津田梅子 津田梅子の概要

津田梅子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:34 UTC 版)

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つだ うめこ
津田 梅子
生誕1864年12月31日
日本江戸牛込南御徒町
(現・東京都新宿区南町
死没 (1929-08-16) 1929年8月16日(64歳没)
日本神奈川県鎌倉町
墓地東京都小平市津田塾大学構内)
国籍 日本
出身校 ブリンマー大学
著名な実績日本における近代女子教育の確立
子供津田眞(養子)
津田仙(父)
津田初子(母)
栄誉勲六等宝冠章(1915年)
勲五等瑞宝章(1928年)

また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。

初名は「うめ(「むめ」と書いた)」[1]。戸籍上は「」であったが、明治35年(1902年)に父である津田仙の戸籍から分籍した際に「梅子」に改めた[2][注 1][注 2]

生涯

梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族下総佐倉藩出身)・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた。父・仙は幕臣であったため、明治維新とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地ホテル館へ勤めはじめ、津田家は向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。

アメリカ留学

日本最初の女子留学生

明治5年(1872年)、シカゴ滞在中の女子留学生5名[6]。左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松[7][8]
渡米直後の梅子(明治5年〈1872年

明治4年(1871年)、仙は開拓使嘱託となり、津田家は麻布へ移る。開拓使次官黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させた。同年、梅子は岩倉使節団に随行して渡米。梅子は、5人のうち最年少の満6歳であった。1871年12月23日[9]新暦。本節は以下新暦で記す)に横浜を出港し、1872年1月15日[10]サンフランシスコに入港。同年1月31日[11]にサンフランシスコを5両編成の貸切列車で出発し、大陸横断鉄道を経由してワシントンD.C. ヘ向かったが、40年ぶりとされる大雪により日程が遅れた(ソルトレイクシティで18日間待機)[12]。2月25日[11]シカゴに到着。5人の女子留学生はそこで洋服を仕立てて[注 3]和服から着替え、洋服姿での5人の記念写真を撮影した[14]。2月29日[15]にワシントンD.C. へ到着。

第二の両親、ランマン夫妻

梅子は、ワシントンD.C.近郊のジョージタウンに住む、日本弁務使館書記官(Secretary of the Japanese Legation[16])かつ著名な作家である[注 4]チャールズ・ランマン 英語版夫妻の家に預けられた[16]1872年5月1日(新暦)には駐米少弁務使森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされるが、同年10月末(新暦)には上田悌子、吉益亮子の2名が帰国した[17]。残った3人がうめ、山川捨松(のちの大山捨松)、永井しげ(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を設立する際に2人は助力する(→#女子英学塾を創設)。

梅子は再びランマン家に預けられ、そこで十年を過ごした。なお、当初はランマン家に梅子が預けられるのは1年間の予定であったが、期限が近づいた時期の、ランマン家の書簡(出典には宛先の記載なし)には「仮に梅子の留学が打ち切られるようなことがあれば、私どもが梅子の養育費や教育費を負担して預かり続ける覚悟です」という旨が記載されている[18]

ランマン家は家計にゆとりがある文化的な家庭であり、ランマン夫妻は梅子を実の娘同様に慈しんだ[16][注 5]。梅子はランマン夫妻を深く敬慕し、日本に帰国した明治15年(1882年)から、ランマン夫人が大正3年(1914年)に88歳[20]で亡くなる直前まで[注 6]、数百通に及ぶ手紙をランマン夫人に書き送っている[21]

梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本宛の手紙も英文で書くようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治6年(1873年)7月に特定の教派に属さないペンシルベニア州フィラデルフィア独立教会洗礼を受けた[22]。明治11年(1878年)にはコレジエト校を卒業し、私立女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語フランス語などの語学英文学のほか、自然科学心理学芸術などを学ぶ。ピアノはかなりの腕前に達し、帰国後は何度も人前で演奏した[23]。また休暇にはランマン夫妻に連れられて各地を旅行している[24]

モリス夫人との出会い

アーチャー・インスティチュート在学中の梅子は、父の知人であるウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの紹介により、1882年(明治15年)2月または3月に[25]、フィラデルフィアの資産家・慈善家・敬虔なクエーカーであるメアリ・モリス夫人[26](Mrs. Mary Harris Morris[27]. 1836年-1924年[26]. 夫はフィラデルフィア有数の大富豪であるウィスター・モリス[25])と知り合った[25][28][29]。梅子は、日本に帰国した後も、モリス夫人と文通を続けた[28][29]

