王羲之 主な法帖

王羲之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/02 15:06 UTC 版)

主な法帖

楷書

  • 楽毅論(がっきろん) - 永和4年(348年
    戦国時代宰相であった楽毅の言行を、三国時代夏侯玄が論じたもので、羲之の小楷として第一位に置かれる。日本では光明皇后の臨書したものが正倉院宝物として遺されている。
  • 黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年
    老子養生訓で、羲之の小楷の中でも気韻が高い。真跡として唐に伝わったものは安史の乱で消失し、今日に見られるものは、これの臨模本を模刻したもので、宋の拓本を最古とする。
  • 東方朔画賛(とうほうさくがさん) - 永和12年(356年)
    漢の武帝に仕えた東方朔という奇人の画像の賛として書かれた。
  • 孝女曹娥碑(こうじょそうがひ、『曹娥碑』とも) - 升平2年(358年
    小楷の法帖。曹娥碑の建碑は後漢であり、後に王羲之がその碑を臨書したといわれ、末尾に「昇平(升平)二年」(358年)の年紀が見える。しかし、本帖は南宋になって初めて文献に出たもので、王羲之の書である確証はない。現存するのは、六朝人の手によるものと推測される臨模本(絹本、遼寧省博物館所蔵)と『筠清館帖』・『群玉堂帖』・『停雲館帖』・『三希堂法帖』などに刻入された拓本がある。建碑の由来は、後漢の上虞(現在の浙江省紹興市上虞区)の曹盱(そうく)という者が溺死し、その娘の曹娥が嘆き悲しみ、父を慕ってその場所に身を投げ、5日後に父の屍を抱いて浮かび上がったという事跡から、その曹娥の孝心を讃えて上虞の県長邯鄲淳に撰文させ、建碑したというものである[11][12][13][14]

行書

  • 蘭亭序(らんていじょ)- 永和9年(353年
  • 集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)
    集字聖教序』ともいう。唐の太宗玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、弘福寺の沙門[注釈 6]懐仁(えにん)が、高宗の咸亨3年(672年)12月勅命を奉じ、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻したものである。字数は約1800字で、原碑は現存する。
    羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。
  • 興福寺断碑(こうふくじだんぴ)
    唐の興福寺の僧大雅が、羲之の行書を集字して、開元9年(721年)に建てたものであるが、碑は上半分を失って700余字を残しているため、半截碑ともいう。また、文中、「」の字を「」と誤っているので、呉文断碑ともいう。明の万暦年間に長安城内の草中より発見された。
  • 喪乱帖(そうらんじょう)
    王羲之の手紙の断片を集めたもので、『喪乱帖』8行、『二謝帖』5行(1行ずつの断片を集めたもの)、『得示帖』4行の計17行が一幅になっている[15]。書簡の最初の行に「喪乱」の句があるのでこのように呼ばれる。縦に簾目(すだれめ)のある白麻(はくま)紙に、双鉤塡墨で模したものであるが、肉筆と見違えるほど立派である。東京・三の丸尚蔵館蔵。右端の紙縫に「延暦勅定」の印3顆[注釈 7]が押捺されているところから、桓武天皇御府に既に存在していたことが分かる。
  • 孔侍中帖(こうじちゅうじょう)
    『哀禍帖』(あいかじょう)・『九月十七日帖』・『憂懸帖』(ゆうけんじょう)の3帖から成る。一括して『九月十七日帖』また『孔侍中帖』という。『喪乱帖』と同じ紙で、双鉤塡墨。また『哀禍帖』と『九月十七日帖』との間の紙縫に、同じく「延暦勅定」の印3顆が押捺されている。現在は前田育徳会蔵。国宝。
  • 快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)
    「羲之頓首」に始まり、時候の挨拶に続いて相手の安否を気遣い、要件を済ますといった、形式通りに書かれた手紙文3行と「山陰張侯」(宛名)の4行からなる。清の乾隆帝が、王献之の『中秋帖』、王珣の『伯遠帖』とともに珍蔵し、その室を「三希堂」と名付けたことで著名(『三希堂法帖』参照)。台北・国立故宮博物院[6][16]
  • 平安帖(へいあんじょう)
  • 姨母帖(いぼじょう)
  • 奉橘帖(ほうきつじょう)

