清 清の行政区画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 12:53 UTC 版)

清の行政区画

嘉慶二十五年(1820年)の行政区画
光緒三十四年(1908年)の行政区画

清は各地の支配者の臣従を受け同君連合となり、その領土は広い上、各地域の差も大きく、多数の民族を含み、その間柄も良好とは言えなかったため、行政の区割りは画一的な物でなく「因時順地、変通斟酌」として行われた[6]

中心となった満洲人には中央ユーラシア的な「姓長制」である八旗制が維持された。各旗人は皇帝の上三旗と皇族である各旗王が分封された下五旗に所属し、北京の内城は旗人(北京八旗)の街とされ、各旗ごとに区画が割り当てられ、さらに満洲→蒙古→漢軍の順で宮城の外側に居住区が設けられた。また要地の警備のために駐防八旗が駐屯した。1645年に西安・南京からはじめて他の主要都市を部分的に占拠していった。合計18カ所の「満城」が各省に設立され、1700年までにそのうち12カ所で、最終的には全ての「満城」において、北京のように旗人のための隔離居住の原則が認められた。駐防地に送られた兵士はその家族をすべて連れていき、現地の漢人から隔離された城壁のなかに住む場所を割り当てられた。

畿輔駐防は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25か所に8000人が駐屯した。東三省駐防は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40か所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。

各省駐防は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。

新疆駐防は、西域兵とも称され、ジュンガル部、ウイグル部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、イリ将軍が統括した。

皇帝直轄領であり漢人の多い旧明領は明の制度を引き継ぎ、「省—府—県」の三段階からなる制度が敷かれた[7]。旧明領の漢人以外の民族には有力者に土司の地位を与え統治させた[8]藩部中国語版では現地の事情を踏まえると共に中央集権の強化も図られた。

臣下としたモンゴルでは旗盟制を整備し、モンゴル王侯にジャサク(札薩克)の地位を与えて遊牧地を与えた。保護国であるチベットではダライ・ラマのガンデンポタンの自治により地方行政単位として、規模により大中小の3等級に分類されるゾン(rdzong)(清代の営、民国の県に相当)を設置、さらにその下方単位として国家直属・貴族領・寺院領の三種からなるシカ(gzhis ka)を置いた。

新疆ではイリ将軍の配下に、イリ・タルバガタイ・カシュガルに駐屯する3名の参賛大臣が置かれ、ウルムチには、ウルムチ都統が置かれた。これらの下には、弁事大臣・領隊大臣等の役職が設けられ、それぞれ各オアシス都市の統治を行った。各地方の末端行政は現地人有力者に委ねられ、早くから清朝に服属したハミやトゥルファンの支配者らにはジャサク制が適用され、爵位が与えられモンゴル人貴族と同様の特権が付与された。またタリム盆地の各オアシス都市の支配者に対しても清朝の官職が与えられ、自治を行わせるベグ官人制が行われ、在地の社会構造がそのまま温存された。

全国は内地十八省と、駐防将軍中国語版の5管区、駐箚大臣中国語版の2管区とあわせて25の行政区画と、内モンゴルなどの旗・盟に分けられ、それぞれの地域の接触を厳しく制限した。それぞれの地域を監督し、正式に行き来出来たのは八旗官僚のみであり、科挙の上位合格者を除き漢人科挙官僚は旧明領の統治にのみ用いられた。満洲語は各地に派遣された八旗官僚と中央との連絡に用いられた。

清の末期、列強の進出や漢人の藩部への流出が強まる情勢下で、各地の旧行政制度では有効な統治を行えなくなってきた。そのため、この頃には清朝は「満洲人とモンゴル人の同盟が漢人を支配し、チベットとイスラムを保護する」という体制から皇族と漢人有力者や知識人とによる「満漢連合政権」となっており、漢族有力者を用いて立て直しを図ったため光緒年間には新疆奉天吉林黒竜江が相次いで省となり、内地と同様の行政制度を敷き中央集権化が図られ、それらの巡部など主要な役職は漢人によって占められた。そのため次第に外藩部では清朝の支配を受け入れていた要因自体が薄れていった。光緒三十四年(1908年)には清は22省と、チベット・外モンゴル・内モンゴル・青海などの地方となった。モンゴルとチベットも省にする案があったがモンゴルは独立し、チベットは支配強化のため侵攻中に辛亥革命が勃発し、清が崩壊したため実行されなかった。中華民国の成立後もモンゴルやチベットは中華民国の宗主権を認めず、それぞれロシアとイギリスを頼って実質的な独立状態を保った。