モリス夫人は梅子の良き理解者となり、

  1. 梅子の2回目のアメリカ留学(明治22年〈1889年〉から明治25年〈1892年〉)の実現。
  2. 日本の女性をアメリカに留学させる「日本婦人米国奨学金」の創設(明治25年〈1892年〉)。
  3. 梅子が日本で創設した女子英学塾(現:津田塾大学)を経済的に支援する「フィラデルフィア委員会」の設立(明治33年〈1900年〉)

のいずれにおいても主導的な役割を果たし、アメリカから梅子を支援し続けた。

帰国

開拓使からの明治14年(1881年)9月までの帰国命令により[30]ヴァッサー大学音楽科(3年制)を同年6月に卒業した永井繁子は、命令通りに10月に帰国した[31]。一方、アーチャー・インスティチュート在学中の梅子、ヴァッサー大学本科(4年制)在学中の山川捨松は、1年間の延長を申請して認められた[30]。梅子と捨松は明治15年(1882年)6月に各学校を卒業し、同年11月21日に帰国した[31][32]

帰国後の活動

髀肉の嘆をかこつ

11年間の留学を終えて帰国した梅子と山川捨松に、日本政府から官職が用意されることはなく、二人は強い失望を味わった[33][34]。梅子がそのことをアメリカのランマン夫人に書き送ると、梅子を娘同様に思うランマン夫人は、アメリカに戻って来なさい、と梅子に返答した[33]。梅子は、官費留学生としてアメリカに派遣された以上、日本に留まって恩返しをする「道義的責任」(Moral Obligation[33])があります、アメリカに戻る訳には行きません、とランマン夫人に再び書き送った[33]

「日本政府が、梅子と捨松に仕事を提供しなかった」ことについて、寺沢龍は下記のように述べている。

  • 男子の海外留学生が、既に日本語を完全に身につけた年齢で、「英語学」「農学」「物理学」といった各自の専門分野を学ぶために留学し、帰国後には直ちに専門知識を生かせる仕事に就いていたのに対し、梅子と捨松は「一般教養」(Liberal arts)を、梅子は中等課程(ハイスクールのレベル)、捨松は高等課程(大学のレベル)で学んでいた点が異なる[33]
  • 梅子と捨松は、両名とも帰国した時点では日本語能力を喪失していた[35]
  • 日本政府が、専門知識・専門技能と言えるものを持たず、かつ日本語能力を喪失している二人の処遇に苦慮したのは理解できる[33]
  • 日本政府には、二人の語学力を、不平等条約改正の交渉に生かす考えもあったようだが、立ち消えになった[36]

山川捨松と永井繁子

山川捨松は、帰国前には日本に女子のための学校を設立する夢を持ち、就職先が見つからない中で、女子に英語を教える私塾を独力で設立する計画を立てたが実現に至らなかった。また、文部省より東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)への奉職を打診されたが、日本語能力が乏しい為に辞退せざるを得なかった。明治16年(1883年)11月、捨松は政府高官(陸軍中将・参議陸軍卿)で18歳年上の大山巌と結婚し、「政府高官夫人」の立場で留学で得た学識を生かす道を選んだ。

一方、ヴァッサー大学音楽科でピアノを専攻した永井繁子は、西洋音楽とピアノの専門知識及び技能を有する唯一の日本人であり、日本語能力が乏しくてもピアノの演奏と教授は可能であることから、帰国の4か月後、明治15年(1882年)3月2日付で文部省音楽取調掛(後の東京音楽学校、現・東京芸術大学音楽学部)の教師に採用され、日本最初のピアニストとして活躍した。繁子は、明治15年(1882年)12月に、アメリカで出会った瓜生外吉(海軍大尉)と恋愛結婚したが、その後も教師としてのキャリアを継続した。

