火消
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江戸の武家火消
江戸時代初期
江戸時代初期の江戸では、火消の制度が定められていなかった。江戸城が火事となった場合には老中・若年寄が大番組・書院番組・鉄砲組などの旗本に命じて消火を行った。江戸市中においては、大名屋敷や旗本屋敷など武家地で火事となった場合は付近の大名・旗本が自身で、長屋・商家など町人地での火事は町人自身が消火を行なうという状態であり、組織的な消防制度は存在しなかった。幕府が慶長18年(1613年)に出した禁令では、町人地の火事に武家奉公人が駆けつけることを禁じており、武家地と町人地を明確に区分する方針であったことも影響している[注釈 3]。
奉書火消
奉書火消(ほうしょびけし)は、寛永6年(1629年)、第3代将軍徳川家光の時代にはじまる火消[3]。
これは火事の際、老中の名で「奉書」を諸大名に送り、召集して消火に当たらせるというものである。この方法は、火事が起きてから奉書を用意して大名に使者を出し、使者を受けて大名が家臣を引き連れ現場に向かうという、迅速さに欠けるものであった。また、駆けつける大名や家臣にしても、常時より消火の訓練を行なっているわけではなく、火事に対して有効な手段とはならなかった。
所々火消
所々火消(しょしょびけし)は、寛永16年(1639年)にはじまる火消。
同年に江戸城本丸が火事となったことを契機に、江戸城内の紅葉山霊廟に対する消防役を、譜代大名の森川重政に命じたことがはじまりである[4]。この所々火消は、後述の大名火消の中で担当場所が定められていたものであり、幕府にとっての重要地を火事から守るため設けられた、専門の火消役であった。
所々火消が定められた場所は元禄年間にかけて増加し、江戸城各所をはじめ、寛永寺・増上寺などの寺社、両国橋・永代橋などの橋梁、本所御米蔵などの蔵を、36大名が担当するようになった[5]。のちに享保7年(1722年)、第8代将軍徳川吉宗により、重要地11箇所をそれぞれ1大名に担当させる方式に改編された。担当場所は、江戸城内の5箇所(紅葉山霊廟・大手方・桜田方・二の丸・吹上)、城外の蔵3箇所(浅草御米蔵・本所御米蔵・本所猿江材木蔵)、寺社3箇所(上野寛永寺・芝増上寺・湯島聖堂)である。江戸城内の最重要地に対する所々火消は譜代大名に命じられ、外様大名が命じられたのは本所御米蔵など江戸城外の施設であった。
大名火消
大名火消(だいみょうびけし)は、寛永20年(1643年)にはじまる火消[注釈 4]。
寛永18年1月29日(1641年3月10日)正月、京橋桶町から発生した火事は、江戸の大半を焼くという大きな被害を出した。この桶町火事に際しては、将軍家光自身が大手門で指揮を取り、奉書により召集した諸大名にも消火活動を行なわせたものの、火勢を食い止めることはできなかった[5]。消火の陣頭指揮を執っていた大目付加賀爪忠澄は煙に巻かれて殉職。消火活動を行っていた相馬藩主相馬義胤が事故で重傷を負った。
幕府は関係役人およびこれまでの奉書火消を担当した大名らを集めて検討した結果、桶町火事より2年後の寛永20年(1643年)、幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して新たな火消役を設けた[注釈 5][7]。従来の奉書火消を制度化したものであり、この火消役は選ばれた大名自らが指揮を取った。1万石につき30人ずつの定員420人を1組とし、1組は10日交代で消火活動を担当した。火事が発生すると火元に近い大名が出動し、武家地・町人地の区別なく消火を行なうとされていた。
大火の場合には従来通り老中から奉書を送り、正式に召集して消火に当たらせた。これはそれまでの奉書火消と区別して増火消(ましびけし)と呼ばれる。
大名火消は火事が起こると、華麗な火事装束に身を包んだ家臣に隊列を組ませ、現場まで行進して消火活動に当たった。大名自らが火事場に向かうこともあってその火事装束は次第に華美で派手なものとなり、たびたび幕府によって規制されている。しかし傾向は変わらず、なかには消火活動中に装束の着替えを3度も行なう大名まであらわれ、そのため大勢の見物人が集まってきたという例もある[8]。
明暦の大火以降
明暦3年(1657年)正月、本郷から発生した火事は、江戸の歴史上最悪の被害となった。明暦の大火(振袖火事)と呼ばれるこの火事のため、江戸城天守閣は焼失し、江戸市中で約68000人ともされる犠牲者を出した[注釈 6]。
