牛頭天王 歴史

牛頭天王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/31 08:50 UTC 版)

歴史

牛頭天王は、古代にさかのぼる蘇民将来の説話が陰陽師などによって伝承されるうちに、日本古来の霊信仰とむすびついて行疫神とみられるようになり、その霊力がきわめて強力であるがゆえに、逆にこれを丁重に祀れば、かえって災厄をまぬがれることができると解されて除疫神としての神格をもつようになったものである。荒魂和魂へと転換されたわけであるが、日本神話では天上を追放された「荒ぶる神」スサノオとの習合がこの過程においてなされたものと考えられる[12]

『備後国風土記』の蘇民将来説話

『釈日本紀』に引用された『備後国風土記逸文[14]に「武塔天神」と「蘇民将来」兄弟の話が出てくる。『備後国風土記』は奈良時代初期に編纂された備後国広島県東部)の地理書であるが、現在は鎌倉時代の逸文として引用のかたちで伝存したものである。ここでは、牛頭天王は「武塔天神」と同一視され、親切に迎え入れた兄の「蘇民将来」に対して疫病を免れしめ、その一宿一飯の恩に報いるために蘇民とその娘に除難の法を教えたと記している。本文に「批則祇園社本縁也」と記述された説話がそれであり、これは文献にあらわれた「蘇民将来」説話の最古の例である。

平安時代

辟邪絵(奈良国立博物館)で牛頭天王をつかんで食べる天刑星

平安時代の絵画『辟邪絵』(奈良国立博物館蔵)には、疫神や牛頭天王をつかんで食べる天刑星(疫神を食べる道教の神『封神演義』では桂天禄が封神された)の絵と詞が描写されている。

この時代には、都市部でさかんに信仰されるようになり、祇園社の御霊会(祇園祭)において祀られるようになったといわれる。祇園御霊会がさかんになったのは10世紀ころからで、夏に流行しがちな疫病を鎮める効果が求められた。京都では感神院祇園社に祀られ除疫神として尊崇され、祇園社のある地は「祇園」と称されるようになった。

なお、当時辞書として編まれた『伊呂波字類抄』(上述)の「祇園」の項では、牛頭天王は天竺北方の「九相国」の出身で、またの名を武答天神といい沙掲羅竜女を后とし八王子ら84,654神が生まれたとしている[15]

八坂神社由来

鎌倉時代末に成立した『社家条々記録』には「別記云 貞観十八年 南都円如先建立堂宇 奉安置薬師千手等像 則今年夏六月十四日 天神東山之麓祇園林ニ令垂跡御座」とあり、また、『群書類従』神祇部所収の「二十二社註式」には「牛頭天皇 初垂迹於播磨明石浦 移広峰 其後移北白河東光寺 其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院 託宣曰 我天竺祇園精舎守護神云々 故号祇園社」とある。

これらによれば、牛頭天王は、天竺では祇園精舎の守護神であったが、日本では、最初は播磨国明石浦(兵庫県明石市)に垂迹、ついで広峰(兵庫県姫路市)に移り、その後、京都東山北白川東光寺へ、陽成天皇貞観18年(876年)に東山山麓に垂迹したため堂宇を建立、あるいは元慶年間(877年-885年)東山の感神院に移ったとされるのが祇園社(現在の八坂神社)である[7]
広峯社が祇園社の元宮であるという上記の伝承は室町時代に吉田神道が採用したことから大いに広まり,江戸時代には祇園社も時にこの説を受け入れるようになるなど完全に通説化した。しかし,現代的な歴史学的観点から八坂神社の創祀について先駆的研究を行った久保田収は,平安時代の文献には広峯社は一切あらわれないことや,伝播ルートの重要な拠点である東光寺の設立以前にすでに祇園の名称が遣われていることなどを詳細に検討した結果,広峯遷座説を否定している[16]。また,祇園社の祭神は平安時代の記録では「天神」または「祇園天神」とされていることから,最初は牛頭天王ではなかった可能性が指摘されている。祇園社の祭神が明確に牛頭天王と記録されるのは鎌倉時代以降の文献である。さらに,牛頭天王は祇園精舎のあるインドで信仰された形跡はなく,その伝播経路とされる中国や朝鮮においても「牛頭天王」やそれに相当する神仏が信仰された痕跡がない。そのため,牛頭天王は現在の学説では日本における独自の神であると考えられている。

