渋沢栄一 名前

渋沢栄一

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名前

幼名は市三郎、栄二郎[21]、栄次郎もしくは栄治郎。のちに美雄、栄一郎、仁栄、篤太夫、篤太郎などと名乗る。栄一の読みが「ひでかず」とされることもある[22]。尾高惇忠から青淵の号をもらい、生涯用いた。

人物と思想

議員活動と政治との関わり

渋沢 栄一
(澁澤 榮一)
しぶさわ えいいち
生年月日 1840年3月16日
出生地 日本武蔵国榛沢郡血洗島村
(現・埼玉県深谷市血洗島)
没年月日 (1931-11-11) 1931年11月11日(91歳没)
称号 正二位
帝都復興記念章
紺綬褒章
従二位
旭日桐花大綬章
正三位
旭日大綬章
大礼記念章
一等嘉禾章
勲一等瑞宝章
従三位
勲三等瑞宝章
正四位
王冠第三等勲章
勲四等瑞宝章
金製黄綬褒章
従四位
正五位
従五位
正六位
従六位
正七位
配偶者 渋沢千代
渋沢兼子
子女 長女・穂積歌子
次女・阪谷琴子
次男・渋沢篤二
五男・渋沢武之助
六男・渋沢正雄
七男・渋沢秀雄
養子・渋沢平九郎
親族 娘婿・穂積陳重(枢密院議長)
娘婿・阪谷芳郎(大蔵大臣)
娘婿・大川平三郎(貴族院議員)
孫・穂積重遠(貴族院議員)
孫・穂積真六郎(参議院議員)
孫・阪谷希一(貴族院議員)
孫・渋沢敬三(大蔵大臣)
孫婿・石黒忠篤(農商大臣)
孫婿・中村貫之(貴族院議員)
孫婿・壬生基泰(貴族院議員)
来孫・橋本岳(衆議院議員)

在任期間 1890年9月29日 - 1891年10月29日

深川区会議長

深川区会議員
在任期間 1889年 - 1904年
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明治9年(1876年)、居宅を深川区福住町に定め、その後の転居後もここを終生本籍地としており、明治22年(1889年)から同37年(1904年)の15年間にわたり深川区会議員と区会議長を務め、地域の発展に深く意を用いた。

日本で初めての国会開催に先立つ明治23年(1890年)7月の第一回衆議院議員選挙では、栄一本人は立候補していなかったものの人気は高く、東京5区(本所区、深川区)にて94有効票を獲得し、次点となった[23]。一方で、同年9月29日には勅選で貴族院議員に選ばれる事となり[24]、同年12月15日の第1回帝国議会には貴族院議員として貴族院本会議に出席した。しかし、以降は一切議会には出席せず、翌年明治24年(1891年)10月29日[25] には辞任している。

明治34年(1901年)5月16日、旧知の井上馨組閣の大命が下った際には、真っ先に大蔵大臣としての入閣を求められたが、これも辞退している[26]。断られた井上は、栄一が蔵相でなければ首相を引き受ける自信がないとして直ちに大命を拝辞、井上内閣は幻に終わっている。

龍門社

明治19年(1886年)、深川福住町の渋沢邸に寄宿し栄一に私淑する青年達が勉学に努め、成果を発表する場として龍門社が結成されたがやがて栄一の思想に賛同し、栄一を慕う経営者や企業幹部が加入し、昭和初期には数千名の会員組織となった[27]

財閥解体と「渋沢財閥」

栄一は事業活動においても、広く国民全体が豊かになる事を希求し、一部特定の人々の利益を求める閥を成すことを嫌った。「渋沢財閥」という語が使われる事があるが、これは、栄一が死後の一族の財産争いを避けるため、渋沢同族会の資産管理会社として、実業界引退後の大正4年(1915年)に設立した渋沢同族株式会社を、太平洋戦争後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体施策の中で、財閥の持株会社として誤認指定した事によるもの。その持株比率の実体は、家業として経営していた渋沢倉庫株の26%以外は、第一銀行株でも3%、他も数パーセントの保有に過ぎず、財閥と言われるようなものではなかった。

合本主義

公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させるという考え方。広く資本を糾合するという事から、狭義には株式会社制度の意に使われるが、栄一は私益のための資本の集中では無く、公益の追求、より良い社会の実現のために、資本や人材を合わせる事の重要性を説いたものと解される。

道徳経済合一説

栄一は大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益(=算盤)の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。

富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。[28]

そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。

金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようとするものはいたずらに現世に糞土の牆を築いているだけである。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。[29]

幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩藩政改革にあたった陽明学者山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。

外国排斥論者から親米派へ

英国アヘン戦争により中国を侵略し、香港を割取したことを書いた「清英近世談」を壮年期に読み、中国の次に日本を攻めるのでは考え、外国を嫌い、外国を学ぶことをしない攘夷派であった。しかし、28歳の時、主君であった徳川慶喜に命じられて、仏蘭西へ行く事となり、その船中で、同僚からタウンゼンド・ハリス(初代米国総領事)の事を詳しく聞く。ハリスは実に武士道的精神により行動していることを知り、アメリカが立派な国であることを覚り、親米派になった。晩年、聖路加国際病院の院長ルドルフ・トイスラー博士と同病院米国評議員のジョン・ウッド博士が栄一の飛鳥山邸である曖依村荘を来訪した際に、栄一はこのことと合わせ親米派になった理由を次にように語っている[30]