明暦の大火により、従来の方法では大火に対処できないことが明らかになったため、以後の江戸幕府は消防制度の確立に力を注いだ。江戸市中の再建では、大名屋敷・旗本屋敷や寺社の一部を郊外に移転させ、延焼を防ぐための火除地を確保した。また、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築を奨励し、火事に強い町づくりを目指した。そして、新たな消防組織である方角火消・定火消を編成している。
方角火消
方角火消(ほうがくびけし)は、明暦3年(1657年)、第4代将軍徳川家綱の時代にはじまる火消。
明暦の大火直後に大名12名を選び、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組で編成した火消役がはじまりである。大名火消の一種で、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たることとなっていた。元禄年間にかけて東西南北の4組に改編され、方角火消と呼ばれるようになった。正徳2年(1712年)、5方角5組に改編。享保元年(1716年)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され、火事の際はそれぞれ大手門・桜田門に集結した。大手組・桜田組への改編後は、主に江戸城の延焼防止を目的として活動し、江戸城内の火事以外では老中の指示を受けてから出動した。消火の主力ではなく、火元から離れた場所で火を防ぐため、防大名(ふせだいみょう)とも呼ばれた。
担当は参勤交代で江戸に滞在中の大名から選ばれ、屋敷では通常より高い火の見櫓の建築が許された[注釈 7]。方角火消や所々火消の定員は大名の石高によって異なっていた。1万石以上では騎馬3-4騎、足軽20人、中間・人足30人。10万石以上では騎馬10騎、足軽80人、中間・人足140-150人。20万石以上で騎馬15-20騎、足軽120-130人、中間・人足250-300人、などである。
定火消
定火消(じょうびけし、江戸中定火之番)は、万治元年(1658年)9月8日に創設された幕府直轄の火消[11][注釈 8]。
明暦の大火の翌年、4000石以上の旗本4名(秋山正房・近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)を選び、それぞれに与力6名・同心30名を付属させて設けられた。幕府直轄の消防組織であり、若年寄の所管、菊間詰の役職であった。
定火消の長は火消役である(先述の知行4,000石以上の旗本)[11]。与力・同心のもとで直接消火活動に従事した者は「臥煙(臥烟)」と呼ばれた[11]。4名の旗本には専用の火消屋敷と火消用具を与え、臥煙(専門の火消人足)を雇う費用として300人扶持を加算した。4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった。この屋敷の配置は、冬に多い北西の風による、江戸城延焼を防ぐためである[12]。それぞれの担当地域で火事が発生すると、出動して武家地・町人地の区別なく消火活動に当たった。定火消は火事場の治安維持も担当し、鉄砲の所持と演習が許可されていた。なお、消火だけでなく緩急あるときは、火消役は配下を率いて、小姓組の背後に付くこととされており戦場でも火事装束を用いることとされていた[11]。
翌年正月の1月4日には、老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なった。これが出初式のはじまりとなり、以降毎年1月4日には上野東照宮で出初が行なわれるようになった[13]。
万治2年・3年にかけて代官町など4箇所、寛文2年(1662年)と元禄8年(1695年)にも日本橋浜町などが追加で設けられ、合わせて15組が江戸城を取りまくように配置された。しかし、宝永元年(1704年)以降は10組(定員1280名)での編成となる[11][注釈 9]。このため、総称して十人屋敷や十人火消などとも呼ばれた[11]。10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池屋敷・赤坂御門外屋敷・飯田町屋敷・市ヶ谷御門外屋敷・小川町屋敷・御茶之水屋敷・半蔵御門外屋敷・駿河台屋敷・八代洲河岸屋敷・四谷御門内屋敷であった[11]。
定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住した。火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、緊急出動用に馬も準備されていた。敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていた。この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝した。夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動した。出動に当たっては火事装束を身につけ、纏番を先頭に立て、騎馬の定火消と与力、続いて同心に臥煙という順番で隊列を組み、火事場に向かった。
