田中角栄 人間関係

田中角栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:38 UTC 版)

人間関係

  • 田中内閣発足にあたっては三木武夫の支援を受け、この支持を恩義に感じた田中は三木を国務大臣として内閣に迎え入れ、後に副総理にも指名している。しかし、田中と三木は日中国交正常化という点では一致していたものの、金の力に物を言わせる田中と政治浄化を信条とする三木とでは政治姿勢が全く異なり次第に対立していくようになった。そして1974年の参議院選挙の徳島県選挙区での公認候補選定を巡り、三木が「現職優先の原則」通り三木派で現職の久次米健太郎の公認を申し入れたのに対し、田中が元警察庁長官で新人の後藤田正晴に公認を与えたことから二人の関係は抜き差しならないものとなった。選挙の結果久次米が当選し三木の面目は保たれたものの三木は閣外へ去った(詳細は阿波戦争を参照)。その後反主流派の福田赳夫が三木に接近し福田もまた閣外へ去り田中倒閣への動きを先鋭化していくこととなった。ただ田中は、小派閥を率いて永田町を器用に遊泳する「バルカン政治家」の三木を「政治のプロは俺と三木だけだ」と評価していたとされる。また、首相になる前には「自民党で俺と対で勝負できるのは三木だけだ」とも評していた。
  • 福田赳夫とは「角福戦争」に代表されるように対立した関係ではあったが、田中は「福田君への怨念はない。ゴルフを1日3ラウンドやる人間に怨念なんかあるものか」と怨念については否定している。実際、愛知揆一大蔵大臣が急死した際、田中は福田に蔵相就任を依頼している。その際福田は、「日本列島改造論で、国際収支が大混乱に陥っている」「日本列島改造論を撤回するならば蔵相に就いても良い」と答え、田中は福田の意見を受け入れ、経済問題については全て福田に任せている。一方福田も、田中を「昭和の藤吉郎だ。いずれは太閤になる器」と常々評していた。田中を「今太閤」と名付けたのも福田である。対中政策をめぐっても両者はよく比較されたが、田中も福田も日中友好団体である日中協会の役員を務めた[73]
  • 1962年7月第2次池田内閣における、尋常高等小学校卒、44歳での大蔵大臣就任は、1890年日本の帝国議会開設以来、後にも先にも例がないといわれる[74]。田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田勇人総理は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した[74]。田中は池田が大蔵事務次官の頃から、池田を未来の宰相と見込んで10年近く、何があっても離れず池田に近づこうと腐心した[75]。同じ吉田門下で異例の出世を遂げる池田を見て、池田につながって出世したいと策を巡らせ、遂に田中の妻はなの連れ子・静子と池田の甥との結婚を仕組み、池田と縁戚まで結んでいた[76][77]。ただし、1956年末の旧吉田派(丙申会)の分裂では、政権を取るのは佐藤栄作が池田より先と読み[76]、池田派(宏池会)ではなく佐藤派(周山会)に寝返っている[76][78]。親戚関係とはいえ「高度経済政策」を推進していくにあたり、最も重要なポストである蔵相に国家財政に一度も携わったことのない素人を充てることはできない[76]。ところが大平正芳が「あの男ならやれます」と池田を熱心に説得、党内の反発を押し切って池田はこれを了承した[74][76]。慎重居士の大平が、なぜ意外なほどの強行策をとり、田中の売り込みに奔走したのかは謎とされる[79]。田中の蔵相抜擢は、時として反旗を翻すことのある大蔵省へ池田が打ち込んだ"楔"という見方や[80]、金融や財政に素人の田中を据えて、事実上の実権を裏で池田自身が掌握する、総理と蔵相を自身で兼ねて自ら陣頭指揮を執り、田中を傀儡蔵相に仕立てた池田の策略という説もある[81]。当時の大蔵省は池田の直轄地ともいわれ[82]、実際には池田が蔵相を兼任している状態ともいわれた[82]野田卯一は「池田に対して田中を強引に蔵相に推薦したのは佐藤栄作」と述べている[83]。田中は池田内閣で2年4ヶ月大蔵大臣を務めるが「国民所得倍増計画」に代表される池田の経済主義路線は、開発政治の旗手である田中に絶好の機会を与えた[84][85][86]。一介の中堅議員に過ぎなかった田中が、池田によって政調会長(1961年)、大蔵大臣(1962年)という要職に抜擢されたからこそ、後の天下取りへの道が開かれたのである[87]。田中にとって池田は足を向けては寝られない恩人であった[87]