(前略)、中でもハリスの通訳官ヒユースケンが殺された時に、他の公使達が幕府信頼するに足らずと称して、江戸を撤退したにも関らず、タウンゼンド・ハリスは其不可なる旨を主張し、敢て動きませんでした、斯の如きは一国の政府を侮辱するものであるといふのが、ハリスの反対の理由でありました。他の公使達が若し壮士が来てお前を襲ふやうな事があつたら、如何するかと聞くと已むを得ぬ、道に外れぬ為に殺されるなら、甘んじて死につくと揚言したと云ふことであります。此事を聞いて深く感じまして、あゝ米国人は立派なものである、日本の武士道と少しも違はぬ行動であると、深く亜米利加の正義に感服したのです。英吉利は他の国を奪る国である、亜米利加は通訳が殺されてもなほ留まる国であるといふ事を知りました。 — 竜門雑誌 第501号、昭和5年6月

こうして、栄一はハリスのことを知って親米派となり、米国聖公会が設立し運営する聖路加国際病院評議員会長になるなど、米国人への援助を惜しまず、米国と日本の友好のために尽くすこととなった[30]

生前のエピソード

新選組

幕末期に一橋家に仕官し京都にいた頃、新選組近藤勇土方歳三らと在京薩摩藩士と内通している疑惑のあった大沢源次郎の捕縛の件で、接点があったことを自ら語っている[31]

シーボルト

幕末期に栄一がパリ万博派遣使節の一員として渡欧した際に、同行して語学を教えた通訳は、長崎出島商館医で多くの蘭学者を育てたシーボルトの長男であり、当時在日英国公使館通訳をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルトであった。栄一が日本に帰国後も交友を続け、弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトと共に日本赤十字社設立を始め、栄一にたびたび協力をする間柄となった。

暴漢に資金援助

明治25年(1892年)12月11日、伊達宗城の病気見舞いの帰り道で、栄一は馬車で兜橋を渡ろうとするところを2人の暴徒に襲われる。暴徒は刀で馬車の窓ガラスを割ったため、栄一もその破片で左手に軽傷を負った。当時、この襲撃は、東京市水道の鉄管に渋沢が「品質や価格においても外国製に利がある」と海外製品を導入を主張したことで、国内の保守派の反感を買ったためとされる。栄一は自分を襲った暴漢2人を「罪を許したい」と語り、1人の暴漢が明治32年(1899年)に出獄したとき(もう1人は獄中にて死亡)、貧窮し困っていることを聞いて、人を介して資金を援助した[32]

女癖

渋沢は妾が当たり前の当時としても異常な好色であり妻妾を含めると総勢17人以上も子供が居た。さらに68歳という高齢で子供を作った。また妻と妾を当時に住まわして世間を賑わせた。[33][34]


紙幣肖像(韓国)

1902年から1904年にかけて、大韓帝国にまだ中央銀行がなかった時代に、第一銀行は在韓支店において第一銀行券を発行していた。その1円、5円、10円券には頭取の栄一の肖像が描かれていた。韓国統監となった伊藤博文は韓国に中央銀行(後の朝鮮銀行)を設立して、中央銀行に発券機能を担わせる施策への転換を図るべく栄一に協力を求め、栄一もそれに応じた[35]

日露開戦

栄一は明治37年(1904年)の日露戦争開戦に際して、陸軍参謀本部児玉源太郎から財界としての支援を依頼される。20億円という莫大な戦費の国民経済への影響から当初は難色を示していたが、児玉の話から、ロシア帝国極東政策の意図を素早く的確に理解し、開戦止む無しとの考えに転換している[36]

関東大震災後の天譴論

関東大震災後の日本の言論界には、世の風潮が利己的で傲慢になったために、天が罰として自然災害を起こして警鐘を鳴らしたと受け止めるべきであるという、「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった[37]。「天譴論」は腐敗したブルジョアや近代産業文明への批判と平等主義や自然回帰への賛美の思潮ともつながり、一種の流行語ともなった。皆が口にするに至って、かえって不自然さや偽善性を指摘する者も現れ、最初の主唱者渋沢も「天譴だという人は、本当にこれを天譴と思っているのでは無いかも知れませぬ」と苦言を呈するほどになった。


注釈

  1. ^ 1890年12月15日、第1回帝国議会の貴族院予算委員会に出席すると同時に休暇を願い出て認められている。
  2. ^ 栄一が兼子と結婚した時期については異説がある。穂積歌子の孫の穂積重行は『穂積歌子日記』の文中に「栄一は十五年に妻千代を失い、十八年末頃かね子と再婚した。」と注釈をつけている。鹿島茂もこの注釈をもとに「兼子が1883年(明治16年)1月頃妾の一人として渋沢家に入ったが、その後栄一と兼子との間に続けて3人の子供(内2人は夭逝)ができたこと、さらに栄一が兼子を気に入ったことから、1885年(明治18年)末に正式に結婚したのではないか」と推測している[78]
  3. ^ 作家の佐野眞一は『渋沢家三代』のなかで「一説には、栄一が生涯になした子は二十人近くにのぼるといわれている」と記している[82]。歴史研究家の河合敦は、栄一が花柳界でも知られた存在だった点を挙げ、「20人の子がいたとされるが、一説には50人」と記している[83]

出典

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渋沢栄一と同じ種類の言葉


固有名詞の分類

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