享保の改革
江戸時代中期に入り、8代将軍徳川吉宗の時代には、享保の改革が行なわれた。改革では消防制度の見直しも実施され、所々火消・方角火消の改編や火事場見廻役の新設などが行なわれた。さらに、諸大名の自衛消防組織である各自火消に対し、近所の火事へ出動義務を拡大するなど、武家地の消防体制が強化された。町人地の火事に対する大きな改革としては、大岡忠相が主導した、町人の消防組織である町火消の制度化があげられる(後述の町火消を参照)。
各自火消
各自火消(かくじびけし)は、諸大名が自身で組織した火消。
はじまりは自身の大名屋敷を防火・消火するための消防組織であり、早くから存在していた[注釈 10]。天和元年(1681年)ごろから、近所で火事が起きた場合は家来に消火させるよう幕府から指示が出ていたが、享保2年(1717年)、近隣の火事に対する出動が義務付けられ、近所火消(きんじょびけし)とも呼ばれた。翌3年には、上屋敷だけでなく、中屋敷や下屋敷からも出動するように命じられている。定められた出動範囲により三町火消・五町火消・八町火消などの別称もあった[注釈 11]。大名の縁戚の屋敷や菩提寺へ、範囲を越えて駆けつける場合は、見舞火消(みまいびけし)と称したという[16]。
各自火消(大名火消)としては、3組を有した加賀藩前田家の加賀鳶(かがとび、喧嘩鳶)が、その派手な装束と比類ない働きぶりで有名である[17]。加賀鳶の行列は歌川豊国や歌川国芳により浮世絵として描かれた。また、河竹黙阿弥の作で歌舞伎の演目『盲長屋梅加賀鳶』にも登場している。
旗本に対しては、享保7年(1722年)に飛火防組合(とびひふせぎくみあい)65組をつくらせ、組合内での火事へ出動するよう命じている。
幕末にかけての武家火消の活動
享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。
黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった[注釈 12]。
明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。
注釈
- ^ 「火消し」という「し」を付けた表記も幅広く用いられているが、参考文献であげた書籍が基本的に「火消」の表記を採用しているため、本項では冒頭文を除き「火消」に統一する。
- ^ 火事の回数については研究者により差異が存在する。ここでは『江戸の火事』P.3の記述を参考に回数を引用した。
- ^ 火事に紛れての兵乱などが警戒され、治安維持を優先していた[2]。
- ^ 所々火消・方角火消・各自火消などは、この大名火消の一種である。
- ^ 水谷勝隆・伊東祐久・加藤泰興などに命じられている。翌正保元年(1644年)には10家3組に、正保3年には9家3組に、慶安2年(1649年)には10家3組にと編成が変わっていく[6]。
- ^ 犠牲者の数は10万人台との説もあるが、ここでは内閣府防災部門の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」による平成16年3月の報告書[1]の人数をあげた。
- ^ 大名屋敷の火の見櫓建築には制限があり、方角火消では3丈(約9.1m)、それ以外の大名では建築を許された場合でも2丈5尺(約7.6m)までであった[9]。
- ^ 慶安3年(1650年)、4000石以上の旗本2名を火消役に任命したことを定火消のはじまりとする説もある。1658年説-『江戸の火事』『江戸学事典』など、1650年説-『江戸の火事と火消』『新消防雑学事典二訂版』など。
- ^ 定火消削減の理由は、江戸幕府の財政難にある。代わって八王子千人同心に火消役が命じられたが、大きな活動はなくやがて廃止された[14]。
- ^ 米沢藩上杉家の場合、『上杉家年譜』寛永18年(1641年)に火事で老中奉書により出動した記録で「防火士頭」「火消方」などの記述が見られる[15]。
- ^ この場合の「町」は尺貫法の単位であり、1町は約109m。
- ^ 参勤交代が3年に1度・江戸在留期間も100日となり、人質であった大名妻子の帰国も許されたため、江戸藩邸の人員が大幅に減少し火消役を維持できなくなった[18]。