  • 当時の大蔵省は別格の存在で[88]、大蔵大臣就任にあたり、大蔵省の役人から「大蔵大臣はたいへんな仕事ですから、しっかりやって下さい」と言われて、「俺だって一生懸命勉強してるのに」と悔しくて涙を流し必死に勉強した[88]。田中はこの大蔵大臣就任期間の間に、池田の勢威が行き渡る大蔵省内で[82]、得意の人心収攬術と政治力を操り、誇り高い大蔵官僚を押さえ込んだといわれる[84]。当時大蔵省銀行局検査部長だった庭山慶一郎は「池田さんも部下にカネを渡してました。田中さんは池田さんに可愛がられていましたから、その真似をしたんじゃないですかね。ただ池田さんは大蔵官僚出身だから節度というものをわきまえていました。田中さんの方は、出身のせいかドロ臭い。金額も配る範囲も派手だったです。他人の経歴をじつによく知っていて、入省年次はおろか、成績順位や係累までご存知でした。そのへんはものすごく気持ちの働く人でした。高級、下級官僚の別け隔てなく名前で呼びかける。最初は『田中なんて』と馬鹿にしていた連中も、次第になびくようになるんですね」と述べている[79]。田中は池田が進めた利益誘導政治の形成・展開に便乗したばらまき財政により政治基盤を固めていった[89][90]。岸、池田時代にまさか田中が将来総理になると思う人は党内にいなかった[83]
  • 田中と大平の関係が密になるのはここからで[91]、その後も大平とは長く盟友関係にあり、頭角を現す切っ掛けとなった[92]。これは「大角連合」と呼ばれ[93]、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった。田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる[85][86][94]。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが2人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた[95]。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り[55]、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた[96]。両者の関係は田中と大平の個人的関係にとどまらず、田中派大平派は兄弟派閥として議員の交流も盛んであった。
  • "自民党の黒幕"といわれた福本邦雄は「角栄は非常に無原則。思想がない。むちゃくちゃの典型。日中国交正常化をやったのは大平と木川田一隆です」と述べている[97]
  • 党人派で副総裁を務めた川島正次郎と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、佐藤長期政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は第2次大平内閣時に首班指名選挙での党分裂状態[98] や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした[99]四十日戦争ハプニング解散)。
  • 正妻・はなとの間には1男1女をもうけたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。
  • 東京・神楽坂芸者、辻和子との間に2男1女がいる(1女まさは夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した[100][101][102]。秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。
  • 2,575坪(約8,500m2)の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」といわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
  • 中華人民共和国からは「日中国交正常化を決断した偉大な政治家」として尊敬され、小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も江沢民など多くの中国共産党政府の要人が田中邸を訪問した。
  • 経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中の「刎頸の友」と呼ばれた国際興業小佐野賢治[注釈 7]は、田中を資金面でバックアップしたとされ、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については現在でも不透明な部分が多い。
  • 国土強靭化論などから分かるように、公共工事に特に力をいれていた。自身の有力後援者だった福田正の福田組がゼネコンとして急成長を遂げる原動力となったのが、新潟県に地盤を持っていた角栄とのパイプで受注出来た数々の公共事業だった。小沢一郎の元妻・和子は福田の長女であり、田中角栄を仲人にして衆議院議員2期目の1973年に結婚した。なお、福田の次女も、竹下登の弟である竹下亘と結婚している[105]

注釈

  1. ^ 正規の学歴は高等小学校卒。その後、当時は各種学校の扱いであった中央工学校の夜学に通い卒業している。
  2. ^ 田中がのちに『私の履歴書』に記したところでは、2歳のときにジフテリアに罹患したことが原因と祖母から聞いたという[6]
  3. ^ 馬弓良彦著『人間田中角栄』(ダイヤモンド社)には「旧制海城中学校に編入する予定で上京した」と、書かれているが、田中自身が長い政治家人生の中でそのような発言をしたことは皆無であり、上京直後に井上工業に入社していること、また、過去に田中自身が「家が貧乏だったから高小を出たらスグに働かなくてはならなかった」と述べていること等から、当該部分は創作である可能性が高い。