中世

牛頭天王は疫病の神であるところから「蘇民将来」説話と混淆し、牛頭天王は武塔神と同一視されたり父子関係とされたりして、スサノオとも習合した。『神道集』巻第3 祇園大明神事[17]では「抑祇園大明神者、世人天王宮ト申、即牛頭天王是也、牛頭天王ハ武答天神王等ノ部類ノ神也、天形星トモ武答天神トモ、牛頭天王トモ崇ル」と牛頭天王は天刑星、武答天神、天道神とされた。

牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神(仏像図彙 1783年)

その結果、以下さまざまな説話のバリエーションが派生した。

地の金色文字で「蘇民将来子孫之門」と書かれた札の由来となった次の説話がある(赤い紙に金色の文字は陰陽道で「疫病神が嫌う色」とされているからとされる)。

昔、牛頭天王が老人に身をやつしてお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。このとき弟の巨丹将来は裕福なのに冷淡にあしらい、兄の蘇民将来は貧しいのにやさしく迎え入れてもてなした。そこで牛頭天王は正体を明かし、「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、蘇民の一族は助かったという。

三國相傳陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』(略称『金烏玉兎集』、『簠簋内伝』とも)第1巻牛頭天王縁起に詳細な説話が記され[18]、『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では牛頭天王は武答天皇の太子として登場し、牛頭天皇とも表記され、八大竜王の一、沙掲羅竜王の娘の頗梨采女を妃として八王子を生んだという。その姿かたちは頭に牛の角を持ち、夜叉のようであるが、こころは人間に似ていると考えられた。

日本仏教では、薬師如来の垂迹とされた。牛頭天王に対する神仏習合の信仰を祇園信仰といい、中世までには日本全国に広まり、悪疫退散・水難鎮護の神として「祇園祭」「天王祭」「津島祭」などと称する祭礼が各地で盛んに催されるようになった。

近世・近代

祇園社、天王社で祀られていた。単に天王といえば、牛頭天王をさすことが多い。牛頭天皇と呼ばれることもあり、奈良県滋賀県域に所在する天皇神社はスメラミコトとしての天皇ではなく牛頭天王が祭神である。天王洲アイルの「天王洲」など、各地にある「天王」のつく地名の多くは牛頭天王に因むものである。

江戸時代の国学者平田篤胤は著書『牛頭天王暦神弁[19]』で『牛頭天王出佛説秘密心点如意藏王陀羅尼經』は偽経であると記述した[20][出典無効]

天野信景の牛頭天王辨といふ物尓
牛頭天王出佛説秘密心点如意藏王陀羅尼經
凡天王有十種反身曰武塔天神曰牛頭天王曰
摩羅天王曰蛇毒氣神曰摩那天王曰
曰梵王曰玉女(中略)
天刑星秘密儀軌 有牛頭天王縛撃癘鬼禳除疫難之事 と云り
然れど此は共に一切經藏に載せざれば偽經なる — 平田篤胤『牛頭天王暦神辯』[21]

織田信長織田家の紋は祇園神社神紋と同じ木瓜紋 津嶋神社と関わる[22])が神社破壊をした際に自衛のため牛頭天王が盛んになったとの説を『豊島郡誌』(今西玄章 1736年(元文元年))、『摂津名所図会』(1798年(寛政10年))[23]が記述した[24]

神仏分離・廃仏毀釈

明治維新神仏分離によって、権現類と並んで通達で名指しされた[8]天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組された[6]。また、織田信長が神社破壊をした際に自衛のために、織田信長が信仰した牛頭天王を祭神に変えた社が多かったとし、実は古来からの祭神ではなかったと故意に主張され、全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された[6][注釈 9]