内地の行政区画

清の山海関の「内側」である、長城以南の漢人の多い地域は「内地」、「関内」または「漢地」と呼ばれ、明代の「両直十三省」の呼称を受け継いで「直省」と呼ばれていた。内地の行政区画は明代の「省―府(州)―県」の三段階からなる階級体制を受け継いでいる。一番上、一級政区は省で「行省」と俗称された。布政使司と呼ばれていたが、布政使督撫の属官になっていくにつれて、「布政使司」の名称は省に取って代わられていった。嘉慶年間に『一統志』が編纂された時には「省」は一級政区の正式な称号となっていた。その下、二級政区は府と直隷州があった。(直隷州と違って)府の下にある三級政区である州(散州、属州)の下に県が付くことはなかった。つまり、単式の三級制となっていた。清初年には臨時の役人だった巡撫が布政使に代わって省の長官になった。一部の民族の雑居地や戦略的要地には、新しい政区の「庁」が置かれ、それは省直轄の直隷庁と府の下にある散庁があった。少数の直隷庁の下には県があった。

省/布政使司
(行省)
直隷州直隷庁
散州散庁

行省

行省の設置については、清は明代の両京と十三布政使司を基本的に踏襲して、山東・山西・河南・陝西・浙江・福建・江西・広東・広西・湖広・四川・雲南・貴州の13省を置いた。順治元年(1644年)に北京を都と定め、盛京は留都(旧都)となった[9]。二年(1645年)に北直隷を直隷省に、南直隷を江南省にした。康熙三年(1664年)、湖広を湖北と湖南の二省にした。康熙六年(1667年)、江南省は正式に江蘇と安徽の二省にした。康熙七年、甘粛省が設立され、これによっていわゆる「内地十八省」が定まった[10]


注釈

  1. ^ 光緒末年から宣統改元に作成され、篆書体で「大清帝國之璽」と書かれている。
  2. ^ 五行相克では、
    • 木徳→土徳→水徳→火徳→金徳→(木徳に戻る)
    「水克火(水は火に克つ)」となる。
  3. ^ 大清皇帝に即位し崇徳と改元。
  4. ^ 一旦「祺祥」と公布されたが、辛酉政変のため改元前に同治と変更された。
  5. ^ 2004年、愛新覚羅家より廟号「恭宗」、諡号「愍皇帝」が追贈された。
  6. ^ 清朝の滅亡後は、1924年の優待条件修正案公布まで紫禁城内でのみ使用。
  7. ^ 日本銀は16世紀中期以降、石見銀山や但馬銀山などでの生産が急増し、16世紀後半には1200〜1300トン、17世紀前半には2400トンの銀が中国に流れた[13]。南蛮貿易はのち、台湾安平古堡と長崎の出島を拠点とするプロテスタント勢力のオランダ東インド会社に引き継がれた。その後の江戸には蘭学は広まったがフリントロック式燧石銃)はほとんど輸入されなかった。

