白襷隊 白襷隊の概要

白襷隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/10 04:53 UTC 版)

概要

1904年明治37年)11月23日、ロシア帝国陸軍旅順要塞を攻囲していた大日本帝国陸軍第3軍は、第3回総攻撃の命令を下達した[1]。この際に、後に「白襷隊」と呼ばれることになる、第3軍司令官直轄の特別予備隊決死隊)が編成された[1]。特別予備隊は、中村覚少将(第1師団 歩兵第2旅団長)の強硬な意見具申を容れて編成されたものであり、第3軍の参謀の多くは反対していたが、乃木希典大将(第3軍司令官)の決断で編成が決まった[1]。発案者である中村少将自身が、特別予備隊の総指揮官となった[1]

特別予備隊の編成は下記の通り。

計 3,113名。
他に、蟻川五郎作歩兵少佐(特別予備隊参謀)、第7師団衛生隊[2]

第3回総攻撃は11月26日8時の砲兵部隊による準備射撃をもって開始され、同日13時に歩兵部隊の突撃が始まった[1]。同日17時、第3軍は特別予備隊に戦闘加入を命じた[1]

11月26日18時に前進を開始した特別予備隊は、水師営から松樹山北西麓に進み、26日21時頃に敵堡塁間近の第一線散兵濠に突入したが、地雷の爆発により潰乱し、味方識別のために掛けていた白襷がロシア軍の探照灯照射によって反射し目立ったため大損害を受けた。将校の多くが死傷し、総指揮官の中村少将も重傷を負った[1]。状況を知った第3軍は、27日2時30分に退却命令を発し、死傷者を収容した特別予備隊は、夜明けまでの間に後退を終えた[1]

特別予備隊の損害は下記の通り(微傷在隊者〈将校4名、下士兵卒119名、計123名〉は含まず)[2]

  • 戦死者:将校19名、下士兵卒53名、計72名。
  • 戦傷者:将校43名、下士兵卒763名、計806名。
  • 行方不明者:将校10名、下士兵卒498名、計508名。
戦死者・戦傷者・行方不明者の合計:将校72名、下士兵卒1,314名、計1,386名(総員3,113名の45%)。

203高地の戦いへ

白襷隊の敗北の報を受けた第3軍司令官の乃木希典大将は従来の方針を転換し、203高地の攻略を命じた。


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 桑原 2019, 位置No. 1780 - 1823、白襷隊の戦訓を生かしたルーデンドルフ将軍
  2. ^ a b c d 自11月26日至同27日旅順方面に於ける軍特別予備隊戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C13110503500 


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