生涯、母語は英語

幼少からのアメリカ生活で、梅子は日本語を完全に忘れていた[37]。留学時に梅子より年長であった捨松と繁子は、比較的早期に日本語を取り戻したが、梅子は日本語の習得に苦しんだ[38][39]。生涯を通じて、梅子の話す日本語は外国人風の発音であった[35]。梅子の母語(思考の言語手段)は、生涯を通じて英語であった[35]。捨松の娘の証言によると、捨松・繁子・梅子の3人同士の会話は常に英語であった[40]

現存する梅子の書き物は、公的書類に「津田梅子」と漢字で署名したようなケースを除き、ほとんど全て英語である[41]。生涯を通し、梅子が自らの名で発表した日本語の刊行物は少なくないが、いずれも梅子が自ら書いたものではなく、梅子が話すのを編者・記者が口述筆記したものと考えられる[41]

縁談を断る

帰国した翌年の明治16年(1883年)、梅子はアメリカのランマン夫人、及び上野栄三郎(梅子の姉琴子の夫)の二人から、アナポリス海軍兵学校出身の海軍士官(海軍大尉[42]で、「武人たる神学者」[43]と呼ばれた敬虔なクリスチャンである世良田亮(せらた たすく[42]。梅子より8歳年上。梅子は留学中に世良田と知り合っていた[25][44][45]との結婚を再三勧められた[25][46][43]瓜生外吉(海軍大尉[47]。世良田とはアナポリスの同期生で親友[43]。外吉と世良田は、同じ時期に同じ経緯でクリスチャンになった[48]瓜生繁子夫妻も、二人の結婚を取り持とうとした[45]

ランマン夫人と上野は、いずれもアメリカ留学中の世良田に会って好印象を持ち、繁子がアメリカで出会った外吉と幸せな結婚生活を築いていることからも、世良田は梅子の配偶者にふさわしい、と考えた模様である[46]

しかし梅子は世良田との縁談を断り、ランマン夫人への手紙に

「どうぞセラタ氏のことはもう書かないで下さい。」(明治16年5月26日付、原文は英語、大庭みな子による和訳、[49]
「もうこの話題は終りにしたい。私がもう一度掘りおこしたいと思うのでなければ、これが最後です。」(明治16年6月10日付、原文は英語、亀田帛子による和訳、[50]

などと書き送った[46][注 7]

伊藤博文との再会

帰国後の梅子が初めて就いた仕事は、明治16年(1883年)6月から6週間、海岸女学校青山学院の源流)の夏季休業中の英語教師の職で[53]、瓜生繁子の口利きによるものであった[53][54]

同年11月3日、外務卿井上馨の邸で開かれた天長節祝賀パーティに出席した梅子は、岩倉使節団以来、伊藤博文[注 8]と再会した[55]。伊藤は、梅子に対して好意的であった[55]

同年11月26日、梅子は伊藤夫妻と共に、華族子女を対象とする私塾・桃夭女塾(桃夭女学校とも[55])を主宰していた下田歌子を訪問し、「梅子が下田に英語を教えること」、「下田が梅子に日本語を教えること」、「梅子が伊藤の妻と娘に英語や西洋式マナーを教えること」などが取り決められた[55]。同年12月8日、伊藤邸での最初のレッスンを行った際、伊藤から客分として住込みの家庭教師を提案され[55]、梅子は父親との相談の上で伊藤の提案を承諾、同年12月20日頃に伊藤邸へ引っ越した[55]

伊藤家の客分となった梅子は、下田と英語・日本語を教え合い、伊藤家の家庭教師 兼 通訳として働き、伊藤の娘にはピアノの指導も行った[55]。明治17年(1884年)3月1日からは、梅子は桃夭女塾に英語教師として出講した[55]。伊藤は、自邸に滞在する梅子に様々なことについて意見を求め、討論した[55]

梅子は、母の初子が病気になったため、同年6月末、半年間の家庭教師生活を終え、自宅に戻った[55]。梅子は、伊藤による様々な便宜や、政府高官である伊藤が対等に接してくれたことを深く徳とし、後年まで伊藤と伊藤家に対して厚誼を欠かさなかった[55]

華族女学校教授となる

明治18年(1885年)には伊藤の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった(1885年〈明治18年〉9月、華族女学校教授補[56]、宮内省御用掛、奏任官高等官)に准じ取扱い、年俸420円[57]。明治19年(1886年)2月には職制変更で嘱託となる[56]