出典

  1. ^ a b 譚璐美 (2021年6月23日). “狙いは民族抹消、中国が「教育改革」称してモンゴル人に同化政策”. JBpress (日本ビジネスプレス). オリジナルの2021年6月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210623060906/https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65762?page=3 
  2. ^ 宣和堂 (2017年5月21日). “その後の「制誥之寶」とマハーカーラ像”. 宣和堂遺事. 2019年11月16日閲覧。
  3. ^ 中研院歷史語言研究所歷史文物陳列館”. museum.sinica.edu.tw. 2019年11月16日閲覧。
  4. ^ 貝と羊の中国人, p. 92.
  5. ^ ネルチンスク条約:「凡山南一帶,流入黑龍江之溪河,盡屬中國(中国)。山北一帶之溪河,盡屬鄂羅斯(ロシア)...將流入黑龍江之額爾古納河為界,河之南岸屬於中國(中国),河之北岸屬於鄂羅斯(ロシア)...中國(中国)所有鄂羅斯之人(ロシア人),鄂羅斯(ロシア)所有中國之人(中国人),仍留不必遣還」
  6. ^ 道光帝. 『御製大清一統志序』 
  7. ^ 『清史稿』志二十九 地理一 
  8. ^ 『清史稿』志三十、三十一、三十二 地理志二、三、四 
  9. ^ 『大清一統志』盛京
  10. ^ 清史稿地理一
  11. ^ 貝と羊の中国人, p. 90-91.
  12. ^ 貝と羊の中国人, p. 93.
  13. ^ 日本銀』 - コトバンク。旺文社世界史事典 三訂版。
  14. ^ ブリュッセイ, 2019年岩井, 2012
  15. ^ 韃靼漂流記
  16. ^ 『福井県史』通史編3 近世一
  17. ^ 松方冬子「18世紀オランダ東インド会社の遣清使節日記の翻訳と研究」東京大学史料編纂所。
  18. ^ 楠木賢道「はじめに (<特集>東アジア学のフロンティア : 清朝・満州史研究の現在)」『東洋文化研究』第10巻、学習院大学東洋文化研究所、2008年3月、307-307頁、hdl:10959/2879ISSN 1344-9850CRID 1050001338012832128 
  19. ^ 上海で拘束された台湾「八旗文化」編集長、何が中国を刺激したのか? Newsweek
  20. ^ 清朝とは何か.
  21. ^ 金振雄「日本における「清朝史」研究の動向と近年の「新清史」論争について : 加藤直人著『清代文書資料の研究』を中心に」『四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌 : クァドランテ』第20号、東京外国語大学海外事情研究所、2018年3月、169-174頁、doi:10.15026/91617ISSN 1344-5987NAID 120006457726 






清と同じ種類の言葉


品詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

「清」に関係したコラム

  • 株式の投資基準とされるROSとは

    株式の投資基準とされるROS(Rate of Sales)とは、企業の売上高の経常利益の割合をパーセンテージで表したものです。ROSは、売上高経常利益率、売上高利益率などともいいます。ROSは、次の計...

  • 株式の投資基準とされる売上高純利益率とは

    株式の投資基準とされる売上高純利益率とは、企業の売上高の純利益の割合をパーセンテージで表したものです。売上高純利益率は、次の計算式で求めることができます。売上高純利益率=純利益÷売上高×100売上高純...

  • 株式の投資基準とされるROAとは

    株式の投資基準とされるROAとは、総資本の経常利益の割合をパーセンテージで表したものです。ROAは、Return on Assetの略で、総資本経常利益率といいます。ROAは次の計算式で求めることがで...

  • 株式の投資基準とされる経常利益伸び率とは

    株式の投資基準とされる経常利益伸び率とは、企業の予想経常利益が最新の経常利益の何パーセント増加しているかを表したものです。予想経常利益が伸びればその分、株価も上昇するのが一般的とされています。経常利益...

  • 株式の投資基準とされる売上高連単倍率とは

    株式の投資基準とされる売上高連単倍率とは、企業の連結決算ベースの予想売上高が個別財務諸表ベースの予想売上高の何倍かを表したものです。売上高連単倍率は、次の計算式で求めることができます。売上高連単倍率=...

  • 株式の小型株とは

    東京証券取引所(東証)では、規模別株価指数の算出のために一部上場銘柄を大型株、中型株、小型株の3つに分類しています。その基準は、時価総額や株式の流動性などによって順位づけしたものになっています。大型株...

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「清」の関連用語


2
100% |||||

3
96% |||||

4
96% |||||

5
96% |||||

6
96% |||||

7
96% |||||

8
96% |||||

9
96% |||||

10
96% |||||

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



清のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの清 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS