王貞治 人物

王貞治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/26 10:12 UTC 版)

人物

人柄・性格

真摯で誠実な人柄で知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。葬儀に参列した金村義明の談として、『まさか自分のところに王本人から電話がかかってくるとは思わずにいた。が、不在中に王からかかってきた電話に出た三男(当時3歳)が「ママ、“ダイエーのおう”から電話!!」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りした』というエピソードを披露している。

現役時代から道具を丁寧に扱うことで知られており、同じミットを10年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて慣れるまでに時間がかかる」と自ら裁縫してまで使い続けた。一方で、試合で本塁打を打ったバットについては比較的気軽に知人にプレゼントしていた。有名なところでは、八代亜紀に(「やしろ」つながりで)846号のバット[111]徳光和夫に868号のバット[112]を贈った例などが知られている。

律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。キャンプ地や優勝旅行先に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。1960年、初めてオールスターに出場した年に札幌山の手養護学校の生徒からファンレターが送られたが、当時すでにスター選手だった王は大量に来るファンレターの1通として読み流してしまい、後からその学校のことを知り、後悔したという。これ以後、王はファンレターを必ず丁寧に読むようになった。なお、王は翌1961年以降、巨人の監督を退任する1988年まで毎年札幌遠征の際、必ず山の手養護学校を訪問した。

ただし、若い頃は門限破りの常連で銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から3年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。その代わりその3年の後は10年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。

また、若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜き続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。

澤宮優の著書『打撃投手』によると王は打撃投手にも非常に親切で、長年王専属の打撃投手を務めていた、同い年の峰国安が打撃投手を辞めて退団(大洋ホエールズコーチ就任)することになり、1974年に来日したハンク・アーロンとのホームラン競争での王への投球が引退の場となった。ホームラン競争の後、峰が引退の記念に王のサインを頼んだところ王は「それなら一緒にアーロンのサインももらったらどうだ」と言い、アーロンの控え室に行き彼も快く応じて、王とアーロンのサインを寄せ書きで3枚もらったという。この他にも、王は「俺は禁酒するから、車に入っているウィスキー、君が飲んでくれないか」と酒の入ったケースを渡したり、「これは正月の餅代といったらあれだけど僕の気持ちだ。今まで僕のために投げてくれてありがとう」と札束の入った封筒を渡したり、礼を尽くしたという。

王がプロ3年目に知り合った心臓病の野球少年に「僕もホームランをかっ飛ばす選手になるから、君も早く元気に野球をやれるように頑張れ」と励まし続けた。しかし、その少年は薬石効なく13歳の若さでこの世を去ってしまう。この少年の両親が東京都品川区海徳寺に、息子を悼んでバットを持った地蔵を建立し、王も現役時代、シーズンが終わると毎年のようにこの地蔵にお参りしていた。そうしたことからこの地蔵をいつしか「ホームラン地蔵」と呼ぶようになったという[113]

運動量が多いため一般人より食べる量が遥かに多いと言われるプロ野球選手の中でも、並外れた大食漢としてたいへん有名である。選手時代はおやつ代わりにラーメンやカツ丼を平らげ、夜食に餃子を何人前も食べたりしていたという。昼食が済むとすぐに夕食のことが気になるほど、食べることへの執着は凄いものであった。監督時代は若手選手たちが飯を食べる様子を見て「なんだ、今の若いのは全然食べないんだな」と小食化を嘆いていたという。同じく大食漢として知られる川上哲治が唯一敵わなかった相手が王で、食べ比べた際に「これはかなわん」と降参したという。酒も非常に強く、数多く王が挑んだ飲み比べで負けた相手は大鵬ただ一人だったという。

胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と体重が減って喜んでいるような発言をした。

2019年現在も若手の活躍をチェックしており、中田翔にアドバイスを送っている[114]

先述にもあるように荒川の家で指導を受けていたころはありえないペースで畳がすり減り、畳も買い替えたが、これにヒントを得たメーカーがスポーツ畳の開発に着手して開発されたという逸話がある[115]

趣味

現役時代、独学でピアノを学び、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた[要出典]