明治19年(1886年)11月には華族女学校教授となる(高等官6等、年俸500円)[56]。同校の女性教師のうち、高等官に列するのは学監の下田歌子(年俸1500円又はそれ以上)と梅子のみであった[58]。梅子は華族女学校で3年余り教えたが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われる。

ふたたび留学

ブリンマー大学在学時(1890年(明治23年))

明治21年(1888年)に来日した留学時代の友人アリス・ベーコンに薦められ、梅子は再留学を決意。フィラデルフィアのモリス夫人に手紙で留学について相談すると、モリス夫人は、懇意にしているブリンマー大学ジェームス・E・ローズ英語版学長に梅子の受け入れを要請し、ローズ学長はそれを即諾すると共に、梅子に対する「授業料の免除」と「寄宿舎の無償提供」を約した[59][60][61][62][63]。また、華族女学校の西村茂樹校長[注 9]は、梅子に同校教授として規定通りの俸給を受けながらのアメリカ留学(2年間)を許可した[59][60][61][注 10]

梅子は明治22年(1889年)7月に再び渡米。当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はブリンマー大学で生物学を専攻する。梅子の2回目の留学は、当初は2年間の予定であったが、1年間の延長を華族女学校に願い出て認められた(但し無給休職の扱いとなり、代わりに1年分の手当として300円支給[65][66]

留学3年目の明治24年(1891年)から明治25年(1892年)の冬に、梅子は「蛙の発生」に関する顕著な研究成果を挙げた[67][注 11]。ブリンマー大学のジェームス・E・ローズ学長による、同大学理事会への1891年度報告書は「ミス・ツダの蛙の卵の軸の定位に関する研究は、その優秀性のゆえに、特に言及しておかねばならない。」(原文は英語、亀田帛子による和訳、[69])と特記している[69]。そして梅子の研究成果は、指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士(1933年 ノーベル生理学・医学賞)により、博士と梅子の2名を共同執筆者とする論文「蛙の卵の定位」[69](The Orientation of the Frog's Egg[68])にまとめられ、明治27年(1894年)にイギリスの学術雑誌Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35, 1894.”(外部リンク)に掲載された[67][69]梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である[70][71][注 12]。モーガン博士は、帰国した梅子に宛てた手紙(明治26年〈1893年〉10月14日付)において「私たちはあなたにすぐにアメリカに戻って欲しいといつも願っています。」(原文は英語、亀田帛子による和訳、[69])と、科学者としての梅子を高く評価する言葉を記している[69]

さらに、教育・教授法に関してはペスタロッチ主義教育の中心校として知られるニューヨーク州オスウィーゴ師範学校で半年間学んだ[72]

なお、アリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究成果を出版(『日本の女性』)する際に梅子は手助けした。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われている。留学3年目に入った梅子は、日本女性留学のための奨学金設立を発起し、講演や募金活動などを始めた(下記「日本婦人米国奨学金」参照)。

教育者として

明治25年(1892年)6月にブリンマー大学での2年半の修学を終えた[73]梅子は、同大学での生物学研究の継続を提案されたが辞退し[74][75]、明治25年(1892年)8月に帰国し、再び華族女学校に奉職した。教職を続けながら、梅子は自宅に寄宿させるなど女学生への積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院講師も務めた。明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任。翌6月にはコロラド州デンバーで開催された万国婦人連合大会(デンバー会議)に日本婦人代表として参加するため私費で渡米。三千人の聴衆を前に日本の女子教育について演説を行ない、翌日には新聞に「小さな日本婦人の演説」と掲載されて反響を呼んだ[76]。その後英国各地やパリを訪問し、英国ではナイチンゲールとの面会も果たし、翌明治32年(1899年)7月に帰国した[76]。明治32年(1899年)の暮、梅子は高等官5等に昇格し、年俸は800円となった[77]

女子英学塾を創設

成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)の高等女学校令私立学校令による法整備で女子教育への機運が高まると、梅子は「自らの学校」を開く活動を開始。

フィラデルフィアのモリス夫人、ブリンマー大学学長であるM・ケアリ・トマス英語版など、梅子の志に共鳴するアメリカの人々は、モリス夫人を委員長とする「フィラデルフィア委員会」(The Philadelphia Permanent Committee for Tsuda College[78])を明治33年(1900年)春に組織して、梅子の学校(Miss Tsuda's School[79])を支える寄付金を継続的に集めて日本へ送り続けた[78][80][81][注 13]

