漢 歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 03:59 UTC 版)

歴史

漢(前漢)

紀元前202年に中国を統一した初代皇帝である劉邦(高祖)が紀元前195年に没したのち、しばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握ったものの、紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位した5代文帝および6代景帝文景の治と呼ばれる優れた統治を行い民力の休養に努めたため、漢の国力は伸長した。また、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が呉楚七国の乱と呼ばれる大反乱を起こしたが半年で鎮定され、これによって諸侯の勢力は大きく削られて中央政府の権力が強大化した。その後即位した7代武帝はこの充実した国力を背景に隣接地域に積極的な出兵を行い、北方の遊牧大勢力であった匈奴を破り、南越を併合し西域諸国を服属させて漢の全盛期を現出した。しかしこうした軍事行動は漢の財政を圧迫し、国力はこのころから下り坂に向かった。10代宣帝は前漢の中興の祖とたたえられる名君であり、この時期に国力は一時回復したものの、その後は衰退が進み、外戚王莽が8年に簒奪を行って王朝を建国し、漢王朝はいったん滅びた。

後漢

漢王朝は滅びたものの、王莽の政治は時代錯誤的なものが多く、社会にはなはだしい混乱を招いた。各地に群雄が割拠する中、新王朝は漢王家の劉家一族である更始帝によって打倒された。その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興した。この王朝のことを後漢と呼ぶ。後漢は2代明帝、3代章帝といった名君が続いて国力を回復させ、班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出したが、その後は皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官外戚が国政を壟断するようになって国力は低下していった。そして184年に起こった黄巾の乱によって漢の統治力は大きく減退し、董卓の暴政とその董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝に実権は全くなくなり、以後は各地に群雄が割拠する中で曹操の庇護の下、細々と名目のみ存続する状態となった。やがて各地の群雄は華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、三国鼎立の様相を呈するようになった。220年に曹操が死去すると、後継者である曹丕は後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに王朝を建国して、ここに漢王朝は滅亡した。

漢朝歴代皇帝

漢朝皇帝世系図

※代数は前後を合わす。また太字以外の皇帝は歴代に含めない場合もある。

名前 在位
(前漢)―
1 太祖高帝 紀元前206年 - 紀元前195年
2 恵帝 紀元前195年 - 紀元前188年
3 前少帝 紀元前188年 - 紀元前184年
4 後少帝 紀元前184年 - 紀元前180年
5 太宗文帝 紀元前180年 - 紀元前157年
6 景帝 紀元前157年 - 紀元前141年
7 世宗武帝 紀元前141年 - 紀元前87年
8 昭帝 紀元前87年 - 紀元前74年
9 昌邑王(海昏侯) 紀元前74年
10 中宗宣帝 紀元前74年 - 紀元前49年
11 高宗元帝 紀元前49年 - 紀元前33年
12 統宗成帝 紀元前33年 - 紀元前7年
13 哀帝 紀元前7年 - 紀元前1年
14 元宗平帝 紀元前1年 - 5年
新末後漢初
15 武順王更始帝 23年 - 25年
後漢
16 世祖光武帝 25年 - 57年
17 顕宗明帝 57年 - 75年
18 粛宗章帝 75年 - 88年
19 穆宗和帝 88年 - 105年
20 殤帝 105年 - 106年
21 恭宗安帝 106年 - 125年
22 少帝懿 125年
23 敬宗順帝 125年 - 144年
24 沖帝 144年 - 145年
25 質帝 145年 - 146年
26 威宗桓帝 146年 - 167年
27 度宗霊帝 167年 - 189年
28 少帝弁 189年
29 献帝 189年 - 220年

注釈

  1. ^ 西方の世界へは「秦」の名が伝わり用いられた。

出典

  1. ^ Taagepera, Rein (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 115–138. doi:10.1017/S014555320002294X. JSTOR 1170959. 
  2. ^ Nishijima (1986), pp. 595–596.
  3. ^ 三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』東方書店、2002年6月、60頁。 
  4. ^ 藤田豊八南漢劉氏の祖先につきて」『東洋学報 6(2)』、東洋文庫、1916年5月、247-257頁。 
  5. ^ 陳寅恪 (1939年). “劉復愚遺文中年月及其不祀祖問題” (PDF). 歷史語言研究所集刊第八本第一分 (中央研究院歴史語言研究所). オリジナルの2022年2月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220223112641/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4878HxvVMRs.pdf. "近年桑原騭藏教授《蒲壽庚事跡考》及藤田豐八教授《南漢劉氏祖先考》(見《東西交涉史之研究南海篇》),皆引朱彧《萍州可談》貳所載北宋元祐間廣州番坊劉姓人娶宗室女事,以證伊斯蘭教徒多姓劉者,其說誠是。但藤田氏以劉為伊斯蘭教徒習用名字之音譯,固不可信,而桑原氏以廣州通商回教徒之劉氏實南漢之賜姓,今若以復愚之例觀之,其說亦非是。鄙見劉與李俱漢唐兩朝之國姓,外國人之改華姓者,往往喜採用之,復愚及其它伊斯蘭教徒之多以劉為姓者,殆以此故歟? 關於復愚氏族疑非出自華夏一問題,尚可從其文章體制及論說主張諸方面推測,但以此類事證多不甚適切,故悉不置論,謹就其以劉為氏,而家世無九品之官,四海無強大之親,父子俱以儒學進仕至中書舍人禮部尚書,而不祭祀先祖,及籍貫紛歧,而俱賈胡(註:通商的胡人)僑寄之地三端,推證之如此。" 






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