福田赳夫
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政見・政策
政治理念
- 「協調と連帯」
- 「政治は最高の道徳」
岸信介の直系であり、「自民党右派」と評されることが多い。
経済
- 均衡財政志向の安定経済成長論を主張。
- 国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大など、市場の開放に努めるべきとした[20]。
- 1965年(昭和40年)、大蔵大臣として、不況による税収不足への解決策として、日本において初めて国債(赤字国債、当時で2千億円)を発行する。
外交
- 外交理念として「全方位平和外交」を提唱。
- アジア諸国との連帯を目指し「福田ドクトリン」を提唱。
- 中華人民共和国との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた[21][22]。
- 日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「日韓大陸棚協定」を批准。
靖国参拝
語録
また造語・警句の名手として知られ、「狂乱物価」「昭和元禄」「視界ゼロ」「日々是反省」「福田内閣はさあ働こう内閣だ」「掃除大臣」など福田語録を残している[24]。
評価
総理大臣としての在任期間は短かったが、長年に渡って保守政界の一方の雄として期待され続け、閣僚としても党幹部としても、そつなく仕事をこなした。60年代の高度成長期には水田三喜男と共に数度に渡って蔵相を務め、また70年代のオイルショック後の転換期には蔵相、副総理兼経企庁長官、総理として一貫して経済運営の中心にあった。「60年代〜70年代の経済危機はいずれも福田によって収拾された」という指摘もあり[25]、とくに田中・三木内閣でオイルショック後の官民挙げた総需要抑制政策を指揮し、成功させたことは高く評価されている。
その後総理大臣に就任すると、内政面では与野党伯仲国会という環境に加えて党を政敵の大平に握られ、初の予算修正や減税を強いられるなど、均衡財政の信奉者であった福田にとって、不本意な政権運営を強いられることになった。むしろ総理としては外交における業績が顕著であり[26]、1977年のいわゆる福田ドクトリンは、今日に至る日本の東南アジア外交の基軸となっている。また、日中平和友好条約の締結は、その後の日中経済協力の礎を築くことになった。こうして、1980年代以降の日本の外交路線、および東アジアの経済発展に多大な影響を及ぼしたとされる。
選挙
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 |
政党内比例順位 /政党当選者数 |
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当 | 第25回衆議院議員総選挙 | 1952年10月1日 | 47 | 旧群馬3区 | 無所属 | 4万6531票 | 14.52% | 4 | 2/10 | / |
当 | 第26回衆議院議員総選挙 | 1953年4月19日 | 48 | 旧群馬3区 | 無所属 | 5万2665票 | 16.46% | 4 | 4/7 | / |
当 | 第27回衆議院議員総選挙 | 1955年2月27日 | 50 | 旧群馬3区 | 日本民主党 | 6万1090票 | 19.42% | 4 | 2/6 | / |
当 | 第28回衆議院議員総選挙 | 1958年5月22日 | 53 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 8万8027票 | 27.37% | 4 | 1/7 | / |
当 | 第29回衆議院議員総選挙 | 1960年11月20日 | 55 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 9万2099票 | 29.27% | 4 | 1/7 | / |
当 | 第30回衆議院議員総選挙 | 1963年11月21日 | 58 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 9万5378票 | 29.58% | 4 | 1/6 | / |
当 | 第31回衆議院議員総選挙 | 1967年1月29日 | 62 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 10万573票 | 29.68% | 4 | 1/6 | / |
当 | 第32回衆議院議員総選挙 | 1969年12月27日 | 64 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 9万9466票 | 27.39% | 4 | 2/7 | / |
当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 67 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 17万8281票 | 46.20% | 4 | 1/5 | / |
当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月5日 | 71 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 14万8736票 | 36.30% | 4 | 1/6 | / |
当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月7日 | 74 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 12万2542票 | 30.24% | 4 | 1/6 | / |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年6月22日 | 75 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 12万8542票 | 31.55% | 4 | 1/6 | / |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 78 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 12万9100票 | 32.93% | 4 | 1/5 | / |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年7月6日 | 81 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 12万500票 | 29.37% | 4 | 1/5 | / |
