王羲之
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主な法帖
楷書
- 楽毅論(がっきろん) - 永和4年(348年)
- 黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年)
- 東方朔画賛(とうほうさくがさん) - 永和12年(356年)
- 孝女曹娥碑(こうじょそうがひ、『曹娥碑』とも) - 升平2年(358年)
- 小楷の法帖。曹娥碑の建碑は後漢であり、後に王羲之がその碑を臨書したといわれ、末尾に「昇平(升平)二年」(358年)の年紀が見える。しかし、本帖は南宋になって初めて文献に出たもので、王羲之の書である確証はない。現存するのは、六朝人の手によるものと推測される臨模本(絹本、遼寧省博物館所蔵)と『筠清館帖』・『群玉堂帖』・『停雲館帖』・『三希堂法帖』などに刻入された拓本がある。建碑の由来は、後漢の上虞(現在の浙江省紹興市上虞区)の曹盱(そうく)という者が溺死し、その娘の曹娥が嘆き悲しみ、父を慕ってその場所に身を投げ、5日後に父の屍を抱いて浮かび上がったという事跡から、その曹娥の孝心を讃えて上虞の県長が邯鄲淳に撰文させ、建碑したというものである[11][12][13][14]。
『黄庭経』(部分)
行書
- 蘭亭序(らんていじょ)- 永和9年(353年)
詳細は「蘭亭序」を参照
- 集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)
- 興福寺断碑(こうふくじだんぴ)
- 喪乱帖(そうらんじょう)
- 孔侍中帖(こうじちゅうじょう)
- 『哀禍帖』(あいかじょう)・『九月十七日帖』・『憂懸帖』(ゆうけんじょう)の3帖から成る。一括して『九月十七日帖』また『孔侍中帖』という。『喪乱帖』と同じ紙で、双鉤塡墨。また『哀禍帖』と『九月十七日帖』との間の紙縫に、同じく「延暦勅定」の印3顆が押捺されている。現在は前田育徳会蔵。国宝。
- 快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)
- 平安帖(へいあんじょう)
- 姨母帖(いぼじょう)
- 奉橘帖(ほうきつじょう)
草書
- 十七帖(じゅうしちじょう)
- 遊目帖(ゆうもくじょう)
- 『游目帖』とも書く[注釈 9]。本帖は、羲之が益州刺史・周撫に宛てた尺牘11行で、蜀郡への憧れを寄せている。古来『十七帖』の中の1帖『蜀都帖』(しょくとじょう)の双鉤塡墨本といわれ、良く知られた1帖であるが、伝承の正しい、つまり羲之の書を忠実に伝えている『十七帖』の刻本と比べると結体や筆法に相違があり、概ね本帖の方が結体が悪い。ただし伝来どおり双鉤塡墨の痕跡があり、また唐の太宗のときの貞観の小印が押されているという点から、唐人が臨書したものをもとにしての双鉤塡墨本であろうと考えられている。が、『十七帖』との先後を決定することは難しい。本帖は唐・宋代に宮廷コレクションに蔵され、1747年に清の内府に入り『三希堂法帖』に刻入された。その後、恭親王に帰し、1900年、義和団の乱の際に流出して、明治末期に日本に伝来し、大正2年(1913年)4月、京都府立図書館で一般公開された[19]。昭和20年(1945年)、所蔵者だった広島市の安達万蔵が原爆で被災し、以降、行方不明となり焼失したものとされている。その影印本が現存する[20][21][22][23]。
- 瞻近帖(せんきんじょう)
- 羲之が陶瞻に宛てたもので、陶瞻の来訪を心待ちにしていることを告げている。
- 行穣帖(こうじょうじょう)
- 二謝帖(にしゃじょう、『二謝書帖』とも)
- 秋月帖(しゅうげつじょう、『七月帖』とも)
- 得丹楊書帖(とくたんようしょじょう)
- 羲之が遠く離れている友人に対し、会ってゆっくりと語り合いたいと綴っている。
- 袁生帖(えんしょうじょう)