旧友の再会
左から、津田梅子、アリス・ベーコン瓜生繁子大山捨松

アリス・ベーコン(梅子を助けるためにアメリカから来日[83][84][85])、大山捨松[注 14]瓜生繁子新渡戸稲造[注 15]巌本善治[注 16]上野栄三郎[注 17]桜井彦一郎らの協力者[88][89][90]の助力を得た梅子は、明治33年(1900年)7月に華族女学校教授 兼女子高等師範学校教授(高等官5等、年俸800円[91]。当時の36歳の日本人女性にとっての最高の職業的地位[92])を辞し[93]、私立学校令に基づく「女子英学塾」(津田塾大学の前身)の設立願を東京府知事に提出して認可を受ける。同年9月14日「女子英学塾」を東京市麹町区一番町の借家に開校、塾長として華族平民の別なき女子教育を志向して、一般女子の教育を始めた。開校時の学生は10名であった[94][注 18]

女子英学塾は、それまでの良妻賢母主義的な女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となった。ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだという[96]。明治39年(1906年)に刊行された女学生向けのガイドブック[注 19]には「女子英学塾の教育は極めて厳しく、並大抵の勉強ではついて行けない」旨が記されている[97]。厳しさの背景には、高等女学校の英語教育のレベルが一般的に低い状況において[注 20]、塾における3年間の教育で、英語教員免許状を取得できるレベルまで学生を鍛え上げねばならない、という事情もあった[98]

梅子、アリス(明治35年〈1902年〉に2年の任期を終えて帰国)アナ・ハーツホン(明治35年〈1902年〉にアリスと入れ替わりで来日して、昭和15年〈1940年〉まで一度も報酬を受け取らずに塾で教鞭を執り、病に倒れた梅子の志を引き継いで生涯を塾に捧げた[99]らは無報酬で塾に奉仕していたものの[注 21]、学生の納める授業料(学生1名につき年額24円)のみでは塾は到底成り立たず、学生や教師の増加に伴う拡張のための土地建物の購入費など、塾の経営は常に厳しかった[102]。主にアメリカの支援者からの寄付金が大きな役割を果たし、梅子は支援者への手紙を書き続け、1か月に300通を書いたこともあった[103][104]。塾の顧問を務めていた大山捨松を介して、捨松のヴァッサー大学の同級会(クラス・オブ・’82)から塾に寄せられた50ドルの寄付金に対し、深い感謝を表し、寄せられた50ドルの詳細な使途を伝えた梅子の手紙(明治35年〈1905年〉8月31日付)が残っている[105]

東京市麹町区一番町(現:東京都千代田区三番町[106])で明治33年(1900年)9月に発足した塾は、麹町区元園町(現:東京都千代田区麹町[107]。明治34年〈1901年〉4月に移転[108])を経て、明治36年(1903年)2月、新築落成した麹町区五番町(現:東京都千代田区一番町[109])の恒久的な校舎に移った[110][111]。明治35年(1902年)の夏に、塾が五番町の土地建物を購入した際の代価は1万円であり、ボストンのウッズ夫人(Mrs. Henry Woods[111])から寄せられた大口の寄付金で大部分が賄われた[111]

明治36年(1903年)に専門学校令が公布されると、塾は翌明治37年(1904年)に専門学校の認可を受けた(校名「女子英学塾」は変更なし)[112]。同年、「社団法人女子英学塾」の設立許可により、塾は社団法人に移行した[113][注 22]。明治38年(1905年)、塾は、私立女子教育機関としては初めてとなる、無試験検定による英語教員免許状の授与権を与えられた[94][注 23]

明治38年(1905年)10月17日、梅子を会長として日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立された[116]。大正4年(1915年)8月には、軽井沢の夏期学校で「日本の婦人運動」(Women's Movement in Japan )と題して講演、長時間議論を行った[117]。その要旨は「ジャパン・アドバタイザー」で紹介され、後に米国の「クリスチャン・サイエンス・モニター」に掲載された[118]

