澤登正朗
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代表歴
- 1988年 U-20日本代表
- 1989年-1992年 U-23日本代表
- 1993年-2000年 日本代表
- 国際Aマッチ初出場:1993年4月8日 vsタイ戦 FIFAワールドカップ・アジア1次予選 - 第1戦 (神戸)
- 国際Aマッチ初得点:1993年5月7日 vsアラブ首長国連邦 FIFAワールドカップ・アジア1次予選 - 第8戦 (アル・アイン)
背番号
- 10番 1991年-1992年
- 9番 1993年
- 18番 1993年
- 10番 1994年
- 16番 1994年
- 21番 1997年
- 14番 1999年
- 12番 2000年
出場大会など
- 1988年 - AFCユース選手権
- 1991年 - バルセロナオリンピックアジア1次予選
- 1992年 - バルセロナオリンピックアジア最終予選
- 1993年 - カールスバーグカップ(日本代表B)
- 1993年 - 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
- 1994年 - キリンカップサッカー1994
- 1994年 - アジア競技大会
- 1997年 - JOMOカップ
- 1999年 - キリンチャレンジカップ
- 2000年 - カールスバーグカップ
- 2000年 - AFCアジアカップ2000 (予選)
試合数
- U-20日本代表 AFCユース選手権) 6試合 5得点(1988
- U-23日本代表 11試合 3得点(1991-1992 バルセロナ五輪予選)
- 日本代表 国際Aマッチ 16試合 3得点(1993-2000)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1993 | 5 | 1 | 4 | 0 | 9 | 1 |
1994 | 6 | 1 | 0 | 0 | 6 | 1 |
1995 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1996 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1997 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1998 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1999 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
2000 | 4 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 |
通算 | 16 | 3 | 5 | 0 | 21 | 3 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1993年5月7日 | アラブ首長国連邦、アルアイン | アラブ首長国連邦 | 1-1 | 引分 | 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
2 | 1994年10月9日 | 日本、尾道 | ミャンマー | 5-0 | 勝利 | アジア競技大会 |
3 | 2000年2月16日 | マカオ | ブルネイ | 9-0 | 勝利 | AFCアジアカップ2000 (予選) |
- ^ a b “澤登 正朗”. サッカー日本代表データベース
- ^ 契約第1号選手はヤマハから移籍加入した大榎克己。契約第2号選手は日産から移籍加入した長谷川健太。
- ^ 1996年シーズンから2000年シーズンまで清水エスパルスの三代目キャプテンを務めた。
- ^ “クラブ沿革2005年”. “ミスターエスパルス”として親しまれた背番号10のプレーヤー人生は、2005年シーズンをもって幕が下ろされた。. 2017年1月13日閲覧。
- ^ リーグ戦85得点(同一クラブのみでリーグ戦[J1]13シーズン連続得点。)日本プロサッカーリーグ及び、日本サッカー協会主催試合(公式戦)111得点。アジアサッカー連盟主催試合(公式戦)4得点。(Jリーグ開幕前年の1992年から公式戦14年連続得点)
- ^ 2001年シーズンも13得点を挙げ、通算6季の公式戦2桁得点を記録した。
- ^ 1994 FIFAワールドカップ・アジア最終予選メンバーの中で唯一の1970年代生まれ。
- ^ 『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』42頁
- ^ 『王国が紡ぐ「黄金の歴史」静岡の高校サッカー』 51頁
- ^ 初出場、無失点優勝は全国高校サッカー選手権において未だ破られていない記録である。
- ^ a b c 『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁
- ^ 『王国が紡ぐ「黄金の歴史」静岡の高校サッカー』 52頁
- ^ 入学する前年・前々年(共に準優勝)を合わせると6年連続出場。入学した1988年の第37回大会で東海大学が初優勝を飾った。
- ^ チーム発足時は1969年1月1日生まれ以降の選手が招集されたが、五輪出場の年齢制限が同年8月1日生まれ以降に変更となると、 同級生であった礒貝洋光、森山泰行、菊原志郎等がメンバー外となった。
- ^ 最終予選では、1次予選で4試合先発出場した藤田俊哉と、1得点をマークした仲村浩二が中盤のメンバーから外れ、新たに永井秀樹、名波浩がチームに加った。
- ^ 1996年のJリーグカップ決勝では共にアシストを記録し、初優勝に貢献した。
- ^ 最終予選では2歳年下(3学年下)の山田隆裕が参加を辞退したため、日本代表(ドーハ組)の最年少選手となった。
- ^ “スポーツ報知”. ラモスと武田“ドーハの悲劇”敗戦の原因めぐりバトル 2018年5月8日閲覧。
- ^ “試合詳細レポート・キリンカップサッカー94”. 2017年1月13日閲覧。
- ^ 1994年7月に行われたアシックスカップ(2試合)は右ひざ挫傷のため不参加となった。この大会は澤登が不在のため日本代表に背番号10番の選手は居らず、大会終了後のアジア大会のメンバー選考では、怪我の澤登に代わって、6番の岩本輝雄が新たに10番に登録された。澤登は代表に復帰後再びスタメンに名を連ね、岩本が控えに回る試合もあったが、背番号は10番ではなくアジア大会で登録された16番を付けてプレーした。
- ^ カタール戦(第2戦)は足痛により欠場した。
- ^ 加茂周監督就任後の初合宿では、アジア大会の代表メンバーからは岩本輝雄らと共に招集外となった。
- ^ 代表から離れている期間もリーグ戦では活躍し、1995年~1997年のJリーグ得点率(MF)は100試合33得点の得点率「0.330」と日本人選手で1位であった。
- ^ 1996年から2000年にかけて清水のキャプテンとしてチームを引っ張り、気迫あるプレーでチームを鼓舞。経営破綻によるクラブ消滅危機を乗り越え、チーム最多得点や、タイトル獲得に貢献する等の成績を残し、「ミスター・エスパルス」と称された。
- ^ “SANSPO.COM(サンスポ)”. 収穫だった本田1トップ (3/3ページ)私も清水監督時代にMF沢登をトップで起用し、起爆剤になったことがある。 2016年10月13日閲覧。
- ^ 最終節のサンフレッチェ広島戦では、ルーキーの岡崎慎司がベンチ入りし、リーグ戦初出場を果たした。
- ^ 天皇杯を含めシーズン終了まで練習には参加していた。
- ^ J創設からの13年連続ゴールを記録したプレーヤーとしては、他に三浦知良がいるが、三浦は途中で移籍を挟んでおり、また国外移籍によってJリーグに不在の時期がある。また、中山雅史は15年連続ゴールを達成しているが、中山が所属したジュビロ磐田は1994年からのJリーグ加盟であり、創設からの連続ゴールではない。移籍を挟み、かつ1994年からの13年連続ゴールとして、他に藤田俊哉がいる。
- ^ J創設時から一度も移籍することなく10年以上同じチームでプレイしたのは、澤登以外には鹿島アントラーズの本田泰人、浦和レッズの福田正博、東京ヴェルディ1969の北澤豪、横浜F・マリノスの永山邦夫がいた。
- ^ 『澤登正朗氏 サッカー部新監督就任会見が行われました』(プレスリリース)常葉大学、2013年1月30日 。2014年10月18日閲覧。
- ^ 『澤登 正朗氏 ユース監督就任のお知らせ』(プレスリリース)清水エスパルス、2022年1月15日 。2022年1月15日閲覧。
- ^ J1リーグ戦のプレースキックの得点は20得点(直接CK PK含む)。リーグ戦以外にもカップ戦やチャンピオンシップ等での得点があった。また、Jリーグの公式記録としては残っていないがFKやCKから数多くのアシストをマークした。
- ^ “J1開幕戦ゴールランキング”. 2017年1月13日閲覧。
- ^ 「私が選ぶベストイレブン」2013年5月9日付信濃毎日新聞(スポーツ)※記事の漢字表記は「沢登」
- ^ “J’s GOALアーカイブ”. 【澤登正朗 引退試合】試合後の出場選手コメント 2017年2月18日閲覧。
- ^ 引退後に出演したTBS、『スーパーサッカープラス』内での発言[出典無効]。
- ^ “J. League Data Site”. 92Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝. 2017年1月13日閲覧。
- ^ “【J1データ 背番でGO<10>】沢登380試合 藤田と静岡ワンツー”. スポニチアネックス (2020年6月21日). 2020年6月22日閲覧。
- ^ a b c “ライブドアニュース”. 1993~2004年日本最強キッカー史、Jリーグ選定「伝説FKトップ10」 2018年8月26日閲覧。
- ^ この試合は、Jクロニクルベスト -ベストマッチ第3位に選ばれたほか、「ヒストリー・オブ・エスパルス 1992-2002(オフィシャルDVD)」のサポーターが選んだ 清水エスパルスベストマッチ第1位に選ばれた。
- ^ “SPORTS COMMUNICATIONS”. 第1回「FKは空気穴を蹴る」中村俊輔(横浜F・マリノス) 2009年6月14日閲覧。
- ^ 名波浩(背番号7)も出場予定だったが、実母の死去により欠場した。
- ^ オフィシャル発表された背番号は18番であったが、試合当日、ラモスの計らいで「JAPAN ALL STARS」の背番号10番を譲り受ける。また、カズからキャプテンマークも譲り受けた。
- ^ 名波と中田は後半ザ・ミイラの選手として出場。
- ^ “『サカつくシュート!』レジェンド選手11人発表”. セガネットワークス. 2014年12月26日閲覧。
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