注釈

  1. ^ 1尺=30.3センチメートルとして計算すると、7尺5寸は227.25センチメートル、3尺は90.9センチメートルである。
  2. ^ 端午節句(ちまき)を食するのは古単の髻(もとどり)、菖蒲を祀るのは古単のの象徴であるといわれる。
  3. ^ 本文ではなく、「一書に曰く」として註記されたものである。
  4. ^ 『日本書紀』のなかでの該当語は「天」である。
  5. ^ 「一書曰(第四)(前略)是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曽尸茂梨之處 『日本書紀』神代上第八段、巻第一」
  6. ^ 表紙題字は『八阪神社舊記集録 合巻』である。
  7. ^ 「承暦三紀有方記、右旧記相伝年久紙面損・・・且・家蔵社記古文書焼失過其半矣、幸哉甞有所謄写、因聊抄出以伝焉」
  8. ^ 「狛国人 留川麻乃意利佐」と記載される。
  9. ^ 秋田県南秋田郡に所在する東湖八坂神社(現潟上市)は旧県社に列せられており、旧町名の「天王」もまた牛頭天王にちなむものであった。例祭におこなわれる統人行事は、重要無形民俗文化財に指定されているが、ここでも祭神はスサノオにあらためられている。

参照

  1. ^ a b 塩入法道 『信濃国分寺の蘇民将来符について』 (1997) p.63
  2. ^ 祇園牛頭天王御縁起”. 京都大学附属図書館. 2011年2月12日閲覧。
  3. ^ a b c 祇園牛頭天王御縁起 - 寛永11年(1634年)の写本(『京都大学附属図書館創立百周年記念公開展示会図録』より)
  4. ^ 京都大学付属図書館蔵『牛頭天王御縁起』より
  5. ^ a b c d e f g h i j 山本「牛頭天王」(1999)
  6. ^ a b c d e f g 川村『牛頭天王と蘇民将来伝説——消された異神たち』(2007)
  7. ^ a b c 菟田「牛頭天王」(2004)
  8. ^ a b c d e f g h 真弓編『祇園信仰事典』(2002)
  9. ^ 八坂社旧記集録 上国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
  10. ^ 八坂社旧記集録 中下国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
  11. ^ 該当ページ
  12. ^ a b c d e f 佐野(1980)
  13. ^ 菟田俊彦、「牛頭天王」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館。
  14. ^ 素戔嗚尊乞宿於衆神”. 平松文庫 『釈日本紀』2巻. 京都大学附属図書館. 2011年2月13日閲覧。
  15. ^ 祇園”. 色葉字類抄 享保8年日野資時の写本. 早稲田大学 古典籍総合データベース. 2011年2月12日閲覧。
  16. ^ 久保田収「祇園社の創祀について」神道史研究 10(6)
  17. ^ 「神道集」巻第三
  18. ^ 修験道と神道 参考『修験道と日本宗教』(春秋社)祇園社と修験道(1) 祇園社と牛頭天王
  19. ^ 牛頭天王暦神弁
  20. ^ 牛頭山・牛頭天王についての疑問(続き)
  21. ^ 該当ページ
  22. ^ 織田信長の自己神格化と津嶋牛頭天王 The Function of the Cult of 'Gozu-tenno, in the Self-deification of Oda Nobunaga
  23. ^ 牛頭天王信長対策説
  24. ^ 牛頭天王の繁盛と受難
  25. ^ 武蔵野三十三観音霊第33番札所
  26. ^ a b 「ごおう‐ほういん〔ゴワウ‐〕【▽牛王宝印】」 - デジタル大辞泉〕【▽牛王宝印】
  27. ^ 「ごおうほういん【牛玉宝印】」 - 世界大百科事典 第2版
  28. ^ 望月信亨 等編『仏教大辞典』第3巻(明42-大5)p.865
  29. ^ John F. Embree "[Notes on the Indian God Gavagrīva (Godzu Tennō) in Contemporary Japan]" Journal of the American Oriental Society Vol. 59, No. 1 (Mar., 1939), pp. 67-70





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