長期の闘病、死去

塾の創業期に健康を損なった梅子は、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任。鎌倉の別荘での長期の闘病を経て、梅子は昭和4年(1929年8月16日脳出血のため[119]死去した。満64歳没[119]。生涯独身を貫いた。梅子の葬儀は、東京市麹町区五番町の女子英学塾講堂での校葬(キリスト教式)として行われ、会葬者は約1千人に上り、昭和天皇皇后から祭祀金一封が下賜された[120][121]。墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある[4]

津田塾大学へ

塾は、広い校地を得られる郊外への移転、さらには早くからの梅子の念願であった「真の女子大学の設立[注 24]」を目指して、大正11年(1922年)に東京府北多摩郡小平村(現:東京都小平市)に2万5千の校地を取得し、塾の拡張・女子大学の設立を目指す募金活動を開始した[122][123]。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で、大火災に見舞われた東京市の中心部に位置する麹町区五番町(現:東京都千代田区一番町)の校舎は全焼し、女子大学の設立どころか塾の存続すら危ぶまれる窮境となった[124][注 25]。この危機に際し、既に63歳になっていたアナ・ハーツホンは、急遽アメリカに帰国し、梅子の実妹、かつ塾の卒業生でサンフランシスコに在住していた安孫子余奈子(1880-1944[125])の協力を得て、50万ドル[126](公定為替レートで100万円)を目標とする募金活動を展開した[127][128]。3年間に渡るアナの献身的な努力により、塾は目標金額を達成する寄付金(総額は85万1784円12銭、利子を加えると100万円を超えた[129])を得て、塾の復興と小平キャンパスの建設を果たした[110][126][130]

塾は、昭和6年(1931年)に落成した小平キャンパスに移転し[110][注 26]、梅子の死去から4年が過ぎた昭和8年(1933年)に梅子を記念して校名を「津田英学塾」に改めた[133][注 27]。塾は太平洋戦争の戦禍を乗り越え[注 28][注 29]、戦後の学制改革を経て「津田塾大学」となり、梅子の女子教育への思いを今に継承している[133][136]

紙幣肖像に採用

令和6年(2024年)上半期を目処に執行される予定の紙幣改定に於いて、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まった[137][138]

日本婦人米国奨学金

梅子は、一回目のアメリカ留学(1871-82年)の際に、ペンシルベニア州フィラデルフィアの資産家・慈善家であるメアリー・モリス夫人(Mrs. Mary Harris Morris. 1836-1924[26])の知遇を得ていた[27][28][29]。二回目のアメリカ留学(1889-92年)中の明治24年(1891年)に梅子が日本女性をアメリカに留学させるための奨学金の創設活動を始めると、梅子の訴えに共鳴したモリス夫人は募金委員長を引き受けて8千ドルの基金を集め、明治25年(1892年)に「日本婦人米国奨学金[139](American Scholarship for Japanese Women[140][141])が発足した[27][140]。この奨学金は、基金の利子によって3-4年おきに1名を日本からアメリカに留学させ得る規模であった[27][140]。この奨学金は、昭和51年(1976年)に発展的に解消するまでの間に、計25人[142]の日本女性のアメリカ留学を実現させた[27][143]

第一号受給者として1893年に渡米した松田道[144][145](1868-1956)は1899年にブリンマー大学を卒業し[142][146]、大正11年(1922年)に同志社女子専門学校(現:同志社女子大学)校長となった。その他、河井道[144][145]恵泉女学園創立者。ブリンマー大学1904年[142])、鈴木歌子[145](明治33年〈1900年〉に女子英学塾が発足した際の教員の一人[147]。女子学習院教授[148]。ブリンマー大学1904年-1906年)、星野あい[144][145](女子英学塾塾長、津田英学塾塾長、津田塾専門学校校長、津田塾大学学長。ブリンマー大学1912年[142])、藤田たき[144][145](津田塾大学学長。女性初の国連総会日本政府代表[144]。ブリンマー大学1925年[142])など、この奨学金によって留学した多くの女性が、日本における女子教育の指導者となった[145][149]