草書

  • 十七帖(じゅうしちじょう)
    羲之の手紙29通を集めて一巻としたもので、蜀郡の太守の周撫に与えた手紙が多い。初行に「十七日」の句があるのでこのように呼ばれる。本帖について、『右軍書記』[注釈 8]に20通分の墨蹟本をあげて、「これ烜赫(けんかく)たる著名の帖なり」としている。これが現在の「十七帖」の原形だと考えられている。また、『東観余論』に、「書中の龍なり」と評するなど、古来、草書の神品とされている[18]
  • 遊目帖(ゆうもくじょう)
    遊目帖
    『游目帖』とも書く[注釈 9]。本帖は、羲之が益州刺史周撫に宛てた尺牘11行で、蜀郡への憧れを寄せている。古来『十七帖』の中の1帖『蜀都帖』(しょくとじょう)の双鉤塡墨本といわれ、良く知られた1帖であるが、伝承の正しい、つまり羲之の書を忠実に伝えている『十七帖』の刻本と比べると結体筆法に相違があり、概ね本帖の方が結体が悪い。ただし伝来どおり双鉤塡墨の痕跡があり、また唐の太宗のときの貞観の小印が押されているという点から、唐人が臨書したものをもとにしての双鉤塡墨本であろうと考えられている。が、『十七帖』との先後を決定することは難しい。本帖は唐・宋代に宮廷コレクションに蔵され、1747年に清の内府に入り『三希堂法帖』に刻入された。その後、恭親王に帰し、1900年義和団の乱の際に流出して、明治末期に日本に伝来し、大正2年(1913年)4月、京都府立図書館で一般公開された[19]昭和20年(1945年)、所蔵者だった広島市の安達万蔵が原爆で被災し、以降、行方不明となり焼失したものとされている。その影印本が現存する[20][21][22][23]
  • 瞻近帖(せんきんじょう)
    羲之が陶瞻に宛てたもので、陶瞻の来訪を心待ちにしていることを告げている。
  • 行穣帖(こうじょうじょう)
    2行15字[注釈 10]尺牘の断簡であるが、古くから知られた羲之の名品である。文意は不明であり、2行目の先頭の文字についても、「示」(董其昌の説)・「意」(張彦遠の説)・「哀」(王澍の説)など見解の相違がある。本帖には王羲之独特の草書の書風が見出せず、それ以前からあった尺牘の書風によって王羲之が若い頃に書いたものと推察される。『三希堂法帖』や『余清斎帖』などに刻入され、臨模本がプリンストン大学美術館に収蔵されている[25][26]
  • 二謝帖(にしゃじょう、『二謝書帖』とも)
    内容は、親しい謝氏の誰かが亡くなった悲しみを綴った尺牘で、草書で10行、77文字ある。その没した者は、謝尚(しゃしょう、308年 - 357年、中文)か、あるいは謝奕(しゃえき、? - 358年、中文)ともいわれている。長春の溥儀コレクションが略奪されたあと、1948年に焼却されたと伝えられる[27]。本帖は『三希堂法帖』や『鄰蘇園帖』に刻されているが、『鄰蘇園帖』は『三希堂法帖』からの重刻である[28][29]
  • 秋月帖(しゅうげつじょう、『七月帖』とも)
    内容は、ごく簡単な相手の安否を問う尺牘で、草書で7行、50文字ある。謝尚への見舞状ともいわれている。『都下帖』(とかじょう、『都下九日帖』・『桓公当陽帖』とも)と合わせて一軸とした14行の模本が存在し、現在、台湾の故宮博物院に収蔵されている。『都下帖』も草書の尺牘で、書風も酷似している。一般にその両帖一軸を日本では『秋月帖』と称し、中国では『七月都下帖』と称すことが多い。『三希堂法帖』・『淳化閣帖』に刻入されている[30][31][32]
  • 得丹楊書帖(とくたんようしょじょう)
    羲之が遠く離れている友人に対し、会ってゆっくりと語り合いたいと綴っている。
  • 袁生帖(えんしょうじょう)
    羲之が都へ行った袁(袁宏あるいは袁嶠之)の近況を尋ねているが、宛先は不明である。
  • 時事帖(じじじょう)
  • 知念帖(ちねんじょう)
  • 自慰帖(じいじょう)
  • 皇象帖(こうぞうじょう)
  • 晩差帖(ばんさじょう)
  • 大熱帖(だいねつじょう)
  • 転佳帖(てんかじょう)
  • 初月帖(しょげつじょう)
  • 妹至帖(まいしじょう)
  • 長風帖(ちょうふうじょう)
  • 労弊帖(ろうへいじょう)
  • 荀侯帖(しゅんこうじょう)
  • 寒切帖(かんせつじょう)
  • 従洛帖(じゅうらくじょう)
  • 遠宦帖(えんかんじょう)
  • 参朝帖(さんちょうじょう)
  • 弘遠帖(こうえんじょう)
  • 分住帖(ぶんじゅうじょう)
  • 周常侍帖(しゅうじょうじじょう)
  • 謝生在山帖(しゃせいざいさんじょう)

