源頼政
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源三位頼政像(MOA美術館蔵) | |
時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 長治元年(1104年) |
死没 | 治承4年5月26日(1180年6月20日) |
改名 | 頼政→真蓮(法名)→頼円 |
別名 |
源三位、源三位入道、入道三品 三品禅門、馬場頼政 |
戒名 | 蓮華寺建法澤山頼圓 |
墓所 |
京都府宇治市宇治蓮華の平等院最勝院 岐阜県関市植野の蓮華寺(首塚)ほか |
官位 |
従三位、蔵人、右京権大夫、兵庫頭、伊豆守 備後権守 |
氏族 | 清和源氏頼光流(摂津源氏) |
父母 | 父:源仲政、母:藤原友実の娘 |
兄弟 |
頼政、頼行、光重、泰政、良智、乗智 法性寺殿三河、皇后宮美濃、藤原経定室 |
妻 | 源斉頼女(正確には孫娘)、菖蒲御前ほか |
子 |
仲綱、頼兼、広綱、頼尊、散尊、二条院讃岐(藤原重頼室)、藤原隆保室、藤原憲定室 村上経業室ほか 養子:国政、兼綱、仲家、宗頼、政綱 |
保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され推挙により、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。
しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。
注釈
- ^ 『平家物語』「御輿振」は安元の強訴で頼政が縫殿の陣(朔平門)を守ったとするが、九条兼実は「神輿を射る事、武士の不覚なり。先年成親卿の事に依り、大衆参陣の時、左衛門の陣方、頼政これを禦ぐと雖も、大衆軍陣を敗る能はず、又濫吹を出さず、事の謂はれその人勢今度の万分の一に及ぶべからず」[2]と記している。これにより頼政が、嘉応元年(1169年)の嘉応の強訴で左衛門の陣(建春門の付近)を守っていたことが確認できる。一方、『玉葉』を見る限り頼政が安元の強訴に出動していたかは定かでなく、「御輿振」のエピソードは嘉応の強訴での活躍を元にした創作の可能性がある。
- ^ 『平家物語』では、享年74とする。
- ^ 野口実『武門源氏の血脈』(中央公論新社、2012年)や呉座勇一が唱えている。
出典
- ^ 元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』(日本放送出版協会、2004年)
- ^ 『玉葉』4月19日条
- ^ 上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』講談社、1973年。
- ^ a b 上杉和彦 2007, p. 24–25.
- ^ 関幸彦 2004, p. 44.
- ^ 河内祥輔 2007, p. 189–198, 204–207.
- ^ 石川忠久『漢詩人 大正天皇 - その風雅の心』(大修館書店、2009年)p.95
- ^ “源平合戦の幕開け! なぜ以仁王と源頼政は挙兵するに至ったのか?”. 現代ビジネス (2022年1月24日). 2022年1月24日閲覧。
- ^ “源氏あやめ祭”. 伊豆の国市. 2012年2月22日閲覧。
- ^ “校区の概要・学校の沿革”. 東広島市立原小学校. 2012年2月22日閲覧。
- ^ 『公式観光ガイド 東広島ちょこっと旅』 (公益社団法人東広島市観光協会 2017年) 19頁、47頁
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