私塾立命館 私塾立命館の概要

私塾立命館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 06:25 UTC 版)

「私塾立命館」があった京都御所内の西園寺邸跡

概要

賓師

私塾立命館の賓師として迎えられたのは、当時の著名な漢学者たちであった[1]。西園寺公望は、「教師には朱子学者、水戸学儒者をむかえ、文章家として聞こえた人もあった。(略)京都にいる漢学者のえらい所をぬき集めたという形だった」と述べている(木村毅編『西園寺公望自伝』)。実際に、賓師として確認されているのは、江馬天江広瀬青邨、松本士竜(松本巌)、富岡鉄斎神山鳳陽(四郎)らである。明治3年(1870年)、広瀬青邨が西園寺の詩文会に招かれたとき同席していた者には、尊攘運動に加わって岩倉具視の知遇をえていた山中静逸江馬天江の実兄で、池田屋事件で投獄される板倉槐堂(淡海竹洲)、本草学者山本亡羊の子で漢方医だった山本秀五郎(秀夫)や浜崎廉太郎(直全)らがあったほか谷口藹山らも参加していたとされるから、この中にも賓師として迎えられたものがあったと思われる(「青邨公手沢日記」)。

塾の性格と規模

西園寺公望自身が、「大いに勤王家を養成するという抱負」で塾を設立したと述べている通り、私塾立命館は他の公家家塾とは異なり、初めから一般的な教育機関としての性格を備えていた。そのため、開設当初は平穏な詩会の場に過ぎなかったのが、塾の噂が各地に広がるにつれ、多くの若者が集まって内外の時事問題を議論する場へと変化、ついには校舎を増築するほどまでに成長している(木村毅編『西園寺公望自伝』)。西園寺自身の回想によると、西園寺および門客・家臣以外にも、諸藩からもかなりの塾生が集まっていたようである。塾の評判が高くなるにつれてさらに多くの若者が集まるようになり、ついには100人程度までにふくれあがったことが知られている。

塾の閉鎖とその背景

明治3年4月23日1870年5月23日)、塾のあり方に不穏を感じた京都府庁(太政官留守官)が差留命令を下し、私塾立命館はわずか1年弱で閉鎖されることになる(開設は明治2年9月23日(1869年10月27日[2]。このとき、西園寺自身はフランス留学の準備で長崎県にいたため、何もできないまま閉塾を受け入れるほかなかった。後に私塾の閉鎖について感想を求められた西園寺は、「立命館の諸生が高談放論するのを、革命思想とでも勘ちがいして、ぬきうちに止めよと云ってきたらしく、塾はよほど盛んになっていて惜しかったけれど、廃校にした」と述べている。

塾に対する閉鎖命令は、太政官が京都留守官に出した「京都大学校取り建て中止」の通達とも深く関係している。明治維新後の東京では「昌平黌」を再興し、学制中央機関として「大学校」を設置することが決定していた。これにより京都にあった「大学校」(皇学所・漢学所)は必要なくなったして、1869年11月に廃止通達が出されたのである。既に京都大学校建て替え準備に入っていた京都大学校関係者たちは、この通達を事実上無視し、通達翌月には「京都大学校代(仮大学校)」として大学校開校を強行した(京都留守官の通達では「京都学校」とされた)。東京の太政官は既成事実として「京都大学校代」の存在を認め、京都留守官の管轄の下で学校は存続されたが、結局は教官の引き抜きなど諸般の事情により、1870年(明治3年)7月には廃止されてしまう。当時「京都大学校代」は寺町今出川西入ル(現在の同志社大学構内南東端)に位置し、京都御所内の「私塾立命館」とは目と鼻の先であった。京都留守官が威信をかけて設立した「京都大学校代」がわずか300人ばかり学生しか集められずに開校から8ヶ月余りで廃止に追い込まれたのに対し、わずか徒歩10分程度のところにある一私塾が100人もの塾生を抱えきれず増築までして対応しているということが、京都留守官の逆鱗に触れたことは想像に難くない。のちに西園寺公望は、私塾立命館への「差留命令」が京都留守長官の「嫌疑」か「妬心」から出たものに違いないと述べるとともに、しばらくは閉塾に応じるが、再興の時期を待ちたいと賓師に宛てた手紙のなかで述べている。その年の12月、西園寺公望は留学先フランスへ出発。明治13年(1880年)まで日本を離れることになる。

明治時代に入り、西園寺家が東京に移った後、かつて私塾が置かれた西園寺邸跡には「白雲神社」が建立され、現在に至っている。

私塾立命館閉鎖後

西園寺公望と中川小十郎
中川は、戊辰戦争以来西園寺に仕えていた丹波国郷士中川家に生まれた。叔父で東京女子高等師範学校校長を務めた中川謙二郎の勧めで13歳の時に上京。西園寺の取り立てで貴族院議員として活躍する一方、西園寺の意思を引き継いで発展した立命館大学の運営にも尽力。中川は西園寺の薨去まで側近として仕えた。
「立命館」扁額
1905年(明治38年)、西園寺公望が自ら筆をとって立命館に与えたもの。「立命館」の三文字を大書、以下 七十五文字のゆかりを附記した。1909年(明治42年)の火災で消失してしまったため現存せず、写真が伝わっているのみである。

フランス留学から帰国した西園寺は、東洋自由新聞社長を経て政界入りするが、その間も教育に対する情熱を失うことはなかった。明治13年(1880年)には岸本辰雄宮城浩蔵矢代操らが仏法学系の明治法律学校を設立するのを援助したほか、明治27年(1894年文部大臣に就任すると井上毅らが作った「教育勅語」に反対し、明治天皇から「教育勅語」改定の許可を得て、第二の教育勅語の草案作成にも取り組んでいる。結局、西園寺の大臣退任により教育勅語の改正実現には至らなかったが、「もっとリベラルの方へ向けて教育の方針を立つべきものだと思った」と回想している(白柳秀湖『西園寺公望伝』)。また文部大臣として、東京帝国大学に対して「自由」な校風の帝国大学を作ろうと「京都帝国大学」の創設を実現している。京都帝国大学の創設には、終生側近として仕える文部省官僚中川小十郎が初代事務局長としてその中心的役割を担っている。この他、明治34年(1901年)、「女子を先ず人として教育する」の理念のもと成瀬仁蔵が創設する日本女子大学の設立発起人にも名を連ねている。

立命館草創の地・京都法政学校設立、京都市上京区

  1. ^ 立命館大学西園寺公望伝編纂委員会 編「西園寺公望伝 別巻2」p.384 岩波書店 ISBN 4-00-008796-7 C3023
  2. ^ 岩井忠熊『西園寺公望―最後の元老』岩波書店、2003年


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