また、梅子の母校であり、奨学金留学生を受け入れたブリンマー大学の卒業生には、レオニー・ギルモアなど、日本で英語教師となった者もいる。


注釈

  1. ^ 明治17年までの初回米国留学に関する公文書(アジア歴史資料センター)では「津田梅」が使用され、明治18年9月22日付官報・官庁彙報欄では「宮内省御用掛被仰付奏任官ニ準シ取扱候事 津田梅子」と表記されている。明治期の女性名での子の使用については「子 (人名)」参照。「ノート:津田梅子#本名」を参照。
  2. ^ 大正5年(1916年)に梅子が上梓した英文書籍 Girl's Taisho Readers, Tokyo: Kaiseikwan, 1916. では、梅子のフルネームは ”Umé Tsuda” とクレジットされている[3]津田塾大学・小平キャンパス構内にある梅子の墓所(昭和6年〈1931年〉に建立[4])の墓碑銘は ”UME TSUDA / DECEMBER 31-1864 / AUGUST 16-1929” である[5]
  3. ^ 瓜生繁子(旧姓:永井)が晩年に記した回想記に「洋服は二、三日でできあがってきて、私たちは幸せだった。」(原文は英語、亀田帛子による和訳、[13])と記載されている。
  4. ^ チャールズ・ランマン 英語版の著書は30点を超えるが、特に Private Life of Daniel Webster, 1852. が有名である[16]。チャールズ・ランマンは、アメリカ東部の著名知識人の一人であった[16]
  5. ^ ランマン夫妻には子供がなかった[19]
  6. ^ 現存する、梅子からランマン夫人あての最後の手紙は、明治44年(1911年)のものである[21]
  7. ^ 梅子は、世良田亮との縁談以外に、神田乃武(英学者)、中島力造(倫理学者)の2名とも縁談があったという[51][52]
  8. ^ 伊藤博文は、岩倉使節団の大使の一人であり、使節団と共に渡米した、梅子たち女子留学生の面倒を親身に見ていた[55]
  9. ^ 華族女学校の校長であった西村茂樹は、梅子の父である津田仙と同じく元・佐倉藩士であり、同じく明六社の社員であった[59]
  10. ^ 古川安の研究によると、梅子は2回目の留学にあたり辞職願を華族女学校に提出していた[64]。古川は、学習院院長の大鳥圭介と華族女学校校長の西村茂樹の取り計らいにより、留学から帰国した後も華族女学校に勤務するという条件で、同校教授としての俸給を受けながらの2年間の留学が認められたのであろう、と述べている[64]
  11. ^ 当時ブリンマー大学に在職していて1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガンに師事、梅子はカエル卵の卵割と体軸の方向性について1891年から1892年にかけて実験を行い1892年の春に成果をまとめた。モーガンは1893年の春に華族女学校の教師津田うめとの共著論文として5章から構成される論文にまとめたが、梅子の成果は第2章にほぼそのままの形で使用された[68]。本人はおろか弟子、孫弟子8人がノーベル賞を受賞するモーガンの影響は、梅子にも計り知れないものがあった。
  12. ^ 古川安は、「保井コノが明治44年(1911年)にイギリスの Annals of Botany に論文を発表したのが、日本人女性の論文が欧米の学術雑誌に掲載された最初の事例である」とする論述が散見されるが、それは誤りであり、梅子は保井に17年先んじている、と述べている[70]
  13. ^ オーシロ・ジョージは、女子英学塾を支援し続けたフィラデルフィア委員会に参加した人々の多くが、梅子と親しかった新渡戸稲造・メアリ夫妻の人脈に連なる人々であったことを指摘している[82]
  14. ^ 明治33年(1900年)に梅子が女子英学塾を創設した際の新聞広告や報道記事には、必ず「女子英学塾 顧問 侯爵夫人大山捨松」と記載されている[86]。捨松は同年9月14日の開校式に出席し、『私立女子英学塾日誌』の記事には「大山侯爵夫人臨席」と特記されている[86]。侯爵夫人である捨松には、その名を連ね、その姿を見せるだけで、女子英学塾の信用を高めて梅子を助ける力があった。
  15. ^ 新渡戸稲造は、女子英学塾が開校した明治33年(1900年)9月にはアメリカに滞在していたが、明治34年(1901年)1月末に日本に帰国すると、塾での課外講義を何度も行って梅子を助けた[87]
