田沼意次 賄賂政治家という風聞

田沼意次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 07:54 UTC 版)

賄賂政治家という風聞

この時代、株仲間の公認に際し、特権を得ようと賄賂の贈与が横行し、「役人の子はにぎにぎをよくおぼへ」[注 4]や「役人の骨っぽいのは猪牙にのせ」[注 5]などと風刺された。ただし、田沼時代の賄賂政治は田沼の功利的経済政策の仕組み上必然的に起きており、田沼の個人的好みなどにその原因を求めるべきではない[13]

大石慎三郎は、辻以来確定的であった意次自身の汚職に関して疑義を示し、これらを意次の失脚後などに政敵の松平定信らが作り出した話だと論ずる。また、仙台藩伊達重村からの賄賂を意次が拒絶したと主張し、逆に意次を非難していた定信さえも意次にいやいや金品を贈ったと書き残していることなどをその論拠として主張している。特に大石は辻の『田沼時代』で示された汚職政治に関する論拠は史料批判に乏しかったと批判している[14][15][注 6]。特に大石は同時代の別人、それこそ松平武元や松平定信といった清廉なイメージがあった政治家には贈収賄があった史料が残っているのに対し、むしろ意次の方にはそれが皆無だったと指摘する。ただし、当時の政治の常道としての賄賂や、特に現代でいう歳暮程度の贈収賄はよくあった[注 7]とも述べている[14][21]。総じて大石は、信憑性のない資料では田沼意次が「金権腐敗の政治家だとは断言できない」と主張しているだけで、田沼が「金権腐敗の政治家ではない」とう積極的な主張を行っているわけではないという点には注意が必要である[22][23]

これに対し藤田覚は、田沼が金権腐敗の政治家ではなかった根拠として大石が挙げている、伊達重村からの賄賂を田沼が拒絶したという文書に関して、大石の誤読だと結論付けている。重村の工作に関して、松平武元は人目を避けて来るようにと重村の側役に指示した一方、田沼は7月1日に側役が訪問することへの許可を求められたのに対し、書状で用事が済むのだから必要がないと応えた。大石はこのことを根拠にして、武元を腐敗政治家、田沼を清廉な人物と解釈している。これに対し藤田は、7月1日の賄賂の機会は放棄したが、側人の古田良智が田沼の屋敷に直接訪ねる(=賄賂を直接受け渡しする)許可を田沼本人が直接出しているのだから、結局のところ武元と同じで賄賂を受け取っており、田沼が清廉な人物であるという解釈はとても成り立たないと書いている[23]

藤田は田沼が重村の中将昇任への口利きをし、2年後に中将昇任を実現させたとしている。その後、将軍からの拝領物などの件でも請願を受け、実現のために働いている。さらに、官位だけでなく秋田藩は拝借金や阿仁銅山上知撤回のため田沼に工作しており、薩摩藩も拝借金の件で同様に田沼に工作していたと述べている[7]。同時に藤田は、田沼時代は賄賂の代名詞とされているが、実際には賄賂による武家の猟官や商人の幕府からの受注獲得などは田沼以前から問題視されており、賄賂を受け取る役人・幕閣は珍しい存在ではなく、特にその傾向は17世紀末の元禄時代から激しくなっていたと説明している。このことについて新井白石が、賄賂分を上乗せした工事代を支払うようになったので元禄期に財政危機に陥ったと説いた事例を紹介している。以上のことなどからも、田沼時代は賄賂が特に横行した時代ではあったが、賄賂を貰うこと自体は特別なことではなかったとされる[注 8]。ただし、田沼は当時独裁的な権力を一人保持して一心に賄賂攻勢を受けたため、目立つ存在であった。藤田は、田沼は大名家としての成立事情から家臣の統制が甘く、賄賂の横行を許してしまい、未曽有の賄賂汚職の時代を招いてしまったと述べている[25]

深谷克己は、相良城の築城経費について領民に御用金を命じて恨まれたり、商人から多額の借金をした形跡がないことを指摘している。そして、相良城築城の財源は城着工に当たって行われた寄進にて賄われたと主張している。寄進者を記載した勧化帳には江戸の商人たちの名前が多く並んでおり、商人たちは何かにつけて田沼家へ常態的に付け届けを行っており、それが定例の上納金となっていたと主張している[26]


