源頼朝 人物

源頼朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/02 02:01 UTC 版)

人物

容姿

平治物語』は「年齢より大人びている」とし、平治物語絵巻断簡には頼朝と見られる若武者の姿が残る。『源平盛衰記』は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。寿永2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として『平家物語』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある。九条兼実の日記『玉葉』は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いている。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチメートル前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。

肖像は知名度の割には少なく、大半が近世になってからの作品である[注釈 48]。『吾妻鏡』には、宝治合戦の際に三浦泰村が北山の法華堂に立て篭もり、「絵像御影御前」で往時を談じたという記述があるが、この画像やこれを祖形とする作品は現存しない。京都神護寺蔵の肖像画(神護寺三像)は、頼朝を描いたものとして伝わり、大和絵肖像画の傑作として国宝に指定されている。平成7年(1995年)に米倉迪夫が、その画法や服装から足利直義を写した物とする学説を発表すると、像主について議論が続いている(詳細は「神護寺三像」を参照)。鶴岡八幡宮の白山明神に伝わっていた狩衣姿の木像は、江戸時代には頼朝像とされ、明治初期に流出し原三溪の手を経て、現在は東京国立博物館(東博)が蔵して重要文化財に指定されている[45]甲府市善光寺の甲斐善光寺所蔵の木造源頼朝坐像は、戦国期武田信玄によって甲斐善光寺が創建された際に信濃善光寺から移されたもので、胎内銘から文保3年(1319年)もしくは文永5年(1268年)の作であるされる。胎内銘には政子の命で作られたことや頼朝の命日が記されていることから、現存最古の頼朝像であると考えられている[46]。頼朝の実像を最もよく表しているとして中学・高校の教科書に掲載されるなど評価が高まっている(後述)ものの傷みがひどかったため、令和2年(2020年)5月より修復作業が開始され[46]、翌令和3年(2021年)3月を以って修復が完了した[47]

歴史学者の黒田日出男は、源頼朝を表したとされる肖像を整理・検討後、次のように結論づけている。東博蔵・伝源頼朝像は、建長寺にある北条時頼[48]と比較、やや技巧が硬い部分があるが、面貌表現や大きさに到るまで瓜二つであり、また後に狩衣には本来ない平緒や石帯を取り付け、将軍の正装である束帯姿に改造された形跡があることから、本来は建長寺の像を元に北条時頼像として14世紀の鎌倉時代末期に作られたが、後に失われた源頼朝像の代わりとして束帯姿に改造された上で、白山明神に置かれたとしている。一方、甲斐善光寺の源頼朝像を、胎内の銘文を造像銘ではなく修理銘として読み解き、13世紀第1四半期に北条政子の発願で作られた史料上明らかな唯一の源頼朝像であり、2度の火災で頭部だけが当時の姿で残り、体は鎌倉末期の修理の際に補作されたという論考を発表している[49]

こうした研究状況を反映して、現在の小中高教科書でも3作品が並行して用いられている。小学校では保存状態の良い東博像が掲載される傾向があり、甲斐善光寺本の掲載例はない。中学校では、いまだに神護寺本が多く採用されている。高等学校では、比較的早い段階で神護寺本の掲載をやめ、東博本や甲斐善光寺本に変更するなど研究成果を敏感に反映させているものの、頼朝像の掲載自体をなくしたり神護寺本を使い続ける出版社もあり、研究動向の混迷がそのまま肖像の掲載に現れている。ただし、神護寺像を掲載する教科書は減少傾向にある[50]


