浅野長矩 後史

浅野長矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/24 05:26 UTC 版)

後史

元禄赤穂事件

長矩の遺臣たちの吉良邸討ち入りは、赤穂事件の項を参照のこと。

赤穂浅野氏のその後

将軍綱吉が死去した宝永6年(1709年)8月には、広島浅野宗家にお預けとなっていた長矩の実弟の浅野大学長広が綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日に改めて、安房国朝夷郡平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復した。また、これとは別に浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家(浅野大学家)は旗本ながら御家再興を果たした。そして、長矩が藩主であった頃に赤穂藩から分与されていた赤穂新田3,000石から減封の上、播磨からも移封ではあるが、浅野大学家(長広系)は存続することとなった[8][9]。以降、赤穂浅野家は旗本として存続し、明治維新を迎えた。維新後の明治元年(1868年)9月23日からは旧幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り[10]浅野長栄弁官の支配とされた。赤穂浅野家は、浅野長栄の孫である長楽の代まで存続したが、長楽が妻帯しないまま1986年(昭和61年)に病死し、これにより断絶となった[11][12]

刃傷の理由

長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。主に以下のような遺恨・対立の説がある。

  1. 院使御馳走人の伊予吉田藩主・伊達宗春より付届けが少なかった、あるいは浅野は渡さなかった(『徳川実紀』、尾張徳川家の家臣朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』)
    もっとも一般的で、赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』の映画やドラマ、小説などで採用されているのがこの賄賂説である。吉良は賄賂をむさぼるのが好きで、長矩が賄賂を拒否したために辱められたという記述などは『徳川実紀』や『鸚鵡籠中記』にみえる。
  2. 勅使御馳走の予算を浅野家が出し惜しみした(『沾徳随筆』)
    水間沾徳(赤穂藩士大高忠雄神崎則休富森正因萱野重実らの俳諧の師匠)の『沾徳随筆』の中にある「浅野氏滅亡之濫觴」によると「老中に費用の削減をせよと言われた浅野が勅使饗応役の費用を700両にしようと提案し、浅野は吉良が不在だった2月に、畠山義寧に相談して了承を得ていたが、3月になってから吉良がこれに異議を唱え、費用を1200両とせよと命じたことで両者が不和になり、刃傷の原因となった」とある。このうち、吉良が1200両と提案したのは1度目の御馳走人の時に対して元禄時代は大幅に物価が上がっていたためとされる。ただし、浅野が1度目を御馳走人を務めた時の費用は400両とされ[13]、当時、2倍ほどあがっていた物価に対する費用としては800両あたりが妥当で、1200両は1度目に比べると3倍の予算にあたり、当時の物価の上昇を考慮しても高額であるといえる。
  3. 塩田を原因とする争いがあった(尾崎士郎)
    近年、主張されるようになった説に、三河国吉良庄の一部で製造されている饗庭塩の出来が悪いため、出来が良いことで評判の赤穂塩の製造方法を聞き出そうとしたが断られた、もしくは江戸の塩市場の争いとなったのではないかとする説を、吉良出身の作家の尾崎士郎が唱えた。しかし、実際には吉良義央の領地にあったとされる塩田の遺跡は、旗本大河内家の領地であった。塩による遺恨説は、飛び地の領地に気付かずに吉良の領地に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。
  4. 増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに、吉良は長矩にだけ教えなかった(『岡本元朝日記』、『寺坂私記』)
    増上寺の畳替えについては、当時の秋田藩の家老岡本元朝の日記『岡本元朝日記』、『寺坂私記』などに畳替えの件で揉めたことが書かれている。『岡本元朝日記』の元禄14年(1701年)5月27日には、
    「風説によると、事前に浅野が吉良に畳替えに必要か尋ねたところ、不要と言われ、先例を調べてもそのような先例がないので、浅野も納得してそのままにしておいた。だが、前日の14日になって、老中の阿部正武に尋ねたら、新しくせよと申されたと吉良が言い出し、浅野はそれを聞いて狼狽して、老中に照会すべきことであれば自分から聞き合わせたのに、あなたがそれを不要といった。だからこそ、事前に聞き合わせ、必要があればそうしたというのに。それを先日は無用といったのに、今日になってそのようなことを言うとはどういうことか。すでに今日はこうして登城しており、明日朝のことをどうしたら良いというのか。と問いただしたところ、義央はあらゆることに、吝嗇では御馳走は勤まらないと返答した。これが長矩の意趣であると取り沙汰している」
    といったことが書かれている。

その他の遺恨・対立の説、並びに詳細については赤穂事件の項に説明が書かれているため、そちらを参照(信憑性が低いものは同記事5項「否定された理由」に記載。また「仮名手本忠臣蔵」などにおける脚色は「忠臣蔵」も参照)。

類似の刃傷

類似の刃傷事件としては、寛永5年(1628年)8月の豊島明重事件、延宝8年(1680年)6月の内藤忠勝(長矩の叔父)事件、貞享元年(1684年)8月の稲葉正休(長矩の又従兄)事件、宝永6年(1709年)1月の前田利昌事件、享保10年(1725年)7月の水野忠恒事件、延享4年(1747年)8月の板倉勝該事件、天明4年(1784年)3月の佐野政言事件、文政6年(1823年)4月の千代田の刃傷事件などがある。