- ^ 店火消に関しては、「何をもって店火消と呼ぶか」「誕生の時期・活動時期はいつか」などで諸説がある。「江戸における店火消の動向」では、店火消に関する研究の不足を指摘したうえで、町火消誕生後も幕末にいたるまで、店火消が江戸の消防に大きな役割を果たしていたとしている。
- ^ 「ひ」が「火」に通じるため避けられたことには異論がないが、他の文字が置き換えられた理由としては、語呂が悪いから・忌み言葉に通じるから・「ん」は元々いろは文字に含まれないから、といった様々な説がある。四番組と七番組が吸収合併された理由も、「四=死」「七=質」に通じるため、など諸説がある。詳細については参考文献や外部リンクを参照。
- ^ このことに関して、山本純美は著書において「本末転倒もはなはだしい」「消防制度誤用の珍しい例」と評している[24]。
- ^ 町火消時代から昭和14年(1939年)までの殉職者118人の名が記されている[25]。
- ^ 寛永通宝など銭貨中央の穴に通して束にするため使用する、細い縄や紐のこと。
- ^ 翌年には諸大名に対しても、火消人足として鳶職人を雇わないようにと命じている。これは、日ごろから町で乱暴を働いたり、火事のときに遺恨のあるものへ報復するなど、鳶を生業とする火消の問題行動が多かったためである[30]。
- ^ 「せ組」の場合、差し出す火消人足281人を、鳶人足70人に代えることが認められている[31]。
- ^ 本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用。
- ^ 『江戸の火事と火消』P.63による。『江戸の火事』P.97では弘化年間に頭取が177人いたとしている。
- ^ 加賀鳶が消火を終えかけたところに、仙石兵庫の組が割り込んだと認められたため。
- ^ こうした興行では、地元の鳶人足であれば入場は自由であったが、このときは地元以外のものを連れて入場しようとしたことが争いの原因である。
- ^ 丸玉は芥子玉で、四角の台は枡をあらわす。また、丸玉は天で、四角の台が地をあらわすという天地陰陽説もある[34]。
出典
- ^ 『江戸の火事と火消』P.23
- ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.95
- ^ 『消防博物館歴史案内』江戸火消編「武家火消の誕生」
- ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.102
- ^ a b c 『元禄武鑑』による。(『江戸学事典』P.577)
- ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.98
- ^ 初回の任命は一組:水谷勝隆、伊東祐久、亀井茲政、松平英親 、二組:加藤泰興、京極高和、秋月種春、松平定房 三組:有馬康純、稲葉紀通、木下俊治、青山幸利 四組:稲葉信通、古田重恒、九鬼久隆、井上正利
- ^ 『江戸の火事と火消』P.49
- ^ 『江戸の火事』P.37
- ^ a b 『江戸消防 創立五十周年記念』P.74
- ^ a b c d e f g 白井和雄. “江戸時代の消防事情5”. 一般財団法人 消防防災科学センター. 2020年8月6日閲覧。
- ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.100
- ^ 『東京の消防百年の歩み』P.21
- ^ 『江戸を知る事典』P.43
- ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.112
- ^ 『江戸の火事』P.39
- ^ 『江戸三火消図鑑』P.196
- ^ 『町火消たちの近代』P.42
- ^ 黒木 1999, p. 68.
- ^ 黒木 1999, pp. 69–70.
- ^ 『江戸の火事』P.82
- ^ 『江戸の火事と火消』P.59
- ^ 『江戸の火事』P.90
- ^ 『江戸の火事と火消』P.93
- ^ 『江戸三火消図鑑』P.225
- ^ 『江戸の火事と火消』P.52
- ^ [https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832 国際日本文化研究センター公式Twitter 蔵書紹介]
- ^ 『町火消たちの近代』P.146
- ^ 『江戸三火消図鑑』P.193
- ^ 『町火消たちの近代』P.18
- ^ 『町火消たちの近代』P.21
- ^ 『江戸の火事』P.98
- ^ 『江戸三火消図鑑』P.197
- ^ 『江戸三火消図鑑』P.198
- 1 火消とは
- 2 火消の概要
- 3 江戸の武家火消
- 4 江戸の町火消
- 5 江戸以外での火消
- 6 脚注
- >> 「火消」を含む用語の索引
- 火消のページへのリンク