津田梅子 人物像

津田梅子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)

人物像

生涯、母語は英語

幼少からのアメリカ生活で、梅子は日本語を完全に忘れていた[167]。留学時に梅子より年長であった捨松と繁子は、比較的早期に日本語を取り戻したが、梅子は日本語の習得に苦しんだ[168][169]。生涯を通じて、梅子の話す日本語は外国人風の発音で、梅子の母語(思考の言語手段)は英語であった[170]。捨松の娘の証言によると、捨松・繁子・梅子の3人同士の会話は常に英語であったという[171]

現存する梅子の書き物は、公的書類に「津田梅子」と漢字で署名したようなケースを除き、ほとんど全て英語である[172]。生涯を通し、梅子が自らの名で発表した日本語の刊行物は少なくないが、いずれも梅子が自ら書いたものではなく、梅子が話すのを編者・記者が口述筆記したものと考えられる[172]

厳格な英語教師

英語教師として女子英学塾の教壇に立つ際は、極めて厳格であったことを示す逸話が多い。

開校当時の女子英学塾では、あまりの厳しさから脱落者が相次いだ[173]。塾が開校した6年後の明治39年(1906年)に刊行された女学生向けのガイドブック[注 30]には「女子英学塾の教育は極めて厳しく、並大抵の勉強ではついて行けない」旨が記されている[174]。厳しさの背景には、高等女学校の英語教育のレベルが一般的に低い状況において[注 31]、塾における3年間の教育で、英語教員免許状を取得できるレベルまで学生を鍛え上げねばならない、という事情もあった[175]

塾の学生たちに対しては「自学自習が基本であり、授業は疑問を解決する場」という方針を示し、学生たちは完璧な予習を求められた[173]。英語の発音指導は特に厳しく、”No, no! Once more! Once more!” [176]と、正しい発音をできるまで何十回でも繰り返させた[152][177][176][注 32]

塾の第1回卒業生の一人は、下記のように述べている。

私はあのやうに身にしみた授業を受けた事は曽てなく、……、先生は何事も何事もいい加減な事はお嫌ひでありました。……自分で辞書の隅から隅まで探し、適訳を見つけさせました…… — 出典には氏名の記載あり、[178]

女子英学塾塾長(第2代)・津田塾大学学長(初代)を務めた星野あい(明治39年〈1906年〉女子英学塾卒業)は、下記のように述べている。

先生から直接指導を受けたのは一年半に過ぎなかったが、その授業の徹底、少しのごまかしも許さぬ厳しさは身に沁みて今に至るも忘れることは出来ない。 — 昭和30年(1955年)、星野あい[107]

塾の教え子の一人は、下記のように述べている。

先生は日本婦人に稀にみる熱と力の人で、その熱と力を集中しての訓練は、峻厳をきわめ、怠け者や力不足の者は学校に居たたまれぬほどであった。
その代わりに学生の態度が真剣で熱心であると、人一倍喜ばれた。はなはだしい愚問でないかぎり、生徒がいくらくどく質問しても、決していやな顔をされず、得心のいくまで教えられた。時には生徒が先生を言い負かすようなことがあっても、怒られぬのみかかえってその意気を喜ばれた。 — 教え子の氏名などは出典に記載なし、[179]

女子英学塾の第10回卒業生である山川菊栄の回想(『山川菊栄集 8 このひとびと』〈岩波書店、1982〉)によると、良家の令嬢が集う華族女学校や女子高等師範学校の教授を務めていた時の梅子は、アメリカの習慣通りに鞭を持って教室に現れて令嬢たちを驚愕させた、という[62]

素顔の梅子

女子英学塾の第5回卒業生である岡村品子(明治15年〈1882年〉- 昭和59年〈1984年〉)の、昭和56年(1981年)における回想によると、塾の教壇に立つ時の梅子は基本的に和服姿(着物に)で、懐中時計を常に帯びていた[177][注 33]。梅子は岡村より小柄であった[177]。岡村は塾の寄宿生で、塾に住み込んでいる梅子と寝食を共にしていたが、教壇を降りた梅子は朗らかで良く笑う人であり、アメリカ育ちとは思えないような、日本的かつ質素な生活をしていた[177]。雑談をするときの梅子は、本題は英語で話し、次いで日本語で説明をする、といった、英語と日本語を随時切り替える話し方をした[177]

