熊本藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 05:04 UTC 版)
熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石(細川家の時代に、八代領と両支藩を分封ののち高直しで54万石)。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関など)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。熊本藩細川家は肥後一円を領有していないが、国持ち大名(大身国持)とされた。
注釈
- ^ 「鍋に細川と書いた紙を貼ると金気(金属特有のにおいや味)が無くなる」は人口に膾炙するも、巷説や後世の創作ともされる。
- ^ 伊達村豊(宗春)は浅野長矩の刃傷後に、梶川頼照らと共に長矩を捕獲した。田村建顕は長矩を罪人として厳しく扱っている。赤穂義士引き上げでも、伊達綱村は愛宕下で、仙台藩邸前に兵を待機させ義士一行の通行を阻止した。[『伊達治家記録』(だてじけきろく)]
- ^ 旧細川藩邸の義士切腹場所には、墓の台座部分(四角い芝台石)と供養塔の残滓(角が丸くなって銘が全く読めなくなった石)と思われる石の集まりが残る。21世紀に入り、遺構と思われる出土品(破損した供物用の皿)が石の下から発掘されている。
- ^ 『堀内伝右衛門覚書』真筆も同時期に散佚し、現存するのは安永7年写しである。
- ^ 危篤状態ということにして後に死亡を届けたのは直弼の場合と同じ(これで改易を回避している)。
- ^ 旧高旧領取調帳データベースでは、誤って熊本藩領の野津原村以下19村が臼杵藩領に分類されている。
出典
- ^ 山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)
- ^ 蓑田勝彦『肥後藩の百姓一揆』より3~10ページ「肥後藩の百姓一揆年表」(熊本大学)
- ^ 青木虹児『百姓一揆の年次的研究』
- ^ 熊本藩史料集成「肥後藩の政治」十四(89ページ)
- ^ 明治3年(1870年)に熊本藩に復帰
- ^ 細川護熙『細川家の700年』(2008年、新潮社)83ページ
- ^ 大谷木醇堂『醇堂叢稿』、『旗本御家人』(200~210頁)。など
- ^ 菊地明『幕末証言 史談会速記録を読む』(2017年)
- ^ 嘉永三(1850)年の尾張屋「高輪辺絵図」の絵図中に「細川越中守中屋敷」の表記
- ^ 「肥後文献叢書」第一巻に「正保元(1644)年に白金の地を増上寺南にあった下屋敷の代地として拝領し、正保三(1646)年に転居した」と記されている。また「その後、延享二(1745)年に火災でこの白金下屋敷が焼失した」とあり。
- ^ 文化遺産データベース 熊本藩主細川家墓所、2023年2月13日閲覧。
- ^ 「熊本藩主細川家の墓に赤い液体 熊本市の国史跡「四つ御廟」 市は被害届を提出へ」熊本日日新聞(熊本日日新聞社)ニュース・話題(2023年2月9日)
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