  16. ^ 巌本善治は、二週間に一度、塾での課外講義を行って梅子を助けた[87]。巌本の講義は、塾の学生から人気が高かったという[87]
  17. ^ 上野栄三郎は、梅子の実姉である琴子の夫、クリスチャン、実業家[88]。現役の実業家として活躍しながら、塾の経営と経理財務を指導し、自らの社会的信用と人脈を駆使して、塾のために何度も資金調達を行った[88]
  18. ^ 明治33年(1900年)9月11日から13日までの3日間で「入学試験」を梅子とアリスの二人で行った[95]。ただし、この「入学試験」は、選抜試験ではなく、それぞれの学生の学力を把握して、適切なクラス(学年)に振り分けるための試験であった[95]
  19. ^ 中村千代松『実地精査 女子遊学便覧』(女子文壇社、1906年国立国会図書館デジタルコレクション)。
  20. ^ 塾の開校から10年以上が過ぎた1910年代半ばに塾で学んだ卒業生は、自分の卒業した高等女学校の英語教師が「本校での英語教育の目的は、結婚後に夫の洋書を本棚に逆さに並べないようにすること、輸入品の缶詰の中身が何なのか分かるようにすることである」という旨を言っていた、と回想している[98]
  21. ^ アリスは兼任していた女子高等師範学校嘱託[100]としての報酬で、梅子は女子高等師範学校講師としての報酬、山階宮家岩崎家三菱財閥)での家庭教師としての報酬で、それぞれ生活していた[101]。梅子とアリスは共に塾に住み込んでいたが、アリスは「家賃」を塾に支払って苦しい経営を助けた[101]
  22. ^ 明治37年の設立時の社団法人女子英学塾の理事は津田梅子、大山捨松の2名[114]。社員は巌本善治元田作之進新渡戸稲造桜井彦一郎上野栄三郎、阿波松之助の6名[114]
  23. ^ 無試験検定による教員免許状の授与権は、高等師範学校帝国大学・官立高等学校・官立専門学校、及び、「文部省が認可した公立学校・私立学校」に与えられていた[115]
  24. ^ 大正11年(1922年)の時点で、日本に「大学令に基づく女子大学」は未だ存在しなかった。女子英学塾を含め、日本の女子高等教育機関は、専門学校令に基づく旧制専門学校のレベルに留まっていた。
  25. ^ 関東大震災で東京市麹町区五番町の建物を全て失った塾の財産は、五番町の校地・小平の新校地のみであり、塾の基本金は5万円に満たなかった[124]
  26. ^ 昭和6年(1931年)の8月末に小平キャンパスの校舎や寄宿舎など主要な建物が竣工し、同年9月から小平キャンパスでの授業を開始した[131]。全工事が完了したのは昭和7年(1932年)1月30日、新築落成式が挙行されたのは同年5月21日であった[132]
  27. ^ 女子英学塾の英文校名は創設当初から”Tsuda College”であり、日本国内でも「津田塾」と通称されていた[133]
  28. ^ 昭和10年(1935年)頃からのアメリカ・イギリスとの関係悪化による「英語不要論」の台頭により、全国の高等女学校の英語科が全廃に近い状態になったことは、明治33年(1900年)の創設以来、「英語科教師の育成」を第一にして来た塾にとって強烈な逆風となった[134][135]。塾の卒業生の主な進路である英語科教師の需要は激減し、塾への入学志願者も激減した[135]。第2代塾長を務めていた星野あいは、昭和17年(1942年)に、理科(数学科と物理化学科)を増設して、校名から「英学」を外して「津田塾専門学校」とすることを決定して認可を申請し、昭和18年(1943年)1月に認可された[134]
  29. ^ 塾の小平キャンパスは、昭和20年(1945年)当時の東京市街地、軍需工場、軍事施設のいずれからも遠く離れており、太平洋戦争末期の空襲による被害を免れた。
  30. ^ 梅子が自ら塾の教壇に立っていた時代(明治33年〈1900年〉の開校から、大正5年〈1916年〉頃まで)、梅子のような「英語の正しい発音を教える能力」を有する英語教師は稀であった。
  31. ^ 津田塾大学 津田梅子資料室には、梅子が愛用した金側の懐中時計が所蔵されている(「津田塾大学デジタルアーカイブ」)。

出典

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