古木宜志子は

華族女学校に就職してから一、二年間、梅子がおしゃれに気を使い、名士と交わり、鹿鳴館で踊ったことがあったとは信じられないほど、二度目の留学後はすっかり落ちつきを見せ、塾設立以後、学生の思い出が語る梅子は禁欲的なまでに奢美をさけた生活を送った。 — 古木宜志子、[180]

と述べ、クエーカー(清貧を尊び、平等主義を旨とする。ブリンマー大学はクエーカーが作った大学であり、盟友であるアナ・ハーツホンは敬虔なクエーカーであった)の梅子への影響を指摘している[180]

人物評

山川菊栄の評

女子英学塾の第10回卒業生であり、明治43年(1910年)前後に梅子の授業を受けた山川菊栄は、下記のように記している。

津田先生にとつては教へることが最大の快楽であり、唯一の趣味であるとさへ見えた。どんなに暗い、ムツツリしたお顔で教室へ入つて来られた時でも、授業の進行と共に、先生のお顔は晴れやかに輝き、最後には快活な笑ひ声と共に、凱旋将軍のやうに意気揚々と、恰かも又ほしい物をあてがはれた赤児のやうに、満足し切つて出て行かれるのだつた。 — 山川菊栄、塾同窓会『会報』第35号「津田梅子先生記念号」、昭和5年〈1930年〉7月、[176]

寺沢龍の評

寺沢龍は、梅子を下記のように評している。

その頑固さと実直さは父親ゆずりのものであり、妥協を許さない潔癖な性格であった。人柄は地味で表立ったことを好まなかったが、内心には熱く一徹なものを秘めており、正義感と責任感がつよく、いったん思い込むと容易に信を曲げなかった。気短で癇癪のつよいところも父親に似て、感情が直截にあらわれたともいわれている。 — 寺沢龍、[179]

大庭みな子の評

大庭みな子は、梅子を下記のように評している。

いったい梅子は幼いときから、日本人、アメリカ人、女性、男性を問わず、どうしてこうも次つぎとめぐり逢う有力な人びとに助けられる運命にあるのか。まず、チャールズとアデリン・ランマン夫妻、伊藤博文森有礼大鳥校長、西村校長、アリス・ベーコン捨松繁子、モリス夫妻、それぞれの立場で助力を惜しまなかった。そして冒頭に述べたアンナ・ハーツホンなどはまさにその一生を津田塾のために捧げたといってよいくらいである。 — 大庭みな子[181]
実際梅子には私利私欲というものがほとんどなかった。 — 大庭みな子[182]
梅子自身に聊かも私心がないだけに、この素直すぎるといえる援助を願う気持ちは不可思議に相手の心を動かした。 — 大庭みな子[183]
梅子は塾の創立を含め生涯に亙ってこの種の基金を集める教育事業家としても異様な才があった。彼女は自分のためには信じられないくらい質素で、集められた金は全て後進の女性を育てるために使われた。それ故にこそこれほどの浄財が彼女のもとに寄せられたのである。 — 大庭みな子[184]

山崎孝子の評

山崎孝子は、梅子を下記のように評している。

既存の資料を整理し、梅子の教えを親しく受けた人々から思い出などを聞きつつ、私が知ったことは、梅子がみずから語ったごとく、稀にみる「ふしぎな運命」を受け、選ばれた女性の栄光に満ちた道をたどりながらも、名利を求める心がいささかもなく、虚栄・虚飾から遠い地点を苦難を負って歩んだ、ということであった。梅子に関する資料が少ないことも、こうした梅子の美質と無関係ではない。多少あった現資料も、関東大震災・太平洋戦争の戦災などで焼失した。梅子の住んだ家・別荘の類も何一つ現存しない。ただ私どもの眼前に津田塾大学が現存し、同大学の東北隅には梅子の墓所がある。これが梅子が世に遺したすべてであった。 — 1962年3月 山崎孝子、[185]

注釈

  1. ^ 明治17年までの初回米国留学に関する公文書(アジア歴史資料センター)では「津田梅」が使用され、明治18年9月22日付官報・官庁彙報欄では「宮内省御用掛被仰付奏任官ニ準シ取扱候事 津田梅子」と表記されている(明治期の女性名での子の使用については「子 (人名)」参照。論点については「ノート:津田梅子#本名」参照)。また、大正5年(1916年)に梅子が上梓した英文書籍 Girl's Taisho Readers, Tokyo: Kaiseikwan, 1916. では、梅子のフルネームは ”Umé Tsuda” とクレジットされている[3]津田塾大学・小平キャンパス構内にある梅子の墓所(昭和6年〈1931年〉に建立[4])の墓碑銘は ”UME TSUDA / DECEMBER 31-1864 / AUGUST 16-1929” である[5]
  2. ^ 瓜生繁子(旧姓:永井)が晩年に記した回想記に「洋服は二、三日でできあがってきて、私たちは幸せだった」(原文は英語、亀田帛子による和訳、[22])と記載されている[22]
  3. ^ チャールズ・ランマン 英語版の著書は30点を超えるが、特に Private Life of Daniel Webster, 1852. が有名である。チャールズ・ランマンは、アメリカ東部の著名知識人の一人であった。[25]
  4. ^ 当時、ランマン家には画家の川村清雄も寄宿しており、滞在中に梅子の看病をおこなったという記録も残っている[26]
  5. ^ ランマン夫妻には子供がなかった[30]
  6. ^ 現存する、梅子からランマン夫人あての最後の手紙は、明治44年(1911年)のもの[33]
  7. ^ 梅子に洗礼を授けた牧師が、梅子の洗礼について新聞に寄稿した[36]。新聞の名称などは不明[36]。梅子が新聞の切り抜きを後年まで所持していた[36]
  8. ^ 梅子は、世良田亮との縁談以外に、神田乃武(英学者)、中島力造(倫理学者)の2名とも縁談があったという[59][60]
  9. ^ 伊藤博文は、岩倉使節団の大使の一人であり、使節団と共に渡米した、梅子たち女子留学生の面倒を親身に見ていた[63]
  10. ^ 古川安の研究によると、梅子は2回目の留学にあたり辞職願を華族女学校に提出していた[72]。古川は、学習院院長大鳥圭介と華族女学校校長西村茂樹の取り計らいにより、留学から帰国後も華族女学校に勤務するという条件で、同校教授としての俸給を受けながらの2年間の留学が認められたのであろう、と推測している[72]
  11. ^ 1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガン(弟子及び孫弟子8人がノーベル賞受賞)の指導の下、梅子はカエル卵の卵割と体軸の方向性について1891年から1892年にかけて実験を行い、1892年春に成果をまとめた。モーガンは1893年春に華族女学校の教師津田うめとの共著論文として全5章からなる論文にまとめたが、梅子の成果は第2章にほぼそのままの形で使用された[77]
  12. ^ 古川安は、「保井コノが明治44年(1911年)にイギリスの Annals of Botany に論文を発表したのが、日本人女性の論文が欧米の学術雑誌に掲載された最初の事例である」とする論述が散見されるが、それは誤りであり、梅子は保井に17年先んじている、と述べている[79]
  13. ^ オーシロ・ジョージは、女子英学塾を支援し続けたフィラデルフィア委員会に参加した人々の多くが、梅子と親しかった新渡戸稲造・メアリ夫妻の人脈に連なる人々であったことを指摘している[92]
  14. ^ 明治33年(1900年)に梅子が女子英学塾を創設した際の新聞広告や報道記事には、必ず「女子英学塾 顧問 侯爵夫人大山捨松」と記載されている[96]。捨松は同年9月14日の開校式に出席し、『私立女子英学塾日誌』の記事には「大山侯爵夫人臨席」と特記されている[96]
  15. ^ 新渡戸稲造は、女子英学塾が開校した明治33年(1900年)9月にはアメリカに滞在していたが、明治34年(1901年)1月末に日本に帰国すると、塾での課外講義を何度も担当した[97]
  16. ^ 巌本善治は、二週間に一度、塾での課外講義を担当した[97]。巌本の講義は、塾の学生から人気が高かったという[97]
  17. ^ 上野栄三郎は、梅子の実姉である琴子の夫、クリスチャン、実業家[98]。現役の実業家として塾の経営と経理財務を指導し、自らの社会的信用と人脈を駆使して、塾のために何度も資金を調達した[98]
  18. ^ 高等官5等、年俸800円[102]。当時の36歳の日本人女性にとっての最高の職業的地位[103]
  19. ^ 明治33年(1900年)9月11日から13日までの3日間で「入学試験」を梅子とアリスの二人で行った[106]。ただし、この「入学試験」は、選抜試験ではなく、それぞれの学生の学力を把握して、適切なクラス(学年)に振り分けるための試験であった[106]
  20. ^ アリスは兼任していた女子高等師範学校嘱託[109]としての報酬で、梅子は女子高等師範学校講師としての報酬、山階宮家岩崎家三菱財閥)での家庭教師としての報酬で、それぞれ生活していた[110]。梅子とアリスは共に塾に住み込んでいたが、アリスは「家賃」を塾に支払って苦しい経営を助けた[110]
  21. ^ 明治37年の設立時の社団法人女子英学塾の理事は津田梅子、大山捨松の2名[122]。社員は巌本善治元田作之進新渡戸稲造桜井彦一郎上野栄三郎、阿波松之助の6名[122]
  22. ^ 無試験検定による教員免許状の授与権は、高等師範学校帝国大学・官立高等学校・官立専門学校、及び、「文部省が認可した公立学校・私立学校」に与えられていた[123]
  23. ^ 大正11年(1922年)の時点で、日本に「大学令に基づく女子大学」は未だ存在しなかった。女子英学塾を含め、日本の女子高等教育機関は、専門学校令に基づく旧制専門学校のレベルに留まっていた。
  24. ^ 関東大震災で東京市麹町区五番町の建物を全て失った塾の財産は、五番町の校地・小平の新校地のみであり、塾の基本金は5万円に満たなかった[140]
  25. ^ 昭和6年(1931年)の8月末に小平キャンパスの校舎や寄宿舎など主要な建物が竣工し、同年9月から小平キャンパスでの授業を開始した[147]。全工事が完了したのは昭和7年(1932年)1月30日、新築落成式が挙行されたのは同年5月21日であった[148]
  26. ^ 女子英学塾の英文校名は創設当初から”Tsuda College”であり、日本国内でも「津田塾」と通称されていた[149]
  27. ^ 昭和10年(1935年)頃からのアメリカ・イギリスとの関係悪化による「英語不要論」の台頭により、全国の高等女学校の英語科が全廃に近い状態になったことは、明治33年(1900年)の創設以来、「英語科教師の育成」を第一にして来た塾にとって強烈な逆風となった[150][151]。塾の卒業生の主な進路である英語科教師の需要は激減し、塾への入学志願者も激減した[151]。第2代塾長を務めていた星野あいは、昭和17年(1942年)に、理科(数学科と物理化学科)を増設して、校名から「英学」を外して「津田塾専門学校」とすることを決定して認可を申請し、昭和18年(1943年)1月に認可された[150]
  28. ^ 塾の小平キャンパスは、昭和20年(1945年)当時の東京市街地、軍需工場、軍事施設のいずれからも遠く離れており、太平洋戦争末期の空襲による被害を免れた。
  29. ^ ブリンマー大学の卒業生一覧[161]に名前の記載がある。
  30. ^ 中村千代松『実地精査 女子遊学便覧』(女子文壇社、1906年国立国会図書館デジタルコレクション)。
  31. ^ 塾の開校から10年以上が過ぎた1910年代半ばに塾で学んだ卒業生は、自分の卒業した高等女学校の英語教師が「本校での英語教育の目的は、結婚後に夫の洋書を本棚に逆さに並べないようにすること、輸入品の缶詰の中身が何なのか分かるようにすることである」という旨を言っていた、と回想している[175]
  32. ^ 梅子が自ら塾の教壇に立っていた時代(明治33年〈1900年〉の開校から、大正5年〈1916年〉頃まで)、梅子のような「英語の正しい発音を教える能力」を有する英語教師は稀であった。
  33. ^ 津田塾大学 津田梅子資料室には、梅子が愛用した金側の懐中時計が所蔵されている(「津田塾大学デジタルアーカイブ」)。