注釈
- ^ 祖父、兄もまた、金古町長を務めている
- ^ 同期に前尾繁三郎・長沼弘毅・西原直廉(財務官参事官など)らがいる
- ^ このとき部下たちにあれこれしゃべられて煮え湯を飲まされる経験をしたことで福田は性格が変わり、“身内偏重主義”の政治家となる原因になったと言われる[4]。
- ^ ただし福田は蔵相として証券不況の1965年7月27日、戦後初の長期国債発行による景気対策を打ち出している。草野厚 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年 P.183
- ^ ただし、当時は諸外国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中の仲間を釈放することは珍しいことではなく(PFLP旅客機同時ハイジャック事件やハーグ事件、ルフトハンザ航空615便事件など)、日本のみがテロに対して特段に弱腰であったというわけではなかった。
- ^ 年度予算と補正予算を組み合わせて年度をまたぐ予算を編成することで、絶え間ない公共投資が可能になった[14]。
- ^ 小泉や佐藤静雄の政治人生は、福田の秘書となり、かばん持ちをすることから始まった
- ^ 『回顧九十年』 84-85頁に福田は「贈賄側で逮捕された昭和電工の当時の社長日野原節三氏が私の一高、東大の先輩で懇意だったことから、昭和電工への融資に特別の便宜を図ったという理由で私もこの事件に巻き込まれた。ただしこれは検察の全くのデッチ上げであり、判決では“検事の所論はまさにかの鷺をカラスと言いくるめる論法に似たものと評すべきであろうか”として私自身の潔白は明快に証明された」と記している
- ^ 『回顧九十年』 31-32頁によると、妻三枝は群馬県原町(現東吾妻町)出身の新井文夫(足尾銅山の技師)の三女で、三枝の兄が福田と高崎中学の同窓で仲がよく、福田が東京の学校へ通うようになったころから、三枝との付き合いが始まったという
出典
- ^ a b 上毛新聞社『群馬の20世紀 上毛新聞で見る百年』上毛新聞社、2000年、400頁。ISBN 978-4880587653。
- ^ 『私の履歴書』 2007, p. 118.
- ^ 『私の履歴書』 2007, p. 122.
- ^ a b 小林吉弥 (2017年11月13日). “天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 福田赳夫・三枝夫人(下)”. エキサイトニュース. 2020年3月11日閲覧。
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、276頁、ISBN 978-4-13-030121-3
- ^ 『私の履歴書』 2007, p. 152.
- ^ 『私の履歴書』 2007, p. 154.
- ^ 『私の履歴書』 2007, p. 156.
- ^ a b 浦田進『評伝シリーズ9 福田赳夫』国際商業出版、1978, 129-135頁。
- ^ 『回顧九十年』 144頁
- ^ 古澤健一『福田赳夫と日本経済』講談社、1983, 42頁。
- ^ “日中国交回復 水面下の交渉を託された一人の男の姿”. 2018年7月9日閲覧。
- ^ a b 池上彰『池上彰と学ぶ日本の総理 9 福田赳夫』小学館、2012年、16頁。
- ^ 池上彰『池上彰と学ぶ日本の総理 9 福田赳夫』小学館、2012年、16頁。
- ^ XIII 政治的大衆行動と平和運動日本労働年鑑第50集第二部「労働運動」
- ^ “金丸-小沢ラインで政局主導”. 日本経済新聞 (2011年9月4日). 2021年5月3日閲覧。
- ^ 読売新聞1989年5月25日朝刊
- ^ a b c 小林吉弥 (2017年10月30日). “天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 福田赳夫・三枝夫人(上)”. エキサイトニュース. 2020年3月11日閲覧。
- ^ “異例国葬、党内に配慮 全額国費、首相は正当性強調:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞. (2022年7月15日)
- ^ 第084回国会 本会議 第3号 1978年(昭和53年)1月21日
- ^ 第085回国会 外務委員会 第3号 1978年(昭和53年)10月16日
- ^ 第085回国会 外務委員会 第5号 1978年(昭和53年)10月18日
- ^ 『朝日新聞』(1977年4月21日付)
- ^ 福田赳夫(1905-1995)
- ^ 五百旗頭真「福田赳夫―政策の勝者,政争の敗者―」『戦後日本の宰相たち』中央公論新社,2001
- ^ 北岡伸一『自民党』中公文庫、2009、福田赳夫フェローシップ設立趣意
- ^ “一般社団法人 日中協会 (故人)役員”. 日中協会. 2018年3月9日閲覧。
- ^ 福田信之『文鮮明師と金日成主席―開かれた南北統一の道』世界日報社 p70~81
- ^ 第84回国会 衆議院 決算委員会11号 1977年(昭和53年)5月12日
- ^ 第80回 衆議院 法務委員会-8号 1977年(昭和52年)4月6日
- ^ 第84回国会 予算委員会 第23号 1978年(昭和53年)4月3日
- ^ 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p63
- ^ 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p73
- ^ 小林吉弥 (2017年11月6日). “天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 福田赳夫・三枝夫人(中)”. エキサイトニュース. 2020年3月11日閲覧。
- ^ 早坂 1988.
- ^ ようこそ。伊香保温泉 横手館 公式サイト
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