立花直次 子孫

立花直次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/11 18:11 UTC 版)

立花 直次(たちばな なおつぐ)は、安土桃山時代武将大名江戸時代前期の旗本


  1. ^ 立花直次とは - コトバンク
  2. ^ 中野等『立花宗茂』(吉川弘文館、2001年)4頁。中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』80頁。
  3. ^ 『續群書類従卷第六百四十七 高橋記』の紹運公御緣邊之事では「鎮実御妹」としている。
  4. ^ 『下記寛政重修諸家譜』によると鎮実の女と記載されたが、それは鎮実の父、長実が二階崩の変で歿後、家主となった鎮実が妹を養女として扱うのだとされる。
  5. ^ a b c 矢野 1927, p.379
  6. ^ 家老薦野増時(立花三河守)の子で、もとは薦野吉右衛門を名乗る。
  7. ^ 『立花遺香』 P.160
  8. ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂と直次の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  9. ^ 織部助、鎮貞。立花鑑貞の長男 。
  10. ^ 吉永正春『筑前戦国史』葦書房、1977年、295-296頁。 ASIN B000J8REN4
  11. ^ 萩尾大学の娘・松尾殿が産んだという男児(庶子)。新宮高橋氏の祖[10]
  12. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 寶満城合戦付高橋筑紫和平之事 P.434~446
  13. ^ 矢野 1927, p.380
  14. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』224~225頁。
  15. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 高橋統増寶満登城之事 P.458~460
  16. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 紹運父子三人分三所而籠城之事 P.460~462
  17. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 岩屋落城紹運自害之事 P.468~471
  18. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 高橋統増為島津被捕付龍造寺奪取統増母送立花事 P.473~474
  19. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 高橋統増入薩摩付以立花賢賀働統増帰郷之事 P.486~487
  20. ^ 吉永正春『筑前戦国史』宝満開城 p.275~276
  21. ^ 『橘山遺事』 P.174~175
  22. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.106~117
  23. ^ 中野等 『立花宗茂』P.63~65
  24. ^ 『立花記(正・続)』、『武神 立花宗茂』、『清和源氏隈部家代々物語』「騎馬に裝著」とは、宗茂考案の鉄砲の準備である。 騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせたのである。 これで、鉄砲は騎馬武者が一人で扱える。三人四人と騎馬の周りに配備した鉄砲持ち弾薬持ちの歩兵が戦闘力として鑓・弓・鉄砲を個別に握らせ得る。つまり、八百の兵が二千、三千の兵の役割を果たすのである。 銃袋を馬首に裝著した二百の騎馬と、水・糧食・武具弾薬を背負った馬百頭、これに従う徒歩三百。 立花軍は、鉄砲二百丁を馬首に具えた騎馬二百が先頭を駆ける。駆け來たっては陣を具えて一斉に隈部軍へ鉄砲発射である。筒口を揃えて一斉に発射すると、その煙も収まらぬ間に第二弾である。二段三段の鉄砲連射に隈部軍が怯む間隙に、今度は徒歩に長柄を備えて無二無三に突きかかる。長柄の徒歩隊は無二無三に突いて進むように見えながら、ようやく右に陣形を傾ける。隈部軍の正面に対峙するのは、徒歩の後ろに具えた騎馬鉄砲隊である。徒歩長柄が右に退く。前方が開ける。対峙した隈部軍に鉄砲弾丸の亂れ射ちである。
  25. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』三十八 肥後一揆 起る P.108~110、三十九 統虎 平山城を救援す P.110~113
  26. ^ 『柳河戦死者名誉録』(三二)肥後平山 天正十五年九月七日 P.17~18
  27. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國所々合戦之事 P.515~519
  28. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.117~120
  29. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一)高橋統増小傳 P.229~231頁
  30. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 江陽(碧蹄館)合戦之事 P.537~540
  31. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七七)高橋直次への感状 今度大明人数都表へ押寄處に其方先陣無比類働之由、被聞招屆候、誠神妙思召候、弥可抽軍功事肝要候、猶木下半介可申候也 文禄二年卯月三日 高橋主膳正とのへ 秀吉朱印 206頁。(九)玉峰記 121~124頁
  32. ^ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.130~131
  33. ^ 攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥金命元・平安巡辺使李薲・全羅巡察使権慄・全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将李継鄭・鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが『日本戦史・朝鮮役』 (本編・附記),141頁、日本軍先鋒隊の立花宗茂、高橋統増、小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法を連携してこれを敗走させた。朝鮮軍の一部は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入った。このため日本軍は昌原より咸安・宜寧を通過して晋州城へ進軍した。
  34. ^ 三笠神社
  35. ^ 原文は「世間に大剛なる者、主膳程の者、之あるまじく候」。『浅川聞書』による
  36. ^ 『立花遺香』 P.91~93
  37. ^ 直次-忠茂-呂久姫(黒田綱政正室)-黒田吉之圭光院黒田継高正室)-相良長寛相良頼徳相良頼之池田章政池田詮政-博子(細川護立夫人)-細川護貞-細川護熙


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