  4. ^ 大麻の献金要請は、進歩党党首をめぐって宇垣一成町田忠治が対立し、その仲裁として大麻が「先に300万円作った方を党首にする」と提案(大麻は町田を推していた)したことに由来する[29]
  5. ^ 戸川猪佐武の『小説吉田学校』では、この過程で田中は山崎首班の動きに対して党総務会で「いくら占領下でも露骨な内政干渉が許されるのか」と吉田らに訴えたとされる。
  6. ^ 田中はこの法律による一級建築士資格取得者である。建築士登録が「第1号」であるとする逸話については建築士#その他 2を参照。
  7. ^ これについては確かに田中と小佐野は親しい間柄で仕事上では懇意にしていたものの「刎頚の友」とまで言える間柄ではなかったと秘書であった早坂茂三や佐藤昭子の著書には著されている。早坂によれば、田中が上京後に働いていた井上工業からの知り合いだった入内島金一が唯一の「刎頚の友」であったという。立花隆によれば、1973年(昭和48年)の国会答弁で田中が入内島金一について「この世の中にある三人の一人であるというぐらいに刎頸の友である」[103]と発言したことから、マスコミ関係者の間で残る2人についての詮索が行われ、その結果、小佐野賢治と中西正光が候補者として挙がり、入内島と中西はマスコミへの露出が少なかったことから、小佐野が「刎頸の友」として有名になったものという[104]
  8. ^ 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)によれば自自公連立政権樹立前の1998年8月中旬、竹下登元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けたとある。
  9. ^ 実刑確定になれば、公職選挙法第11条・第99条及び国会法第109条により国会議員を失職し、刑期満了まで国会議員となることができない。
  10. ^ 小説吉田学校にはゴルフをしながらのやりとりとして書かれている

出典

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2020年1月15日閲覧。
  2. ^ 武部健一 2015, p. 186.
  3. ^ 立花 2005, p. 187.
  4. ^ 小長啓一『〈証言そのとき〉国策とともに5 織機買い上げ損失補う』朝日新聞 2012年6月4日
  5. ^ 早野透 2012, pp. 3–4.
  6. ^ a b 早野透 2012, p. 5.
  7. ^ 石原慎太郎『天才』p.4
  8. ^ 専門学校 中央工学校
  9. ^ 専門学校とは 文部科学省
  10. ^ 早野透 2012, p. 10.12.
  11. ^ 早野透 2012, p. 15.
  12. ^ 早野透 2012, pp. 17–18.
  13. ^ 早野透 2012, p. 16.
  14. ^ 早野透 2012, pp. 19–20.
  15. ^ 早野透 2012, p. 22.
  16. ^ 早野透 2012, pp. 26–27.
  17. ^ a b c 早野透 2012, pp. 28–30.
  18. ^ “『錦城百二十年史』、131-132頁”. 学校法人錦城学園 錦城学園高等学校発行. (2000年10月15日) 
  19. ^ 早野透 2012, pp. 37–38.
  20. ^ 早野透 2012, pp. 39–40.
  21. ^ 石原慎太郎『天才』P22
  22. ^ 早野透 2012, pp. 41–44.
  23. ^ 早野透 2012, pp. 45–47.
  24. ^ a b 早野透 2012, p. 49.
  25. ^ a b 早野透 2012, pp. 50–51.
  26. ^ 福永(2008)、47頁。
  27. ^ 早野透 2012, p. 52.
  28. ^ 早野透 2012, pp. 57-59、63-65.
  29. ^ 早野透 2012, pp. 58–59.
  30. ^ a b 早野透 2012, pp. 67–71.
  31. ^ 早野透 2012, pp. 75–76.
  32. ^ a b 早野透 2012, p. 83.
  33. ^ 早野透 2012, p. 86.
  34. ^ 早野透 2012, p. 88.
  35. ^ a b 早野透 2012, pp. 90–96.
  36. ^ 早野透 2012, p. 98.
  37. ^ 早野透 2012, p. 97.
  38. ^ 早野透 2012, p. 103.
  39. ^ a b 服部龍二『田中角栄 昭和の光と闇』講談社〈講談社現代新書 2382〉、2016年9月20日、57頁。ISBN 978-4-06-288382-5
  40. ^ a b c 早野透 2012, pp. 106–109.
  41. ^ 早野透 2012, p. 140.
  42. ^ a b c 早野透 2012, pp. 126–130.