注釈

  1. ^ 足利直義説もある。「神護寺三像#研究史」を参照。
  2. ^ 『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
  3. ^ 『尾張志』には尾張幡屋で生まれたことから幡屋武者王といったともある。
  4. ^ 尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
  5. ^ 系図纂要』にも尾張幡屋で生まれたことから幡屋武者王といったとある。
  6. ^ 平家物語』(剣巻)に「兵衛佐頼朝は、末代の源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。」とある。
  7. ^ この時点での清和源氏、河内源氏全体を統括する嫡流の棟梁というものは存在せず、義朝以外の各源氏の武士たちは義朝の意思とは関係ない独立した立場の武士として活動していた[1]
  8. ^ 坊門信隆吉田経房らとともに務めている。[3]
  9. ^ これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで長く「佐殿(すけどの)」と称された。又『吾妻鏡』でも元暦二年に従二位に昇叙するまで兵衛府の唐名である「武衛」で記述されている。
  10. ^ 『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・平家盛に頼朝が似ていることから清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている
  11. ^ 摂津源氏源仲綱が伊豆守だったとの説もある。
  12. ^ 頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・朝長を亡くす。父・義朝は尾張国野間長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後に関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。
  13. ^ 池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする説もある[7]
  14. ^ また流刑当初は最初に工藤祐継、祐継死後はその弟の伊東祐親預かりの身柄となり伊東に住まわされていて、後に北条預かりとなり中伊豆に行ったと見る説もある[8]
  15. ^ 『吾妻鏡』治承4年8月24日条には、石橋山の戦いに敗れ落ち延びる途中で数珠を落とした頼朝が、その数珠は狩場に来た相模国の武士の多くが見知ったものであることを危惧している。
  16. ^ 時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。
  17. ^ 北条時政の最初の正室は伊東祐親の娘とも妹ともされ、義時は彼女の子とされる。政子の生母は不明であるが、政子も義時と母親が同じであった場合、伊東祐親の立場からすれば頼朝に娘と孫(あるいは姪)の二股をかけられたことになる。
  18. ^ 保立は『吾妻鏡』『曾我物語』などに生じている矛盾を整理して、北条政子との婚姻を安元元年(1175年)夏以前、大姫の誕生を安元2年(1176年)3月とするとともに、頼朝と八重姫の婚姻は伊東祐親自身の意向であったが、頼朝が政子との婚姻を通じて北条氏とも関係を持ったことを知った祐親が一種の「うわなり打ち」として頼朝襲撃に及んだとする説を唱えている[10]
  19. ^ a b 『吾妻鏡』治承4年6月27日条には「三浦の次郎義澄・千葉の六郎大夫胤頼等北條に参向す。日来京都に祗候す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、 官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。」とある。
  20. ^ この挙兵決意には都の三善康信の知らせや[11]、京より下った三浦義澄千葉胤頼らの言葉があったとも言われている[注釈 19]
  21. ^ なお、平家側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で、頼朝が狙われていたというのは誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場となった頼政の家人で在庁官人の工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている[12]
  22. ^ 以仁王の乱を受けて、伊豆国の知行国主が源頼政(伊豆守は息子の源仲綱)から平時忠(伊豆守は猶子の平時兼)に交替したのは治承4年6月29日で、時忠から目代に任じられた兼隆が頼朝に討たれたのはそれからわずか47日後のことであるため、兼隆が襲撃されたのは目代任命以前より頼朝と同じく中央から下ってきた流人として頼朝と勢力争いを続けた(頼朝の背後に北条時政がいたように、兼隆にも同じ田方郡堤信遠が背後にいた)ことが背景にあったとする見方もある[13]
  23. ^ 『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝えた。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らしたことを頻りに後悔した。当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。
  24. ^ 従った者は北条義時工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであった。
  25. ^ 『吾妻鏡』には次のような逸話がある。平家方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。
  26. ^ 『吾妻鏡』によると9月8日に北条時政を甲斐源氏武田信義に加勢を要請すべく甲斐へ派遣したとあるが、延慶本『平家物語』によると時政は安房へは向かわず石橋山敗戦の直後に直接、甲斐国に向かっている。
  27. ^ なお、『吾妻鏡』によると8月29日の安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は、最初に幼少時仕えていた安西景益に御書を送り、9月3日、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、先に安房国に渡っていた三浦義澄が察知して撃退する。翌4日一族および在庁官人を率いて参じた景益の進言に従い、和田義盛を広常の許に、安達盛長を常胤の許に使者として遣わし、洲崎明神に参詣して御願書を奉じる。9日盛長が千葉より帰参すると、丸御厨を巡検し伊勢太神宮への御願書を書き、洲崎明神に寄進状を送った後、13日に上総国に赴く。その際千葉常胤の加勢を得、下総国で常胤の嫡孫成胤が、同13日に平家に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る(結城浜の戦い)。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、当初は日和見を決め込んでいた上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させたとされている。だが、この広常の日和見に関しては現在疑問を抱く学説が提示されており、広常は当初から頼朝方として行動していたと考えられている(野口実『源氏と坂東武士』)。また、頼朝の房総での動向については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』などに細部にわたる異説があり、定説はない。
