皇典講究所 皇典講究所の概要

皇典講究所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/27 08:21 UTC 版)

明治末期の皇典講究所
東京都千代田区飯田橋東京区政会館前にある皇典講究所發祥記念碑。東京区政会館は皇典講究所のかつての所在地である[1]

概要

皇典講究所印印影
皇典講究所で使用された椅子(國學院大學博物館の展示)
皇典講究所のかつての所在地にある東京区政会館

明治時代国家神道が成立した宗教政策で、大衆へ向けて皇道の教化活動を行う機関として開講された学校である[7][8]。1890年に組織により教育事業の拡大がされ、國學院が開校された[8]

設立後、事業の一環として1889年(明治22年)2月より皇典講究所講演を発刊した[9]1890年(明治23年)には古事類苑の編纂事業が行われた。また、延喜式でも編纂事業は行われ、1931年(昭和6年)には延喜式撰上1,000年を記念して校訂延喜式が刊行された。内務省の委託を受けて神官神職の養成を行ったほか、皇典講究所・國學院大學出版部は、神官資格試験の参考書を多く刊行した[10]

設立とともに、神職の教導職兼務が廃止となって本務は祭祀に限定されることとなり、1884年には、教導職制度が廃止となる[11]。国家は、神道を非宗教として扱ったまま、神職は公的な国家祭祀を斎行していた[12]。やがて、財団法人に発展し、神道を国家の宗祀とした体裁が終わりを迎え、経営が困難になると、それまで神道人らの協力のもと、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社関係の民間団体により共同経営された[13]

沿革

明治10年(1877年)頃、文明開化時勢の最中に大教宣布の不振、これに続く祭神論争によって、政府内から国学の研究を主旨とした学校設立を求める提案がされるようになった。明治15年(1882年8月23日明治天皇はその聖旨により、最も信頼を寄せていた有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し[14]、有栖川宮から令旨が奉じられた山田顕義内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者によって、同年11月4日飯田町に皇典講究所が開黌(かいこう)した[15]

皇典講究所は、修身・歴史・法令・文章の4科からなる文学部と、礼式・音楽・体操の3科からなる作業部の二部を擁して発足した。その開黌にあたって発表された「設立告文」によれば、文学部は「国典ヲ講明シ」、「徳性ヲ涵養セシメ、兼ヌルニ漢洋ノ学ヲ以テシ、其才識ヲ博メ」、「以テ国家有用ノ人物ヲ陶冶シ」、「大ニ国美ヲ海外ニ発揚スル」ことをその理念・目的とした[16]

開黌6年後の1888年(明治21年)には規則改正が行われた。その際の改正趣意書によれば、皇典講究所を国書専門の学生を養成する機関であると定め、国書専門家を招集し、わが国の文献で今日に徴証すべきものは細大漏らさず研究せしめることとしている。学科は政治学科・法制学科・文学科の3学科とし、文学科には言語・文章・風俗・天産・工芸・美術・農業・地理の課程が設けられた[16]

1889年(明治22)年2月11日に大日本帝国憲法が発布されると、法学界の中から外国の法理論は参考とし、日本の法律を中心に研究することを趣旨とする学校の設立を求める声が起こった。当時、初代司法大臣の任にあった山田顕義は、日本最初となるこの憲法の施行に向け日本独自の法典研究と教育が急務であると考え、自らが所長を兼ねていた皇典講究所内に「国法科」を新設することを構想した。また同時期、山田とは別に東京帝国大学教授・宮崎道三郎を中心とする若手の法律学者らによって日本法律を教授する学校の設立の計画が進められていた。

これらを契機として、山田は宮崎や憲法起草者である金子堅太郎ら法学者11名と協議し、1889(明治22)年10月、皇典講究所の中に「国法科」とはせずに、国法を専修する日本法律学校(後の日本大学)として開校した[16]。日本法律学校は開校当初、皇典講究所の教室において講義を行なうこととした。

その後、1890年(明治23年)には皇典講究所に国史・国文・国法を教授する國學院を開校し、前年に山田顕義らにより設立された[17]

第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)1月25日に、GHQの圧迫により皇典講究所を解散し、財団法人國學院大學を設立。

なお、日本大学は、皇典講究所との深い関係性から1924年(大正13年)には神道教師の再教育を目的として神道講座を開講し[要出典]、神道教派聯合会(後の教派神道連合会)によって神道奨学会が組織された[要出典]

年表

発足から解散まで

解散後

基礎データ

設置課程(開設当初)

  • 本科3年、予科2年
    • 文学部(修身・歴史・法令・文章の4科)
    • 作業部:二部(礼式・音楽・体操の3科)

注釈

  1. ^ 皇典講究所は、神道事務局生徒寮を基盤として拡張したもので、山田の建議から設立されている。
  2. ^ 同年、同様に日本法律学校も移行している。

出典

  1. ^ 國學院大學の歴史”. 國學院大學. 2021年2月26日閲覧。
  2. ^ 新田・武田 2005, pp. 213–214.
  3. ^ デジタル大辞泉.
  4. ^ 新田・武田 2005, pp. 252–253.
  5. ^ a b c 大学事典. “神道系大学とは”. コトバンク. 2022年9月4日閲覧。
  6. ^ 國學院大學の歴史”. 國學院大學. 2020年5月3日閲覧。
  7. ^ 世界宗教用語大事典 2004.
  8. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 2014.
  9. ^ 丸善雄松堂. “皇典講究所講演”. 丸善雄松堂. 2016年2月20日閲覧。
  10. ^ 國學院大學. “近代—祓の制度化と大祓詞・中臣祓研究”. 國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館. 2016年2月20日閲覧。
  11. ^ a b 新田・武田 2005, pp. 213.
  12. ^ 松本久史 2011, pp. 78–79.
  13. ^ 神社新報 (2010年). “神社新報の歩み”. 神社新報社. 2016年4月22日閲覧。
  14. ^ 木野主計. “『明治期國學研究雜誌集成』解題・総目次 : マイクロフィルム版”. 雄松堂書店. 2016年3月23日閲覧。
  15. ^ 京都國學院. “学院の沿革”. 学校法人京都皇典研究所 京都國學院. 2016年3月15日閲覧。
  16. ^ a b c 学部・学科等の理念・目的”. 國學院大學. 2020年8月20日閲覧。
  17. ^ 学祖山田顕義 日本法律学校の創立”. 2022年10月8日閲覧。
  18. ^ 登録5018534 J-PlatPat/AIPN”. www.j-platpat.inpit.go.jp. 2020年5月5日閲覧。
  19. ^ 設置の趣旨等を記載した書類 - 大学設置室 - 文部科学省 (PDF)
  20. ^ 國學院大學(『百二十周年小史』参照)
  21. ^ 萩市観光協会. “初代司法大臣で日大・国学院の学祖 山田顕義誕生地 (顕義園)”. 萩市観光協会「ぶらり萩あるき」. 2016年5月12日閲覧。
  22. ^ 國學院設立趣意書


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