注釈

  1. ^ 実際は斬られて重傷を負い、その傷が癒えないまま亡くなった。
  2. ^ 柳沢・間部の職が側用人のみで正式の老中には就任していなかった(柳沢は老中格→大老格)ことと異なり、田沼は老中も兼ねていた。将軍の取次役である側用人が処罰されることはないが(将軍の政治責任を問うことになってしまうため)、老中は失政の責任を問われるためしばしば処罰を受けていた。
  3. ^ 同時に藤田覚は「たしかに、個々の冥加金を見ると幕府財政を潤すほどの額とは言えないかもしれない。しかし、少額とはいえ少しづつでも増額させようとしており、そこには明らかに財政収支を増加させようとする意図がみえる」とも書き、財政収入増加説と流通統制説の双方に理解を示している。
  4. ^ 赤ん坊が手を握る動作と役人が賄賂を受け取ることをかけて皮肉っている。
  5. ^ 「猪牙」とは吉原への専用船のこと。固い役人でも吉原で接待すれば骨抜きになる。
  6. ^ 大石は辻が意次の汚職の根拠として民衆の噂話程度のものすら挙げ、田沼の汚職政治家としてのイメージを確立させたと批判しているが、田沼時代や田沼意次が汚職政治のイメージで語られたのは辻が始まりではない。上述のように三上の論考や徳富による通史があったり、辻自身が引用している通り、シーメンス事件に関わる貴族院議員の発言がある[16]。辻の論考は佐々木の指摘のように、その意図に反して意次=汚職政治家と学術的に、あるいは中高の教育に引用された経緯がある[17]。また辻の論旨は、民権発達の潮流として当時の民衆が時代や意次をどう認識していたかという部分にある[18]。藤田覚は、大石が主張するように意次に関する悪評はその多くが老中辞任後に書かれたものであることは認めているものの、老中辞任前に書かれた悪評も皆無ではなく、そもそもたとえ風聞や落書、老中辞任後のものであっても、それを全て信憑性がないと一まとめに一蹴するのは乱暴であり、史料の吟味が必要であると語っている[19]
  7. ^ 当時、田沼の賄賂政治を批判した松平定信が行った寛政の改革の諸役人への贈り物を規制する触書では、あまりに高価な品を贈ることを戒めてはいるが、新年、中元、歳暮などの儀礼的な年中恒例の贈答などを禁止などしているわけではなく、むしろ1年に何度にも及ぶ恒例の進物は当然のこととされた。それどころか、幕府役人への進物は大名らへの当然の義務であった。寛政4年(1792年)の触書では「近年、年中恒例の進物の数を減らしたり、質を落としたり、なかには贈らない者もいる」と非難している。さらに、側衆や表向き役人への進物は、大名と役人の私的な贈答ではなく、将軍の政務を担う役人への公的な性格のものだからきちんと贈るようにとも命じている[20]
  8. ^ むろん賄賂をやり取りすることが珍しいことでなかったからといって賄賂を贈ることが社会倫理的に認められていたという拡大解釈にはならない。武士間の進物は社会儀礼であったとはいえ、賄賂を禁止したい幕府は進物の金額の上限を規定していたし、幕府は武家の法律である武家諸法度において賄賂を規制する条文を足すなど対策を講じていた[20]。また、幕府は業者と幕府役人とのあいだの贈収賄を禁止する触書を何度も出しており、御用商人や職人に対し幕府役人に贈物をしてはならないと規定があるのに、それでも贈っているのは不届きだと叱り、進物を贈る者は処罰するとも命じている[20][24]

出典

  1. ^ 藤田 覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、4-6頁。 
  2. ^ 藤野保『江戸幕府崩壊論』塙書房、2008年。[要ページ番号]
  3. ^ 藤田 覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、253-254頁。 
  4. ^ 高澤 憲治 (2012). 日本歴史学会. ed. 松平定信. 吉川弘文館 
  5. ^ a b 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社[要ページ番号]
  6. ^ a b c d e f g 藤田覚 (2018). 勘定奉行の江戸時代. ちくま新書 
  7. ^ a b c d e f 日本近世の歴史4 田沼時代. 吉川弘文館. (2012/5/1) 
  8. ^ 高木久史『通貨の日本史―無文銀銭、富本銭から電子マネーまで―』(中公新書、2016年)
  9. ^ 徳川林政史研究所 (監修) 編『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、19頁。 
  10. ^ 高木久史『通貨の日本史―無文銀銭、富本銭から電子マネーまで―』(中公新書、2016年)
  11. ^ a b c 藤田 覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、128-139頁。 
  12. ^ 藤田 覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、148-155頁。 
  13. ^ 徳川林政史研究所 (監修) 編『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、17-18頁。 
  14. ^ a b 大石慎三郎 1977, pp. 203–208, 「誤られた田沼像」.
  15. ^ 大石慎三郎 1977, pp. 212–215, 「幕府政治の支配システム」.
  16. ^ 辻善之助 1980, pp. 7–9, 「緒言」.
  17. ^ 辻善之助 1980, pp. 345–357, 解説 佐々木潤之介.
  18. ^ 辻善之助 1980, pp. 328–342, 「結論」.
  19. ^ 藤田覚 2007, pp. 文頭, 現代の意次評.
  20. ^ a b c 藤田覚 2007, pp. 167–175, 江戸時代の賄賂と意次.
  21. ^ 大石慎三郎 1977, pp. 208–212, 「"顔をつなぐ"社会」.
  22. ^ 大石 慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店、1991年12月18日、37-55頁。 
  23. ^ a b 藤田覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、157-163頁。 
  24. ^ 藤田覚 2012, pp. 47–58, 賄賂汚職の時代.
  25. ^ 藤田覚 2012, pp. 47–58, 「賄賂汚職の時代」.
  26. ^ 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』山川出版社、2010年
  27. ^ 領内で起こった大火後、藁葺きの家をことごとく瓦葺にするよう令を発した。
  28. ^ 山本 博文『武士の人事』KADOKAWA、2018年11月10日。 
  29. ^ a b c 藤田 覚『日本近世の歴史〈4〉田沼時代』吉川弘文館、2012年5月1日、29-32頁。 


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