注釈

  1. ^ 王羲之の生没年には、303年 - 361年(『東観余論』の説)、306年 - 364年321年 - 379年303年 - 379年姜亮夫の説)、307年 - 365年の魯一同(ろ いつどう、1804年? - 1863年)の説)など諸説あるが、303年 - 361年が比較的信頼性があるとされている[1][2]
  2. ^ 初唐の三大家三筆三跡など。
  3. ^ しかし羲之自身は武人を志しており、中央政界での出世は、あまり望まなかったという。
  4. ^ 晋書』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『世説新語』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。
  5. ^ 法書要録』(張彦遠編)第4巻に収録された『二王等書録』(張懐瓘撰)に、「右軍書大凡二千二百九十紙,裝為十三帙一百二十八卷:真書五十紙,一帙八卷,隨木長短為度;行書二百四十紙,四帙四十卷,四尺為度;草書二千紙,八帙八十卷,以一丈二尺為度。」とある(『二王等書録』の原文)。
  6. ^ 沙門(しゃもん)とは、のこと。
  7. ^ 顆(か)は印鑑を数える単位。
  8. ^ 『右軍書記』(ゆうぐんしょき)は、張彦遠二王の書跡の全文を集録したもので、草書の尺牘が最も多い。『法書要録』第10巻に収録されている[17]
  9. ^ 筆跡中、「遊目」と草書で書かれている。
  10. ^ 足下行穣九人還(改行)示應決不。大都當佳[24]
  11. ^ 意味:王羲之の文字でなければ、文字ではない。

出典

  1. ^ 比田井南谷 P.108
  2. ^ 飯島春敬 P.56
  3. ^ 比田井南谷 P.110
  4. ^ 「王羲之書字勢雄逸,如龍跳天門,虎臥鳳闕」(『古今書人優劣評』の原文)。
  5. ^ 西林昭一 P.106
  6. ^ a b 飯島春敬 P.57
  7. ^ a b 鈴木洋保 PP..18-19
  8. ^ 中田勇次郎 P.10
  9. ^ 比田井南谷 P.115、PP..117 - 118
  10. ^ a b 内藤乾吉 PP..167-168
  11. ^ 飯島春敬 P.58
  12. ^ 中西慶爾 PP..279-280,515
  13. ^ 木村卜堂 P.115
  14. ^ 西林昭一 P.123
  15. ^ 藤原鶴来 P.64
  16. ^ 中西慶爾 P.99
  17. ^ 中西慶爾 P.792
  18. ^ 藤原楚水 P.418
  19. ^ 書論研究会 P.57
  20. ^ 内藤乾吉 PP..169-170
  21. ^ 中西慶爾 PP..479-480、P.929
  22. ^ 飯島春敬 P.61
  23. ^ 比田井南谷 P.118
  24. ^ 内藤乾吉 P.169
  25. ^ 内藤乾吉 PP..168-169
  26. ^ 比田井南谷 PP..117-118
  27. ^ 楊仁ガイ
  28. ^ 中田勇次郎 P.191
  29. ^ 西林昭一 P.133
  30. ^ 中田勇次郎 PP..190-191
  31. ^ 飯島春敬 P.59
  32. ^ 中西慶爾 P.407






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