東京在住時には料理を全くしなかった王だが(しかし、スパゲティだけはかなりの凝りようで、クロマティにも作り方の指導をしていたエピソードがある)、単身赴任となった現在では魚を3枚に下ろせるほどの腕前らしい[要出典]。生家が中華料理屋であるため、中学生になってからは店の厨房でラーメンを自分で作って食べていた[116]

また、正月に箱根駅伝を沿道で観戦し、駆け抜けていく選手たちに声援を送ったこともある[117][118][119]

家族

父・仕福は大陸から1人で日本に移住した天涯孤独に近い境遇であり、また外国人男性であることを理由に日本人である母方の親族や周囲の人間から正式な結婚を許してもらえなかった。そのため終戦後に正式に結婚するまでは、王とその兄弟は、表向きは王姓を名乗りつつも、法的には母親の私生児として日本国籍を保有していた。

真面目で人一倍働いた仕福は、中華料理店の2号店を出すなど事業を順調に拡大しており、本来なら王を野球の道に進ませるつもりはなく、溶接工にさせたかったという[39]。父は1985年のシーズン中に逝去したが、訃報は広島市民球場での試合終了後に伝えられた。シーズン中かつ遠征中であり、当時巨人の監督だった責任感から王は通夜も告別式も出席しないつもりだったが、周囲の強い勧めで東京に戻って告別式に出席し、すぐに広島に戻って指揮を執った。

1945年3月10日の東京大空襲は4歳の時であったが、「母の背中に背負われながら逃げ回り、夜空が真っ赤だったことを憶えている」ことを語っている[120]

10歳年上の兄・鐵城は医者で、王が2006年に胃癌の手術を受けた際、自身の出身であった慶應義塾大学病院に入院させ、後輩の医師だった北島政樹に手術執刀を依頼するなど、弟の闘病を蔭で支えていた。2008年秋に体調を崩し、12月20日に呼吸不全にて78歳で逝去した。王は「私の父親代わりだった」と兄、鐵城の死を悼んだ。

1966年に結婚した恭子夫人との間に、王理恵を含む三女をもうけた。王の新人時代、よく練習を見に来ていた女子学生2人組の一人で、一人は快活に話す子だったが、もう一人の「大人しい子だな」と王が感じた女子学生が後の夫人である。妻へのプロポーズの言葉は「ドドンパはお好きですか?」だったという。家ではかなりの亭主関白であり、本当に家の仕事は全く何もしなかったというが、しつけだけは王の担当であり、礼儀作法に厳しく、娘たちが自分の言ったことに対して口答えをすると容赦なく鉄拳を振るい、鼻血が出るまで殴っていたこともあるという。そのため、娘達には「父のことはあまり好きでなかった」と言われていた時期もあったという[39]

夫人は2001年12月に逝去。だが、翌2002年に夫人の遺骨が墓地から骨壺ごと盗み出され、更にその翌2003年に300万円を要求される事件に遭遇した[121][122]

2018年5月30日、一般女性(当時60歳)と再婚し、翌6月1日に報道発表を行った。この一般女性は福岡・中洲に軒を構えていた有名料亭の女将を務めていたことがあり、王自身もこの料亭を贔屓にしていて、当該女性と出会ったという[123][124][125]

母・登美は、自著の中で「無学の上に特別な才能も何もない親のもとで、ここまでやってくれて、母さんは幸せです」(『ありがとうの歳月を生きて』勁文社)と、我が子への思いを語った。2010年8月16日、肺炎のため108歳で逝去した[126]

国籍について

中華民国 (台湾) の世界少年野球推進財団理事長として「台北国際花の博覧会」を表敬訪問(2011年)

前述のように中華民国籍である。かつて中国大陸の政権与党は中国国民党であり、国号を中華民国としていた。当時、王を含めた中国内外に住む中国人(華僑華人)はみな中華民国国籍であった。中国国民党は第二次世界大戦後に中国共産党との覇権争いに敗れて中国大陸を脱出し、台湾台北に事実上首都を遷すが、1971年には国連を脱退し、日本を含めた国際社会の多くの国々から国家承認を取り消された。

