流儀 流儀の概要

流儀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/07 05:09 UTC 版)

伝統的な指導体系として、日本では武術芸術をはじめとする芸道から俳句和算といった趣味領域に至るまであらゆる分野で見られ[3]江戸末期にひとつのピークを迎えた。ひとつの様式化された内容を、世襲制度(家族制度)や師弟制度(徒弟制度)のもとに家元宗家師範などを頂点として継承する(門流門派)。

概要

流儀・流派とは、あるものをどう行うか(例:敵とどう戦うか、ある戯曲をどう演じるか)ということについて個人の一代の技能でなく、ある一定の技術論に基づく技術が、集団的、伝統的に共有されている技能共同体を指す。各流派の技術論の相違は非常に広く、分野ごとに多様であるが、たとえばであれば、所縁曲の相違、使用する謡曲の相違、戯曲に対する解釈の相違、の調子や工夫の相違、装束の選びかたの相違などがあげられる。これからもわかるように、能ならば能を演じるという目的対象はどの流儀にも共通するのに対して、それにいかに演ずるかが異なるところに流儀の源流がある。

茶道家千宗左は、「各流派ともお茶を点てるという目的は同じであり、また点前の洗練された美しさを追求しようとしてきたことは、いずれも共通しているのですから、基本的なところは決して違ってはいないのです。ではどこが違っているのか、はっきりいえば、どうでもいいような部分、つまり、多少変化をつけたとしても、点前そのものの意味にはなんら支障のない部分に、流派によって少しずつ違いが見られるにすぎないのです」[4]と述べており、武術家黒田鉄山もまた、流派によって使う武器、状況設定、構えなどに違いがあるのは何ら問題ではなく、その根底にある普遍的な体捌き、身体の使い方が正しいかどうかを見極めなければならない、としている[5]

類似概念・比喩的表現

こうした集団形態は、組織文化組織風土の産物として、洋の東西を問わず世界各国のあらゆる芸術的・技術的な分野に往々にして見られるものである(英語では"Style"、"School"などがそれにあたる)。さらに社会あるいは民族の行動・生活の様式にまでその概念を広げれば、民族や国家文化文明そのものまでもが流儀・流派となる(日本流、イギリス流など)。例えば、和服洋服では、着るという目的は同じでありながら、どのように着るかに違いがあり、かつそこには明らかな独自の伝統や一定の技術、表現様式が見られ、日本人社会・西洋人社会という異なる伝授体系(社会制度)によってそれぞれ継承されてきた。

ただし、本項で述べるような狭義の意味での流儀・流派では、「個人的な解釈の違い」を基本的に許容せず、集団で、伝統としてある程度固定化して継承してゆくところや、自身の集団以外とは内容に関する議論や共有を避けるなどの閉鎖的な面を持ち合わせているところに特異性がある。

思想や主義を(ある程度固定化しつつ閉鎖的に)継承する集団としてセクト宗派教派、法流、学派、政派等があるが、流派においても技術や理論だけにとどまらず思想や主義すらも継承され得るため、定義的に重なる類義語である。

また、ある地域・社会などの範囲内で一般に行われている生活上の様式を指す「風」(ふう)も類似概念であり、その様式を支えるのが(ある程度固定化されていて閉鎖的な)一定の伝授体系を有した集団である場合、流儀・流派とほぼ同義である。「家風」「書風」「芸風」など。ただし「風」には、実体として存在するような確固たる様式ではなく、単なる雰囲気や意図しないままに形成された傾向などを指す場合もある。

あるものに対するその人(個人)なりのやり方を表す日常的な語句として、比喩的に用いられることもある。「私の流儀」「自己流」「我流」など。

成立と繁栄

流派誕生の起源は、家元制度徒弟制度ならびに家督名跡といった世襲制度(家族制度)に深く関与しており、これらの項も参照されたい。

伝説では古墳時代中期まで遡る剣術流派の関東七流や京八流の伝承、さらに実際の記録でも平安時代末期に和歌の家として成立した御子左家とそこから分かれた二条派京極派の存在などがあるが、流儀・流派と呼ばれる制度体系が現代に伝わるような形で完全に成立したのは、室町時代末期から江戸時代初期のこととされる。

流派が成立する条件としては、先に挙げた社会的・文化的背景とともに、天才的な能力を持った達人の出現、技法が非常に高度なもので習得するのに専門的な指導と長時間の学習の継続が必要であること、技とその教習の体系および伝授の形式をもっていること、などが考えられる[6]。あるいは、一に保持する技法の独自性を有し、二にその技法の裏付けとなる口伝や理念を持ち、三にさらに流派が志向する目的を明確に備えていなければならない[7]

ある分野において傑出した新しい技術を編み出した者は(さらに言えばたとえ傑出した技術を持っていなくとも)、理論上誰でも自らが家元となって流儀を創設することができるが、先に述べたようにこの制度の存在意義は後進の育成であるため、実際にはこうした行動が比較的容易である分野とそうではない分野がある。流儀制度の経済的根幹である素人弟子の絶対数が少ない分野では、分派行動を起こしても経済的に立ちゆかないことが多い。逆に、素人弟子の数が多い分野では新流創設が容易であり、実際に日本舞踊華道においてはほぼ無数に流儀が存在する。また、ほかの流儀との共同作業が必要な場合にも分派新設は困難である。たとえば能のシテ方に梅若流が設立されたときには、ワキ方や囃子方が共演を拒否し、実質上演能不能の状態に陥ったために、最終的に梅若流の分派行動は失敗に終わっている。

日本における流派の数は、社会の安定化により各種文化が発展し様式化された江戸時代に爆発的に増加し、その後近代化した明治時代に入り、西洋からもたらされた近代教育制度にとって代わられたことで急速に減少した。


  1. ^ 「芸術・武術などの、その流派や家に昔から伝えられている仕方。流派」(スーパー大辞林より)
  2. ^ 『ビブリア 第80号、第82-85号』(天理大学出版部)157頁
  3. ^ 第3章 家元制度 趣味としての和算 江戸の数学(国立国会図書館)
  4. ^ 千宗左『茶の湯随想』(主婦の友社、2001年)52-53頁.
  5. ^ TETSUZAN KURODA La tradition en héritage, Première parution : "Dragon magazine n° 4", avril 2013, Shimbukan Kuroda Dojo Europe
  6. ^ 世界大百科事典「武道」より コトバンク
  7. ^ 三隅治雄『原日本・沖縄の民俗と芸能史』(沖縄タイムス社、2011年(1972年初出)),「流派輩出の契機」項より
  8. ^ 川本亨二「近世庶民の算数教育にみられる和算家像」(日本大学教育学雑誌第31号、1997)19頁
  9. ^ a b c d 水野忠文ほか「武道の流派(家元制)について」(日本体育学会、1968年)355頁
  10. ^ a b c 魚住孝至『武道の歴史とその精神 概説』(国際武道大学)
  11. ^ a b 中村昌生編『公共茶室』(建築資料研究社, 1994年) 5, 10頁.


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