  28. ^ 『吾妻鏡』によると9月29日にいつまでも帰服をしない江戸重長の謀殺を葛西清重に命じるが清重はこれを辞退したと推測される[20]。その後、10月4日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長が頼朝に従うと、彼らによって惣領三浦義明を討たれた三浦氏一族を頼朝が説得して、三浦・秩父両一族を和解させた。頼朝の手による相模の有力武士団である三浦氏と武蔵の有力武士団である秩父氏の和解は鎌倉を安定させる上で重要な意味合いを持った[21]
  29. ^ 後に大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移し、父義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立落成が1180年に行われた。
  30. ^ 反乱軍の主力は駿河を制圧した甲斐源氏であり、頼朝は黄瀬川に駐留して形勢を観望していたという説もある[22]
  31. ^ その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残らば骸を頼朝の前にさらすべし」であったという[24]。清盛の死去に対して頼朝は「天罰をかうむり了はんぬ、仏神の加被ひとへに我が身に在り、士卒の心いよいよ相励むべし」と豪語し、東国の結束は一層強まったという[25]
  32. ^ 政子の安産祈願のために、鶴岡八幡宮の参道を御家人らと共に自ら手で築き、また、伊豆山権現土肥遠平筥根権現佐野基綱相模一宮に梶原景高、三浦十二天佐原義連武蔵六所宮に葛西清重、常陸鹿島神宮に小栗重成、上総一宮に上総良常、下総香取神宮に千葉成胤、安房東條庤明神三浦義村、同国洲崎明神に安西景益を祈祷のため奉幣使として遣わした[9]
  33. ^ 常陸においては佐竹氏が未だに反抗していたとの見方もある。詳細は「金砂城の戦い」参照。
  34. ^ 『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景岡崎義実を使者として返す。行家か義仲の嫡男義高を人質として差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。
  35. ^ 頼朝は、範頼らの入京にあたって軍に充分な食糧を携行させ、また略奪や狼藉行為を堅く禁じていたため、義仲軍上洛時のような混乱は生じなかった。
  36. ^ 頼朝は平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平家都落ちの際に奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている[9]
  37. ^ なお、このとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。この任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。義経が西国攻めを任されなかった理由には、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上、西国に出兵させることができなかった[29]、一ノ谷の戦い直後に伊勢伊賀で平氏の残党勢力が反乱を起こしたために出撃できなかった[30]等の説が提示されている。
  38. ^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり[31]屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平家の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平家滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある[32]
  39. ^ それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたという[9]
  40. ^ 無断任官者は兵衛尉義廉、佐藤忠信師岡重経渋谷重助、小河馬允、後藤基清、馬允有経、梶原友景、梶原景貞、梶原景高、中村時経、海老名季綱、馬允能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、平子有長、平山季重梶原景季、縫殿助、宮内丞舒国、山内首藤経俊八田知家小山朝政ら24名。
  41. ^ この事件は、義経との関連で論じられることが多いが、「自由任官の禁止」(従者・郎党を持つ権門であればこうした規制は一般的であった)、「成功の重視」(鎌倉幕府が官職を推挙する際には朝廷への成功を果たした者から推挙する)、「任官後の在京勤務励行」(朝幕関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持のバランスを重視する。なお、この方針により翌年2月2日に配下の御家人の任官返上を朝廷に申し出ている[9])という、鎌倉幕府の朝廷官職に対する基本政策が示された点が重要である[33]
  42. ^ 延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面、慰安されたのち鎌倉の外れで待機したという。『愚管抄』にも義経は鎌倉の館に赴き、京に戻ってきた頃から頼朝に背く心を抱いたとある。
  43. ^ 土佐坊昌俊の派遣および襲撃は『吾妻鏡』『平家物語』に記載されている。『玉葉』では、17日深夜に頼朝郎従の武蔵国住人児玉党30余騎が中人の報告を受けて義経を襲撃するが、行家が救援に駆け付けてこれを撃退したとある。
  44. ^ 義経が院宣を最初に申請したのは、『吾妻鏡』では10月13日、『玉葉』では16日となっていて、17日の土佐坊による襲撃よりも前のことになっている。これに関して河内祥輔は義経が事前に土佐坊の襲撃の情報を入手して院宣を申請し、17日の襲撃では最初から迎撃の態勢を取っていたとする[34]。一方、菱沼一憲は土佐坊を頼朝が派遣した刺客だとするのは義経による朝廷への一方的な主張のみで、『吾妻鏡』『平家物語』が記す頼朝が土佐坊を派遣した経緯を証明する同時代史料はなく、創作された可能性もあるとして、頼朝との対立を深めた義経が先に院宣を得ようとしたところ、在京や畿内周辺の御家人が動揺して頼朝を支持する土佐坊らが義経暗殺を計画したもので、頼朝は少なくともこの襲撃事件には関与していなかったとする[35]
  45. ^ その頃、鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。
  46. ^ 法皇が高階泰経を通じて出した弁明の使者は11月15日に鎌倉に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、一条能保の屋敷に行って鎌倉殿宛の書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それは「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げで、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼすと、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。
  47. ^ 狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出す。「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。
  48. ^ 頼朝の肖像については、『[特別展]没後八〇〇年記念 源頼朝とゆかりの寺社の名宝』展図録[44]に、不出品作も参考図を付け、網羅的に掲載・解説がされている。
  49. ^ 例えば、元暦元年(1184年)6月に受領に任じられた三河守源範頼ら3名[53]、同じく文治元年(1185年)8月に受領に任じられた伊予守源義経ら6名[54]は、いずれも頼朝の戦功と引き換えに、その推挙によって任じられた清和源氏の一族であった[55]

出典

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