石田三成
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石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。
注釈
- ^ 近年では水口城は中村一氏の築城で、またその入封は甲賀衆の内紛による没落とされている事から、三成が領有することは考えられないとみられている。 もっとも、後年の小田原征伐の頃には7、8万石相当の軍役を負担していた[2]
- ^ 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年(1595年)以降とも言われており、この場合、三成は既に佐和山19万石の城主になっている[3]。 ただし、天正18年(1590年)5月に左近の妻が伊勢亀山(関一政の本拠)に留まっている一方、同月に三成から佐竹義久への使者を左近が務めている事から、小田原征伐の頃に関氏の厄介になっていた左近が三成に登用されたとするのが近年の有力説である[4]。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
- ^ 当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた
- ^ 布谷陽子は慶長3年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に毛利輝元、大坂の三奉行、小西行長、大谷吉継が三成と共に談合を行ったことが記されていることから、西軍結成計画は複数人によって早くから進行していたものとする[18]
- ^ 家臣の児玉玉三郎右衛門に秀吉に献上する脇差を譲るよう命じた書状の一節。
- ^ 三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へ、その協力が島津家のために必要であることを説得した書状の一節。
- ^ 木食応其は三成と極めて親しい仲で、三成のために大津城の開城交渉にあたった人物である。これは、木食応其が三成への加担を徳川方から責められた時の発言であるので、ある程度割り引いて考える必要がある事に留意。
- ^ 本多博之は蔚山での秀秋の失態に史料的な裏付けはなく、また越前への転封については秀吉による筑前直轄領化構想のもと行われたとする[38]。
- ^ 『武功雑記』にも三将に小袖が送られる逸話が載せられているが、家康が三将の体面を気に掛けるくだりが無いなど細部が異なる。
出典
- ^ 上田正昭ほか監修、三省堂編修所編 『コンサイス日本人名事典 第5版』 三省堂、2009年、101頁。
- ^ 谷 2018, p. 41.
- ^ 二木謙一『関ケ原合戦-戦国の一番長い日-』中央公論社、1982年。
- ^ 谷徹也「総論 石田三成論」谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-277-3)p46-47
- ^ 安井 1996, p. 19.
- ^ 岡山市教育委員会編 『備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査』、2008年、24頁 。
- ^ a b 伊藤真昭「石田三成佐和山入城の時期について」『洛北史学』4号、2003年
- ^ 谷 2018, pp. 12–13.
- ^ 渡辺世祐『佐和山城に就いて』三省堂書店、1912年。
- ^ 岩沢愿彦、高柳光寿博士頌寿記念会編 『戦乱と人物』 吉川弘文館、1968年。
- ^ 山田貴司「加藤清正論の現在地」『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戒光祥出版、2014年、24-25頁。ISBN 978-4-86403-139-4。
- ^ 「島津家文書」二‐九七八
- ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』962号文書)
- ^ 『義演准后日記』慶長4年正月29日条
- ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』1015号文書)
- ^ 慶長3年2月7日付細川忠興宛三奉行連署書状。本来、豊臣大名への知行加増は他の大老・奉行との合意のもと行われるものであるが、この書状には「内府公被任御一行旨」とあり、忠興の加増が家康単独で決定したものであることがわかる。慶長5年7月晦日付真田昌幸宛三成書状(『真田家文書・上巻』1981年、51号文書p53)
- ^ 笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽―」『日本研究』22集、2000年。 笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年、27-46頁。
- ^ 布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討ー慶長五年七月十七日前後ー」『史叢』73号、2005年。
- ^ 谷 2018, p. 62.
- ^ 宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」『大日光』78号、2008年。
- ^ 白峰旬「フィクションとしての「問鉄砲」(パート2) 家康神話創出の一事例(その2)」『別府大学大学院紀要』2013年。
- ^ 今井, p. 222.
- ^ 跡部信「秀吉独裁の権力構造」『大阪城天守閣紀要』37号、2009年。
- ^ 戸谷穂高「天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉」『遙かなる中世』21号、2006年。
- ^ 小林厚太「豊臣氏五奉行についてー特に発給文書の形式を中心にー」『鴨台史学』7号、2007年。
- ^ 慶長3年8月5日付徳川家康宛五奉行起請文、8月8日付前田利家宛五奉行起請文、9月3日付五大老五奉行起請文、等(『武家事紀』巻第三十一、所収文書)
- ^ 堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」『國學院大學紀要』48巻、2010年。
- ^ 森岡榮一・太田浩司「石田三成の生涯-その-出自と業績-」『石田三成-秀吉を支えた知の参謀-』(市立長浜城歴史博物館、1999年)
- ^ 谷 2018, p. 8.
- ^ 本郷和人『戦国武将の明暗』新潮社、2015年、31-32頁。
- ^ 谷 2018, pp. 9–30.
- ^ 『大日本古文書 浅野家文書』21号文書
- ^ 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2016年、114頁。
- ^ 福岡市博物館編『黒田家文書 -本編 第1巻』 1999年、204号文書注解
- ^ 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『九州文化史研究所紀要』53号、2013年。
- ^ 早稲田大学出版部『通俗日本全史』第13巻、1913年。
- ^ 慶長三年一月十七日付小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状(黒田基樹『近世初期大名の身分秩序と文書』、2016年、320頁。)
- ^ 本多博之「豊臣政権下の筑前」『西南地域史研究』11号、1996年。
- ^ 高橋博「豊臣政権の人質政策の形成過程」『戦国史研究』52号、2006年。
- ^ 酒井忠勝『関ケ原合戦始末記 : 実録天下分け目の決戦』坂本徳一訳〈教育社新書 原本現代訳〉、1981年。
- ^ 近藤瓶城編『史籍集覧』第26冊1902年、p66
- ^ 『明良洪範』国書刊行会1912年、p467
- ^ 某年10月7日付石田三成自筆書状(「廓坊文書」)
- ^ 谷 2018, p. 11.
- ^ 近藤瓶城編『続史籍集覧』第7冊1930年
- ^ 白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年。
- ^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 『没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─』 1999年10月22日
- ^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 『文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─』 2000年10月27日
- ^ a b 福永 1993, 1巻, p. 77.
- ^ 現在は東京国立博物館が所蔵(重要文化財、刀 無銘 正宗(名物 石田正宗) e国宝)
- ^ a b 松浦 1978, pp. 201–205.
- ^ 福永 1993, 2巻, pp. 314-315.
- ^ a b 福永 1993, 2巻, p. 122.
- ^ “武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情” (2019年2月10日). 2019年2月10日閲覧。
- ^ “妙高エリアの老舗温泉ホテルが破産 石田三成の子孫が経営”. SankeiBiz (2013年7月12日). 2020年8月8日閲覧。
- ^ 「石田三成×滋賀県」ポータルサイト(2018年10月6日閲覧)。
- ^ 長浜市観光PRキャラクター「三成くん」(2018年10月6日閲覧)。
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