出典

  1. ^ 山崎 1988, p. 20
  2. ^ 橘木 2022, p. 125
  3. ^ Miss U. Tsuda, Prof. K. Kumamoto, Girl's Taisho Readers, Book Four, Tokyo: Kaiseikwan, 1916.(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
  4. ^ a b 山崎 1988, pp. 284–286, 五 晩年:3 墓地
  5. ^ plum garden:津田塾探訪 #2 - 津田梅子墓所”. 津田塾大学. 2022年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月12日閲覧。
  6. ^ 山崎 1962, pp. 16–17.
  7. ^ 山崎 1962, pp. 19–20.
  8. ^ 山崎 1962, pp. 23–24.
  9. ^ a b c 山崎 1962, p. 24.
  10. ^ 亀田 2005, p. 14
  11. ^ 寺沢 2009, p. 32
  12. ^ 山崎 1988, p. 49
  13. ^ 山崎 1962, pp. 24–25.
  14. ^ a b 井上 2019, p. 8-9
  15. ^ 山崎 1962, pp. 27–31.
  16. ^ 山崎 1962, p. 31.
  17. ^ 山崎 1962, pp. 36–37.
  18. ^ 山崎 1962, pp. 43–46.
  19. ^ 寺沢 2009, pp. 28–29, 第1章 アメリカの熱狂的な歓迎:暁のサンフランシスコに入港
  20. ^ 山崎 1962, p. 49.
  21. ^ a b 山崎 1962, pp. 49–50.
  22. ^ a b 亀田 2005, pp. 10–15, 第1章 岩倉使節団と五人の女子留学生:1 出発
  23. ^ a b c 山崎 1962, p. 50.
  24. ^ 寺沢 2009, pp. 30–32, 第1章 アメリカの熱狂的な歓迎:和服を洋服に替えた岩倉大使と五人の少女
  25. ^ a b 山崎 1988, pp. 50–58
  26. ^ 高階 2003, pp. 3–4.
  27. ^ 山崎 1962, p. 66.
  28. ^ 山崎 1962, p. 71.
  29. ^ 山崎 1962, pp. 71–72.
  30. ^ 亀田 2005, pp. 28–30, 第2章 ジョージタウンでの生活-ランマン夫妻とともに:1 ランマン夫妻
  31. ^ 古木 1992, pp. 37–39, 第3章 アメリカ時代:ランマン夫妻の愛着
  32. ^ 大庭 2019b, 位置番号 2841。
  33. ^ a b 大庭 2019b, 位置番号 149 - 166。
  34. ^ 山崎 1988, pp. 80–81, 二 少女時代:5 梅子の修学 その1:梅子とキリスト教、山崎 1988, pp. 83–85, 二 少女時代:5 梅子の修学 その1:梅子の洗礼
  35. ^ a b 古木 1992, pp. 43–44, 第3章 アメリカ時代:梅子の受洗
  36. ^ a b c 古木 1992, pp. 59–60, 第3章 アメリカ時代:註
  37. ^ 亀田 2005, p. 83
  38. ^ 山崎 1988, pp. 97–98, 二 少女時代:7 梅子の修学 その2:梅子の旅行・ナイヤガラの滝をみる
  39. ^ a b c 飯野ほか編 2000, pp. 178–180, 第8章 メアリ・H・モリス奨学金-日本の女性に梅子と同じ機会を(内田道子):1 モリス家と日本人:梅子の願い
  40. ^ a b c d e Louise Ward Demakis, "No Madame Butterflies: The American Women's Scholarship for Japanese Women"「『蝶々さん』イメージを払拭して-日本の女子高等教育を支えた米国婦人奨学金」, (PDF), 1989年, 上智大学
  41. ^ a b c d 亀田 2005, pp. 55–60, 第2章 ジョージタウンでの生活-ランマン夫妻とともに:6 梅子とモリス夫人との出会い
  42. ^ a b c 山崎 1988, pp. 121–122, 三 私塾創立への歩み:3 留学の希望:モリス夫妻に留学の希望を伝える・モリス夫妻の紹介者ホイトニー
  43. ^ a b c 大庭 2019b, 位置番号 2153。
  44. ^ a b 亀田 2005, pp. 52–54, 第2章 ジョージタウンでの生活-ランマン夫妻とともに:5 留学延長の措置
  45. ^ a b 寺沢 2009, pp. 94–96, 第4章 五人の別離とアメリカでの新しい生活:三人の女子留学生に帰国命令
  46. ^ 寺沢 2009, pp. 120–121, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:十一年ぶりに日本に帰った捨松と梅子
  47. ^ 北海道立文書館所蔵「留学女生徒処分之件」明治15年2月20日~明治15年6月2日。
  48. ^ a b c 寺沢 2009, pp. 131–132, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:帰国しても仕事がなくて悩む捨松と梅子
