵96名がいることがわかった[40]。舟艇部隊は夜間爆撃を受けつつも、ショートランド泊地に帰投した[49]。
海戦後
第三水雷戦隊では、この戦闘で「大型駆逐艦又ハ巡洋艦一隻轟沈」し[57]、「駆逐艦二隻ニ命中弾各数発ヲ与」えたと判断したが[57]、実際には第41駆逐群に損害はなかった。時雨に乗艦していた原為一(当時、第27駆逐隊司令)と、磯風の下士官もそれぞれ敵艦の火災を目撃し、雷撃により巡洋艦を撃沈したと報告している[58][59]。ただし、前述のように対応するアメリカ艦艇は存在しない[60]。日本側は磯風と浜風が小破したものの、戦線を離脱するほどの損害ではなかった。 戦闘経過は昭和天皇にも報告されていた。8月24日の軍令部総長奏上時、ラバウル維持を主張する永野修身軍令部総長に対し、天皇は海軍の戦果の少なさを指摘、さらに「コノ間陸軍ノ大発ヲ護衛シテ行ツタ駆逐艦四隻ガ逃ゲタト云フデハナイカ」と言及する[60]。「魚雷ヲ撃チツクシテ退避シマシタ」と答えると、天皇は「魚雷ダケデハ駄目、モツト近寄テ大砲デデモ打テナイノカ」と指導した[60]。
ホラニウへの輸送は成功した[61]。これを受けて現地日本軍は「ニュージョージア島とコロンバンガラ島の持久維持」「ベララベラ島はホラニウ方面を確保しつつ、好機を見てベララベラ島上陸部隊を撃滅する」という方針を確認した[14]。ただし、南東方面艦隊と第八方面軍は大本営が決定した中部ソロモン諸島極力持久と後退の方針(8月13日、大海指第267号)[62]を知っており、これ以上攻勢を行う意図はなかった[11]。 外南洋部隊(第八艦隊)は、コロンバンガラ島に近いホラニウ港を、舟艇部隊の基地にして前線輸送に活用する意向であったという[61]。ただし輸送任務には成功したものの、連合軍相手ではもはや「焼け石に水」でしかなった[47]。
連合軍上陸部隊が9月上旬から進撃を開始すると、ベララベラ島の戦況は一気に悪化する事となった[63]。ベララベラ島の日本軍は舟艇などによる補給輸送がことごとく妨害され、水上偵察機によってわずかに補給を受けているに過ぎなかった[63]。兵力も圧倒的なアメリカ軍およびニュージーランド軍の圧迫により徐々に減少して、その運命は時間の問題と考えられるようになっていった[63]。
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