  43. ^ a b c 「(連載)池田勇人 日本を創った男 第8回」『週刊大衆2016年12月12日双葉社、 177頁。
  44. ^ a b 立花隆「田中角栄研究──その金脈と人脈」『1000億円を動かした男 田中角栄・全人像』文藝春秋増刊、2016年8月号、106-154頁。JAN 4910077020862。
  45. ^ 週刊現代Special 2017年1月14日増刊号 p.131
  46. ^ “大ブーム「田中角栄」は何がスゴかったのか? | 国内政治”. 東洋経済オンライン. (2016年11月4日). https://toyokeizai.net/articles/-/141468?page=3 2018年6月14日閲覧。 
  47. ^ a b “人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第46回 - ライブドアニュース”. ライブドアニュース. http://news.livedoor.com/article/detail/12370969/ 2018年6月14日閲覧。 
  48. ^ 伊藤 1982, p. 78.
  49. ^ 楠田實資料(佐藤栄作官邸文書):解題”. ジャパン デジタル アーカイブズ センター. 2020年8月2日閲覧。
  50. ^ NHKスペシャル 日中外交はこうして始まった名 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  51. ^ 諸橋(1972)[要ページ番号]
  52. ^ 諸橋(1979)[要ページ番号]
  53. ^ 諸橋(1993)[要ページ番号]
  54. ^ 諸橋(2001)[要ページ番号]
  55. ^ a b 福永(2008)、166-173頁。
  56. ^ 福永(2008)、173-174頁。
  57. ^ 福永(2008)、175-177頁。
  58. ^ 福永(2008)、180頁。
  59. ^ 福永(2008)、182-185頁。
  60. ^ 議員ハンドブック(帝国地方行政学会、1974年)
  61. ^ 福永(2008)、185頁。
  62. ^ 福永(2008)、185-186頁。
  63. ^ 本田靖春「立花隆 角栄裁判をすべて傍聴したジャーナリスト」『戦後の巨星 二十四の物語』講談社、2006年、251-273頁。ISBN 4-06-213532-9
  64. ^ “生きて <1> トップランナー 金脈追及し首相が退陣| 元文芸春秋社長 田中健五さん(1928年〜)”. 中国新聞 (中国新聞社). (2010年11月2日). オリジナルの2011年5月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110529235447/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik101102.html 2017年2月11日閲覧。 
  65. ^ a b 「調査報道」の社会史 | 調査・研究結果 - 国内放送事情 | NHK放送文化研究所
  66. ^ 取材雑記 特派員 日本を走る 第2回 海外メディアが果たした役割”. 朝日新聞グローブ (GLOBE). 朝日新聞社. 2009年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月12日閲覧。
  67. ^ 福永(2008)、189-191頁。
  68. ^ 紀尾井啓孟 (2020年1月12日). “議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈3〉”. 日本ビジネスプレス. https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58936 2020年8月2日閲覧。 
  69. ^ 後藤謙次 (2016年6月). “特別企画 砂防会館あの日あの時 壁に刻まれた刀傷”. 日本記者クラブ. https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/33444 2020年8月2日閲覧。 
  70. ^ a b 安藤俊裕 (2011年8月28日). “田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)”. 日本経済新聞. https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1902K_V20C11A8000000/ 2020年8月2日閲覧。 
  71. ^ 田中角榮記念館 -KAKUEI MEMORIAL MUSEUM-
  72. ^ 「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査” (2009年3月30日). 2012年11月16日閲覧。
  73. ^ 一般社団法人 日中協会 (故人)役員”. 日中協会. 2018年3月9日閲覧。