王は自らの知名度を政治的に利用されることを嫌い、世界中の多数の国家により正式な国家として承認された中華人民共和国や、自身が生まれ育った日本国の国籍に利便性のために帰化することをよしとしないことなどから、王は現在でも中華民国籍である。王の娘では、理恵が父にならって未だに中華民国籍のままであることを明らかにしている。

なお、王を「台湾人」と誤って表現されることがあるが、これは国籍上中華民国籍であることに加えて「台湾」と「中華民国」が混同されがちであることが誤解の理由である。実際に王家の祖籍は中華人民共和国実効支配下の浙江省であり、台湾島とのゆかりは全くない。

ただし、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝の際、海外メディアから「あなたは日本人ですか?」と質問された王は、「父は中国人だが、母は日本人です。私は生まれたときより日本で育ち、日本の教育を受け、日本のプロ野球人として人生を送ってきました。疑うことなく日本人です」と答えている[127][128][129]

交友関係

野球界以外にも広い人脈を持ち、歌手の美空ひばりとは「義姉弟」(王の本人談)という程、肝胆相照らす仲であった。ひばりが死去した1989年6月24日、王は台湾に出掛けており、その日の夕方に新東京国際空港へ帰日した際、報道陣からひばりが死去したことを聞くと「それは本当か」と言って絶句した。7月に行われた本葬では、王が弔辞を読んでいる。

大相撲横綱大鵬幸喜とは同じ1940年の5月生まれ(誕生日が9日王が早い)であり、巨人軍球団指定接骨師だった吉田増蔵[130]が経営していた吉田接骨院の患者同士で知り合って以来、長年に亘り親交が深く[131]、休日に二人で夜通し酒を飲み明かしたこともある[132]。大鵬の通夜で、王が弔辞を読んでいる[133]

プロゴルファー鷹巣南雄とは50年以上にわたり親交があり旧知の仲。鷹巣の紹介で青木功とも親交を持つ様になる。プロゴルファーとして鳴かず飛ばずで何年かを過ごしていた青木は「王さんをスポーツ選手の鑑にする」と王を手本として日々を過ごすと、1971年に関東プロで初勝利、その後は王さんと同じように、「“世界”の青木」というニックネームを頂くまでになったと青木は語る[134]。2010年には青木とともに、ザ・レジェンド・チャリティプロアマトーナメントの大会実行委員として参画している[135]

政治家二階俊博とも40年以上にわたり親交があり旧知の仲である[136]

WBCの際、イチローが王に対し「監督は現役時代に、バッティングが簡単だ、と思ったことはありますか?」と質問し、王は「バッティングの極意を掴んだ、と思ったら逃げていく、その繰り返しで結局、そんなことは一度もなかった」と答えた。イチローはこれを聞き「王監督だってそうだったんだ」と感じ、バッティングで悩むのは当然だ、と再認識でき、安心したという。

アメリカでの評価

王の存在は、アメリカでも早くから評価されていた。1970年に行われた日米野球(サンフランシスコ・ジャイアンツ戦)では1試合2本塁打など活躍、親善試合でありながらMLBの投手が敬遠するという光景も見られた。1976年には、アメリカの代表的スポーツ雑誌である「スポーツ・イラストレイテッド」に、日本プロ野球選手として初めての表紙を飾った。

その一方で日本では「世界の本塁打王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」として知られており、英語圏のニュースでは Japanese homerun king Sadaharu Oh として紹介される。日本でも落合信彦が『そしてわが祖国』(1995年集英社文庫)で、アメリカ人が王を本塁打の世界一と認めていないことを指摘していた。

2006年11月のアメリカ誌「タイム」アジア版において、アジア版60周年を記念して特集された、政治、ビジネスなど5分野で活躍した66人が英雄に選ばれる、「60年のアジアの英雄」の一人に選ばれた。


注釈

  1. ^ 現在のメジャーリーグの記録はバリー・ボンズの762本。
  2. ^ 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「坊や、何で右で打っているの?」と書いている。
  3. ^ 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「じゃあ、次は左で打ってみたらどうだい。」と言っている。
  4. ^ 荒川はその時の王の印象を後に「なんて素直な少年なんだと思った。普通は大事な試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。
  5. ^ 開幕戦先発出場のセ・リーグ高卒新人は王以外に1957年に日大三高から阪神入りした並木輝男外野手、小学4年で王に憧れ野球を始め1988年にPL学園から中日入りした立浪和義遊撃手の2人。
  6. ^ ただし、シーズンで最多三振を記録したことは一度もない。
  7. ^ 当時の巨人でのシーズン最多本塁打は青田の32本であり、簡単に30本以上が出るとは思っていなかった。
  8. ^ この日は日曜日で、当時日曜日はダブルヘッダーとすることが多く、第1試合は薄暮ゲームで午後4時半から開始することが多かった。
  9. ^ この時の当事者だった別所と荒川は、その後1977年から1984年まで、フジテレビ文化放送野球解説者として『プロ野球ニュース』などで一緒に仕事をすることになる。
  10. ^ 1981年から1987年までは後楽園球場、1998年から現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されており、そのモニュメントで再現されている。また2002年には王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」(868体限定)が販売され、一本足打法が再現されている
  11. ^ NPB全体では2001年タフィ・ローズ2002年アレックス・カブレラと並ぶ2位タイ記録。日本国籍選手だと1963年野村克也1985年落合博満の52本塁打が最多タイ記録であった(村上は日本国籍)。
  12. ^ 王が引退した1980年において、メジャーリーグ26球団の本拠地球場の多くは両翼が100mを超えており、両翼が100m以下の球場も左右中間は115m以上あるなど充分な外野の広さを持っていた。これに対し、後楽園球場は両翼が実測87.8m(約288.1ft)、左右中間110.1m(約361.1ft)と狭く、他のセ・リーグの球場もほぼ同様の広さであった。
  13. ^ 当初は助監督の3年間で退任して巨人を去るつもりであったが、球団の要請により、監督に登用されて引き受けることとなった。
  14. ^ 戦後から2015年まで(水原監督から第二次原監督まで)でBクラス経験が一度もない巨人軍監督は、水原と王の2人だけである。
  15. ^ 前年の1993年にも根本から監督の要請があったが、この時は急な話だった為に断っている[81]
  16. ^ 長嶋自身、周囲への助言を求めている自分と、そうでもない王の対比を意識しており、その違いは「ワンちゃんは荒川さん直々の打法があったが、自分はそもそも師匠がおらず、直伝された技術がなかった。だから自分から周囲に教えを乞うしかなかった。」と述べている(「巨人V9 50年目の真実」より)
  17. ^ その際、自分のもとに王から直接電話が来るはずないと思っていた尾花から「王さんですか?失礼ですがそのような方に心当たりないのですが、どちらにお掛けですか」と訊き返し、それに対して王が「福岡ダイエーホークスの監督を務める王貞治と申します」と丁寧に返答したため、尾花が一転して直立不動になってしまったという逸話がある(詳細は尾花高夫を参照)。
  18. ^ ただし、NPB公式の出塁率のシーズン記録は1986年落合博満(ロッテ)の.487である(両リーグで最高出塁率を表彰開始した1985年以降が対象であるため)[137]

出典

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  12. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』12P参照
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  15. ^ 王貞治、『野球にときめいて 王貞治 半生を語る』2011年、11頁。
  16. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』14P参照
  17. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』17P参照
  18. ^ 朝日デジタルのニュース記事「OB王貞治さん祝福 墨田の業平小100周年式典」辻健治 2017年11月24日03時00分
  19. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』25-26P参照
  20. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』26P参照
  21. ^ 【 神回 】夢の対談がまさか実現するとは!! 世界の王貞治がクロマティチャンネルに登場!!(前編)【クロマティも超緊張】
  22. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』27P参照
  23. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』27-28P参照
  24. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』29P参照
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  27. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』30P参照
  28. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』32-34P参照
  29. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』37-39P参照
  30. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』46P参照
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  37. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』64P参照
  38. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』65-67P参照
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  40. ^ 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』 71P参照
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