秋田戦争 後世への影響

秋田戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 13:58 UTC 版)

後世への影響

秋田県民歌における記述

1930年(昭和5年)に制定された秋田県民歌は4番まであるが、そのうち3番の歌詞で秋田の歴史を謳っており、秋田出身の国学者である平田篤胤・佐藤信淵と戊辰戦争で錦旗を守った先人を讃えている。ただし、県内には列藩同盟に与した亀田藩や盛岡藩の所領だった地域も含まれているためか、現在では2番までを歌うことが慣例になっている。

東北他県からの評価

  • 2000年(平成12年)、秋田県角館町で開かれた「戊辰戦争百三十年in角館」というイベントの各地の市長による座談会で、当時の宮城県白石市長・川井貞一が、奥羽越列藩同盟が負けたのは秋田の裏切りのせいである、と批判した。

佐賀県武雄市との交流

1986年(昭和61年)、新屋地区の区画整理に伴う墓地の移転に際して佐賀藩士の墓3基を現在の葉隠墓苑(秋田市新屋日吉町)に移転し、戦没した佐賀藩士54人の名を刻んだ慰霊碑も建立された。移転時に佐賀藩士の子孫を探し出して遺骨を佐賀に返還するかどうか尋ねたところ、藩士の曾孫は秋田の人々が墓を手厚く守っていることに感激し、秋田と佐賀での分骨を望んだという。当地では2020年現在も慰霊祭が行われ、武雄市幹部職員も参列している[4]

秋田戦争から150年となる2018年には、秋田市と佐賀県武雄市との間で「秋田市及び武雄市の交流に関する協定書」が締結された。この協定では両市が、観光振興・地域振興を協力して進めていくことなどを取り決め、交流の輪を広げていくことが確認された。同年5月12日には、武雄市役所の新庁舎落成を記念し「秋田竿燈まつりin武雄」が佐賀県武雄市において開催され、九州各地から8万人の人出を数えるなど人気を博した。同年8月には武雄市の小学生たちが秋田県を訪れ、秋田市内の小学生たちと親交を深めた。


  1. ^ 林正崇「角館城下町の歴史」ISBN 978-4-89544-633-4、無明舎出版、1982年12月、pp.169-170。原出典は「秋田沿革史大成 下」p.225。
  2. ^ 広報あきた 2018年11月16日号”. 秋田市役所. 2021年6月1日閲覧。
  3. ^ 当初案では70万両だったが、のちに減額。
  4. ^ “葉隠武士の本望、秋田で佐賀藩士を慰霊 交流今も続く”. 朝日新聞デジタル. (2020年10月19日). https://www.asahi.com/articles/ASNBL6R64NBLULUC003.html 


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