  74. ^ a b c 小林吉弥『花も嵐もー宰相池田勇人の男の本懐』講談社、1989年、180-183頁。ISBN 4-06-204404-8
  75. ^ 栗原直樹『田中角栄 池田勇人 かく戦えり』青志社、2016年、144-151頁。ISBN 978-4-86590-029-3
  76. ^ a b c d e 上前淳一郎『山より大きな猪 高度成長に挑んだ男たち』講談社、1986年、300-301、459-463頁。ISBN 978-4-06-202657-4
  77. ^ 塩口喜乙『聞書 池田勇人 高度成長政治の形成と挫折』朝日新聞社、1975年、144-148頁。
  78. ^ 福永文夫『大平正芳 「戦後保守」とは何か』中央公論新社中公新書〉、2008年、74-76頁。ISBN 978-4-12-101976-9
  79. ^ a b 石山伊左夫「〈証言構成〉角栄の永田町血風録」『1000億円を動かした男 田中角栄・全人像』文藝春秋増刊、2016年8月号、70–72。JAN 4910077020862。
  80. ^ 倉山満『検証 財務省の近現代史 政治との闘い150年を読む』光文社光文社新書571〉、2012年、154-156頁。ISBN 978-4-334-03674-4
  81. ^ 幸田真音『この日のために 下 池田勇人・東京五輪の軌跡』KADOKAWA、2016年、154-159頁。ISBN 978-4-04-103633-4
  82. ^ a b c 塩田潮「大物たちの証言「角栄流」の秘密」『1000億円を動かした男 田中角栄・全人像』文藝春秋増刊、2016年8月号、93–96。JAN 4910077020862。
  83. ^ a b 北國新聞社編集局『戦後政治への証言 ――益谷秀次とその周辺――』北国新聞社、1974年、213-216頁。
  84. ^ a b 東京新聞編集企画室『図解 宰相列伝』東京新聞出版局〈東京ブックレット(2)〉、1996年、301頁。ISBN 4-8083-0477-5
  85. ^ a b 松野頼三(語り) 戦後政治研究会(聞き書き・構成)『保守本流の思想と行動 松野頼三覚え書』朝日出版社、1985年、30-34、59、130、160-161頁。ISBN 4-255-85070-4
  86. ^ a b 宇治敏彦『首相列伝 伊藤博文から小泉純一郎まで』東京籍、2001年、280-291頁。ISBN 978-4-487-79532-1
  87. ^ a b 中澤雄大「ブックレビュー 幸田真音『この日のために 下 池田勇人・東京五輪の軌跡』〈上・下〉」『日本一の書評』週刊現代、2016年5月21日。
  88. ^ a b 「【あの政治家に聞いてみた! 池田勇人とその時代】 藤井裕久インタビュー」『モーニング』51号 2016年11月17日講談社、 313頁。
  89. ^ 下村太一『田中角栄と自民党政治 列島改造への道』有志舎、2011年、205-207頁。ISBN 978-4-903426-47-1
  90. ^ 大来佐武郎監修『ビジュアル版・人間昭和史(2) 政界の首領』講談社、1986年、102頁。ISBN 4-06-192552-0
  91. ^ 神一行『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』角川書店、2002年、76-90頁。
  92. ^ 福永(2008)、266-227頁。
  93. ^ 福永(2008)、162頁。
  94. ^ 読売新聞2012年9月22日27面 「戦後転換期 第2部(1965〜79年) 第23回 田中角栄」。
  95. ^ 福永(2008)、166頁。
  96. ^ 福永(2008)、173頁。
  97. ^ 田原総一朗責任編集「福本邦雄インタビュー」『オフレコ! Vol.3』アスコム、2006年8月、26–28頁。ISBN 9784776203407
  98. ^ 福永(2008)、254-255頁。
  99. ^ 福永(2008)、263-264頁。
  100. ^ 辻(2004)
  101. ^ 辻(2006)
  102. ^ 田中(2004)
  103. ^ 第71回国会 衆議院 物価問題等に関する特別委員会 第11号” (1973年4月26日). 2021年9月6日閲覧。
  104. ^ 立花隆 「「田中角栄独占インタビュー」全批判」 『文藝春秋』 59巻3号、126頁、1981年3月。 のち立花隆『巨悪vs言論』文藝春秋、1993年、に収録。
  105. ^ 検察が聴取?「小沢幹事長の妻」 実は新潟ゼネコンの大株主
  106. ^ 出典”. honnesia (2014年5月21日). 2021年11月18日閲覧。
  107. ^ 衆議院会議録情報 第071回国会 法務委員会 第40号
  108. ^ 毎日新聞(2013年3月26日)写真特集:米大統領訪日:1974年のフォード氏が初 (2009年11月掲載)
  109. ^ 日本経済新聞「自民党半世紀 - 国対政治 なれ合い招く」2009年10月5日
  110. ^ a b 立花 2005, pp. 88–91.
  111. ^ a b 立花 1993, pp. 337–339.
  112. ^ 佐藤 2001, p. 226.
  113. ^ 『朝日新聞』1985年5月17日付朝刊、1面、「田中元首相の家族、『本人の意思』と退院届 帰院呼びかけ断る」。
  114. ^ 『朝日新聞』1985年6月6日付夕刊、1面、「越山会東京事務所を閉鎖 田中元首相の政治活動休眠に」。
  115. ^ 佐藤 2001, p. 227.
  116. ^ 立花 2005, pp. 95–98.
  117. ^ 『田中角栄―その巨善と巨悪』
  118. ^ 池上彰 (2019年1月15日). “官僚のハートを一瞬で掴んだ田中角栄「伝説のスピーチ」とは――池上彰が語る“角栄像””. 文藝春秋. https://bunshun.jp/articles/-/10389 2020年8月2日閲覧。 
  119. ^ 大下英治『田中角栄秘録』イースト新書 008 2013年 イーストプレス
  120. ^ 早野透『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』中公新書 2186 2012年。ISBN 978-4-12-102186-1
  121. ^ 保坂正康『田中角栄の昭和』朝日新書 244、2010年。ISBN 978-4-02-273344-3
  122. ^ 「あの時のあの人の声」に肉声のコンテンツとして収録:『日本大百科全書』小学館、1998年7月1日、SONY電子ブック版 改訂第2版。
  123. ^ 小島明 (2014年8月). “経済記者がみたエピソード 政治家とカネ、派閥… | 取材ノート”. 日本記者クラブ. 2019年7月26日閲覧。
  124. ^ 早坂茂三 1987, p. 80.
  125. ^ a b 辻井喬『叙情と闘争 ―辻井喬+堤清二回顧録―』 中央公論新社 2009年 113-118頁 ISBN 4-12-004033-X
  126. ^ a b c 松崎隆司『堤清二と昭和の大物』 光文社 2014年 111-117頁 ISBN 978-4-334-97801-3
  127. ^ 佐藤文生 (1978). はるかなる三里塚. 講談社. pp. 38-40,54-55,166-168 
  128. ^ 佐藤文生 (1985). 日本の航空戦略―21世紀のエアポート. サイマル出版会. p. 90 
  129. ^ 小林吉弥 (2016). 田中角栄の知恵を盗め. 主婦の友社. ISBN 978-4074188925 
  130. ^ a b 小林吉弥『田中角栄 処世の奥義』 講談社 2006年 83-86頁 ISBN 4-06-213269-9
  131. ^ 田中眞紀子 (2019-01-18). 角さんとじゃじゃ馬. KADOKAWA. ISBN 9784041077429 
  132. ^ 執着しない田中角榮が唯一大事にしたモノ”. 2021年1月17日閲覧。
  133. ^ 東根千万億『等しからざるを憂える。元首相鈴木善幸回願録』岩手日報社 2004年 64頁 ISBN 4-87201-346-8
  134. ^ 【話の肖像画】元通産事務次官・小長啓一(4) 激務から解放と思ったのに…”. 産経ニュース (2017年12月7日). 2019年7月13日閲覧。
  135. ^ 大下英治. “田中角栄 日本が酔いしれた親分力(11)強引にもぎ取った「勝機」! | アサ芸プラス”. アサ芸プラス. 2018年4月22日閲覧。
  136. ^ 田中角栄 日本が酔いしれた親分力(12)心遣いで金の価値を変える | アサ芸プラス”. アサ芸プラス. 2018年4月22日閲覧。
  137. ^ 片岡憲男『田中角栄邸書生日記』日経BPコンサルティング、2002年4月13日。ISBN 978-4931466630
  138. ^ 佐藤 2001, p. 219.
  139. ^ 早坂茂三『田中角栄回想録』
  140. ^ 『天才』
  141. ^ 『週間0510』
  142. ^ 山本七平「『御時世』の研究」文藝春秋、P136~139、1986年
  143. ^ 石原慎太郎『天才』pp.20-21
  144. ^ 早野透『田中角栄』40頁
  145. ^ 『東京馬主協会三十年史』東京馬主協会 1978年
  146. ^ 「田中角栄回想録」早坂茂三
  147. ^ 早坂茂三 1987, p. 111.
  148. ^ 「人材確保法」の成立過程 ―政治主導による専門職化の視点から― (PDF) 丸山和昭 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第56集・第1号(2007年)






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「田中角栄」の関連用語

田中角栄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



田中角栄のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの田中角栄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS