源頼政 源頼政の概要

源頼政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/25 07:37 UTC 版)

 
源 頼政
源三位頼政像(MOA美術館蔵)
時代 平安時代末期
生誕 長治元年(1104年
死没 治承4年5月26日1180年6月20日
改名 頼政→真蓮(法名)→頼円
別名 源三位、源三位入道、入道三品
三品禅門、馬場頼政
戒名 蓮華寺建法澤山頼圓
墓所 京都府宇治市宇治蓮華の平等院最勝院
岐阜県関市植野の蓮華寺(首塚)ほか
官位 従三位蔵人右京権大夫兵庫頭伊豆
備後権守
氏族 清和源氏頼光流摂津源氏
父母 父:源仲政、母:藤原友実の娘
兄弟 頼政頼行光重、泰政、良智、乗智
法性寺殿三河、皇后宮美濃、藤原経定
源斉頼女(正確には孫娘)、菖蒲御前ほか
仲綱頼兼広綱、頼尊、散尊、二条院讃岐藤原重頼室)、藤原隆保室、藤原憲定室
村上経業室ほか
養子:国政兼綱仲家宗頼政綱
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保元の乱平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され推挙により、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。

しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。


注釈

  1. ^ 『平家物語』「御輿振」は安元の強訴で頼政が縫殿の陣(朔平門)を守ったとするが、九条兼実は「神輿を射る事、武士の不覚なり。先年成親卿の事に依り、大衆参陣の時、左衛門の陣方、頼政これを禦ぐと雖も、大衆軍陣を敗る能はず、又濫吹を出さず、事の謂はれその人勢今度の万分の一に及ぶべからず」[2]と記している。これにより頼政が、嘉応元年(1169年)の嘉応の強訴で左衛門の陣(建春門の付近)を守っていたことが確認できる。一方、『玉葉』を見る限り頼政が安元の強訴に出動していたかは定かでなく、「御輿振」のエピソードは嘉応の強訴での活躍を元にした創作の可能性がある。
  2. ^ 『平家物語』では、享年74とする。
  3. ^ 野口実『武門源氏の血脈』(中央公論新社、2012年)や呉座勇一が唱えている。

出典

  1. ^ 元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』(日本放送出版協会、2004年)
  2. ^ 『玉葉』4月19日条
  3. ^ 上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』講談社、1973年。
  4. ^ a b 上杉和彦 2007, p. 24–25.
  5. ^ 関幸彦 2004, p. 44.
  6. ^ 河内祥輔 2007, p. 189–198, 204–207.
  7. ^ 石川忠久『漢詩人 大正天皇 - その風雅の心』(大修館書店、2009年)p.95
  8. ^ 源平合戦の幕開け! なぜ以仁王と源頼政は挙兵するに至ったのか?”. 現代ビジネス (2022年1月24日). 2022年1月24日閲覧。
  9. ^ 源氏あやめ祭”. 伊豆の国市. 2012年2月22日閲覧。
  10. ^ 校区の概要・学校の沿革”. 東広島市立原小学校. 2012年2月22日閲覧。
  11. ^ 『公式観光ガイド 東広島ちょこっと旅』 (公益社団法人東広島市観光協会 2017年) 19頁、47頁


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