  1. ^ 従五位下叙位の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    源長矩
    宜叙從五位下
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿(しゃうけい) 小倉大納言
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    源長矩、宜しく従五位下に叙すべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕(松木宗顕)、奉(うけたまは)る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
  2. ^ 内匠頭任官の口宣案(辞令)。
    口宣案
    上卿 小倉大納言
    延寳八年八月十八日 宣旨
    從五位下源長矩
    宜任内匠頭
    藏人頭左近衞權中將宗顯
    訓読文
    上卿 小倉大納言。
    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
    従五位下源長矩、宜しく内匠頭に任ずべし。
    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕、奉る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
  3. ^ 正林の祖母と長矩の祖母が姉妹(共に板倉重宗の娘)。
  4. ^ 元禄11年9月6日1698年10月9日)に発生した江戸の大火の際、吉良義央は鍛冶橋邸を全焼させて失ったが、このとき消防の指揮を執っていたのは浅野長矩であった。長矩が吉良家の旧邸を守らなかったことで吉良の不興を買い、後の対立につながったのではないかなど、刃傷の遠因をこの時に求めようとする説もある。
  5. ^ 原はのちに殿中刃傷の報を国許に伝える最初の急使にも選ばれている。
  6. ^ 千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部
  7. ^ 同様に織田家藩邸のある通りも避けている。
  8. ^ ただし金丸父子の忠見氏・中山氏との血縁は無い。
  9. ^ 竜田(片桐家)浪人の家祖・堀部次郎左衛門が妻の叔父・小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年(1647年)に熊本に来たとされる。
  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、14-15頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 26頁。
  3. ^ 「上野介返答ニハ、拙者何之恨請候覚無之全内匠頭乱心ト相見へ申候」(「多門伝八郎覚書」)
  4. ^ 山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本−確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』中経出版 2003など
  5. ^ 谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ
  6. ^ 環二通りの建設工事による(2011年、東京都)
  7. ^ 『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))
  8. ^ 泉(1998) p.278
  9. ^ 山本(2012a) 第七章三節
  10. ^ 『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』
  11. ^ 泉岳寺浅野家墓碑
  12. ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)、wikipedia「浅野長広」項目も参照
  13. ^ 山本博文『江戸の「事件現場」を歩く』
  14. ^ 足立栗園『赤穂義士評論 : 先哲』積文社
  15. ^ a b 三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜』第2集 364p 国民図書
  16. ^ 『土芥寇讎記』東京大学史料編纂所所蔵
  17. ^ a b 戴文捷・綱川 歩美・鈴木 圭吾「『土芥寇雄記』に求められた君主像」
  18. ^ 佐藤宏之「『土芥寇讎記』における男色・女色・少年愛 : 元禄時代を読み解くひとつの手がかりとして 」
  19. ^ 『諫懲記後正』
  20. ^ 『冷光君御伝記』
  21. ^ 「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」月刊『TOWN-NET』、1998-99年
  22. ^ 立川昭二『江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)』
  23. ^ 『和名類聚抄』
  24. ^ 『黄帝八十一難経』
  25. ^ 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂
  26. ^ a b c 赤穂市『赤穂市史 第5巻』
  27. ^ 廣山堯道『赤穂塩業史』
  28. ^ 山下恭『近世後期瀬戸内塩業史の研究』思文閣出版
  29. ^ 木哲浩「赤穂藩における藩札の史料収集と研究」(日本銀行金融研究所委託研究報告 No . 4)
  30. ^ ひょうごのため池 兵庫県庁
  31. ^ 『上郡民報』2016年12月・2017年1月合併号
  32. ^ a b 西播磨県民局 光都土地改良センター『西はりま 地域をまもる水物語』
  33. ^ 相生市史編纂専門委員会 編『相生市史』第4巻 相生市
  34. ^ 兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」。再度の散逸防止のため非公開(教育事業部歴史文化財課)
  35. ^ 白峰旬「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より」
  36. ^ wikipedia記事「広島藩」「伊達政宗」なども参照
  37. ^ 「當家銘刀「美濃千寿院」ヲ選ビシカド「斯様ナ節に用フ可キニ非ズ」等激シク叱責受クル」(「北郷杢助手控之写」)
  38. ^ 「田村家家伝文書」(一関市博物館)
  39. ^ 一関藩『内匠頭御預かり一件』
  40. ^ 『伊達治家記録』(だてじけきろく)より「肯山公治家記録」
  41. ^ 山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)
  42. ^ a b c d e f 中島康夫「赤穂義士御預始末 永青文庫特別展」中央義士会、57号、2007年
  43. ^ a b 熊本県立図書館蔵『御家譜続編』
  44. ^ 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  45. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  46. ^ a b c d e 堀内伝右衛門『堀内伝右衛門覚書』
  47. ^ 堀内伝右衛門『赤穂義臣対話』
  48. ^ a b 「肥後細川家侍帳」「肥後細川藩拾遺」
  49. ^ 泉岳寺から放棄された細川家の鐘は、明治に二束三文で海外に流出した。駒澤大学名誉教授・廣瀬良弘『禅宗地方展開史の研究』(ウイーン美術館)
  50. ^ 井田泰人「熊本時代の大塚磨について」近畿大学民俗学研究所、民俗文化 (28)、2016年
  51. ^ 龍野藩家老の脇坂民部『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜(6月24日の夜)、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。」という記録がある
  52. ^ 同日記に「赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っている」ほかの記述があり、刃傷事件後には「老中・阿部正武へ明後日(6月27日)早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わし公儀の沙汰待ちの所存」の旨が記載。
  53. ^ 内匠頭遺品の赤穂市への返還問題があり、たつの市は、赤穂市が主幹する「忠臣蔵サミット」参加の対象外。『平成19年 忠臣蔵サミット』資料より「忠臣蔵ゆかりの地」(赤穂市)
  54. ^ 『新集赤穂義士史料』より「義士関係書状」
  55. ^ 堀田文庫『易水連快録』






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