- 羲之が都へ行った袁(袁宏あるいは袁嶠之)の近況を尋ねているが、宛先は不明である。
- 時事帖(じじじょう)
- 知念帖(ちねんじょう)
- 自慰帖(じいじょう)
- 皇象帖(こうぞうじょう)
- 晩差帖(ばんさじょう)
- 大熱帖(だいねつじょう)
- 転佳帖(てんかじょう)
- 初月帖(しょげつじょう)
- 妹至帖(まいしじょう)
- 長風帖(ちょうふうじょう)
- 労弊帖(ろうへいじょう)
- 荀侯帖(しゅんこうじょう)
- 寒切帖(かんせつじょう)
- 従洛帖(じゅうらくじょう)
- 遠宦帖(えんかんじょう)
- 参朝帖(さんちょうじょう)
- 弘遠帖(こうえんじょう)
- 分住帖(ぶんじゅうじょう)
- 周常侍帖(しゅうじょうじじょう)
- 謝生在山帖(しゃせいざいさんじょう)
『十七帖』(余清斎帖本、冒頭部分)
注釈
- ^ 王羲之の生没年には、303年 - 361年(『東観余論』の説)、306年 - 364年、321年 - 379年、303年 - 379年(姜亮夫の説)、307年 - 365年(清の魯一同(ろ いつどう、1804年? - 1863年)の説)など諸説あるが、303年 - 361年が比較的信頼性があるとされている[1][2]。
- ^ 初唐の三大家、三筆、三跡など。
- ^ しかし羲之自身は武人を志しており、中央政界での出世は、あまり望まなかったという。
- ^ 『晋書』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『世説新語』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。
- ^ 『法書要録』(張彦遠編)第4巻に収録された『二王等書録』(張懐瓘撰)に、「右軍書大凡二千二百九十紙,裝為十三帙一百二十八卷:真書五十紙,一帙八卷,隨木長短為度;行書二百四十紙,四帙四十卷,四尺為度;草書二千紙,八帙八十卷,以一丈二尺為度。」とある(『二王等書録』の原文)。
- ^ 沙門(しゃもん)とは、僧のこと。
- ^ 顆(か)は印鑑を数える単位。
- ^ 『右軍書記』(ゆうぐんしょき)は、張彦遠が二王の書跡の全文を集録したもので、草書の尺牘が最も多い。『法書要録』第10巻に収録されている[17]。
- ^ 筆跡中、「遊目」と草書で書かれている。
- ^ 足下行穣九人還(改行)示應決不。大都當佳[24]。
- ^ 意味:王羲之の文字でなければ、文字ではない。
出典
- ^ 比田井南谷 P.108
- ^ 飯島春敬 P.56
- ^ 比田井南谷 P.110
- ^ 「王羲之書字勢雄逸,如龍跳天門,虎臥鳳闕」(『古今書人優劣評』の原文)。
- ^ 西林昭一 P.106
- ^ a b 飯島春敬 P.57
- ^ a b 鈴木洋保 PP..18-19
- ^ 中田勇次郎 P.10
- ^ 比田井南谷 P.115、PP..117 - 118
- ^ a b 内藤乾吉 PP..167-168
- ^ 飯島春敬 P.58
- ^ 中西慶爾 PP..279-280,515
- ^ 木村卜堂 P.115
- ^ 西林昭一 P.123
- ^ 藤原鶴来 P.64
- ^ 中西慶爾 P.99
- ^ 中西慶爾 P.792
- ^ 藤原楚水 P.418
- ^ 書論研究会 P.57
- ^ 内藤乾吉 PP..169-170
- ^ 中西慶爾 PP..479-480、P.929
- ^ 飯島春敬 P.61
- ^ 比田井南谷 P.118
- ^ 内藤乾吉 P.169
- ^ 内藤乾吉 PP..168-169
- ^ 比田井南谷 PP..117-118
- ^ 楊仁ガイ
- ^ 中田勇次郎 P.191
- ^ 西林昭一 P.133
- ^ 中田勇次郎 PP..190-191
- ^ 飯島春敬 P.59
- ^ 中西慶爾 P.407
王羲之と同じ種類の言葉
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