  49. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 14–15, 第1章 津田梅子とその時代-女子高等教育発展との関わりを中心として(伊勢田耀子):1 留学前後と教育界:帰国女子の受入れ体制
  50. ^ a b 秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮
  51. ^ a b c 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:海軍中尉瓜生外吉との結婚
  52. ^ 生田 2017, 第3章 ヴァッサー・カレッジ時代:卒業-ショパンを弾く
  53. ^ a b 寺沢 2009, pp. 162–166, 第7章 捨松の結婚と梅子の孤愁:梅子は鬱屈した日々を過ごす
  54. ^ a b c 飯野ほか編 2000, pp. 81–82, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):2 帰国後:瓜生家-若者たちのサロン
  55. ^ 秦 2005, p. 188, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:瓜生外吉
  56. ^ 寺沢 2009, pp. 89–91, 第4章 五人の別離とアメリカでの新しい生活:繁子と若き日本海軍士官の異国の恋
  57. ^ 大庭 2019b, 位置番号 836。
  58. ^ 亀田 2005, pp. 74–76, 第3章 帰国から再留学まで:1 帰国直後のできごと:3 山川捨松の結婚と梅子の結婚観
  59. ^ 山崎 1988, pp. 119–120, 三 私塾創立への歩み:3 留学の希望:梅子の悩み
  60. ^ 寺沢 2009, pp. 143–146, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:学校創立の夢と結婚問題に悩む梅子
  61. ^ 亀田 2005, pp. 76–78, 第3章 帰国から再留学まで:1 帰国直後のできごと:4 女子教育への思い
  62. ^ a b 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:捨松と梅子-帰国はしたけれど
  63. ^ a b c d e f 亀田 2005, pp. 78–86, 第3章 帰国から再留学まで:2 伊藤博文と津田梅子:1 伊藤博文との再会・2 伊藤邸での日々
  64. ^ a b 山崎 1988, pp. 116–117, 三 私塾創立への歩み:2 華族女学校:当時の華族女学校
  65. ^ 亀田 2005, p. 95
  66. ^ 大庭 2019b, 位置番号 1905。
  67. ^ a b 寺沢 2009, pp. 196–201, 第9章 自己の信念と孤高に生きる津田梅子:津田梅子はふたたび米国への留学を目指す
  68. ^ a b 山崎 1988, pp. 121–122
  69. ^ a b 大庭 2019b, 位置番号 2152 - 2169。
  70. ^ 大庭 2019, p. 278, 解説-「言葉の命」を教えた人(髙橋裕子
  71. ^ 津田塾大学学長 髙橋裕子. “女性の力を信じることがこの国の未来を救う理由”. 朝日新聞. 2022年5月21日閲覧。
  72. ^ a b 古川 2022b, 第1章 アメリカに渡った少女:再留学の夢とその実現に向けて
  73. ^ 古川 2022b, 位置番号 142。
  74. ^ 山崎 1988, p. 134, 三 私塾創立への歩み:ブリンマー - カレッジ:留学期間、1年延期
  75. ^ a b 山崎 1988, p. 128, 三 私塾創立への歩み:4 ブリンマー - カレッジ:モーガン教授との共同研究
  76. ^ a b c d e f 亀田 2005, pp. 133–144, 第4章 ブリンマー大学留学から女子英学塾創設まで:1 ブリンマー大学と津田梅子:5 モーガン博士と津田梅子
  77. ^ a b Morgan, T. H. ,Tsuda, U. (1894). “The Orientation of the Frog's Egg”. Quarterly Journal of Microscopical Science Vol s2-35, Issue 139: 373-405, plate 24, 25. https://resolver.caltech.edu/CaltechAUTHORS:MORqjms94. 
  78. ^ Quarterly journal of microscopical science. 35. London: J. and A. Churchill [etc.]. (1893). https://www.biodiversitylibrary.org/item/49114 
  79. ^ a b 古川 2022b, 位置番号 165。
  80. ^ Tsuda University; Empowering Women to Make a Difference”. Akihisa KODATE, Prof. Dr.-Eng., Vice President for Public Relations and Student College of Policy Studies, Tsuda University. 2022年5月3日閲覧。
  81. ^ 山崎 1988, p. 131, 三 私塾創立への歩み:4 ブリンマー‐カレッジ:オズウィゴー師範学校で学ぶ
  82. ^ Bacon, Alice Mabel (1899). Japanese girls and women. Houghton, Mifflin and Company. LCCN 29-19932 
  83. ^ 山崎 1988, p. 137, 三 私塾創立への歩み:ブリンマー - カレッジ:ブリンマー留学を終了・ローズ学長の「証明書」
  84. ^ 山崎 1988, pp. 137–138, 三 私塾創立への歩み:ブリンマー - カレッジ:帰国
  85. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 111–113, 第5章 M・ケアリ・トマス-傑出したアメリカ女性と梅子の接点(高橋裕子):3 トマスと梅子の接点:ブリンマー大学在学中
  86. ^ a b 山崎 1988, pp. 160–170
  87. ^ 寺沢 2009, pp. 215–217, 第10章 わが道を歩む女子留学生たち:津田梅子は三度目のアメリカ渡航
  88. ^ a b 山崎 1988, p. 198, 4 女子英学塾とともに:フィラデルフィア委員会の送金
  89. ^ 亀田 2005, p. 185
  90. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 184–185, 第8章 メアリ・H・モリス奨学金-日本の女性に梅子と同じ機会を(内田道子):フィラデルフィア委員会
  91. ^ 亀田 2005, pp. 184–192, 第5章 女子英学塾創設:1 支援団体「フィラデルフィア委員会」の設立
  92. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 162–163, 第7章 津田梅子と新渡戸稲造-女子教育における二人のパイオニア(オーシロ・ジョージ):3 アメリカの支援者と新渡戸夫妻:梅子を支援した人びと
  93. ^ 山崎 1988, p. 177, 三 私塾創立への歩み:9 私塾創設:ミス-ベーコンの来日
  94. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 67–69, 第3章 アリス・ベーコンと大山捨松-梅子を支援したベーコン家の〈娘〉たち:おわりに-三人の夢の実現
  95. ^ 亀田 2005, p. 202
  96. ^ a b 亀田 2005, pp. 192–201, 第5章 女子英学塾創設:2 開校:1 開校準備・2 開校
  97. ^ a b c 亀田 2005, pp. 203–204, 第5章 女子英学塾創設:2 開校:3 開校時の授業と教師たち:(3) 課外授業の講師たち
  98. ^ a b c 寺沢 2009, pp. 228–230, 第11章 津田梅子の夢を実現した私塾の創立:津田梅子は「女子英学塾」を創立する
  99. ^ 大庭 2019b, 位置番号 2372。
  100. ^ 山崎 1988, pp. 177–178, 三 私塾創立への歩み:9 私塾創設:ミス-ベーコンの来日・桜井彦一郎幹事となる・創立の協力者
  101. ^ 華族女学校教授兼女子高等師範学校教授津田梅子依願免兼官ノ件”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2022年5月15日閲覧。
  102. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 23–25, 第1章 津田梅子とその時代-女子高等教育発展との関わりを中心として(伊勢田耀子):3 女子英学塾創設前後と教育界:女子英学塾の創設と発展
  103. ^ 大庭 2019, p. 212
  104. ^ RICCA 2021, p. 89
  105. ^ a b 飯野ほか編 2000, pp. 23–25, 第1章 津田梅子とその時代-女子高等教育発展との関わりを中心として(伊勢田耀子):3 女子英学塾創設前後と教育界:女子英学塾の創設と発展
  106. ^ a b 山崎 1988, p. 184, 四 女子英学塾とともに:1 開塾:開校式・十人の塾生
  107. ^ a b 古川 2022b, 第4章 英学塾の裏側で:熱血童女
  108. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 132–148, 第6章 アナ・コープ・ハーツホン-梅子と塾の娘たちのために捧げた一生(亀田帛子):4 女子英学塾教授として / 5 関東大震災とアナ・ハーツホン / 6 晩年 / おわりに-アナ・ハーツホンの遺品が語るもの
  109. ^ 亀田 2005, pp. 206–207, 第5章 女子英学塾創設:3 女子英学塾の発展:1 一番町校舎から元園町校舎へ
  110. ^ a b 寺沢 2009, pp. 231–233, 第11章 津田梅子の夢を実現した私塾の創立:アリスとアンナの梅子への友情
  111. ^ 山崎 1988, p. 208, 4 女子英学塾とともに:塾の財政状態
  112. ^ 山崎 1988, p. 209, 4 女子英学塾とともに:土地・建物の購入費
  113. ^ 大庭 2019, pp. 224–225
  114. ^ 久野 1988, pp. 228–234, 女子英学塾の誕生:発展する女子英学塾
  115. ^ RICCA 2021, p. 99
  116. ^ 山崎 1988, pp. 197–199, 四 女子英学塾とともに:3 元園町一丁目:フィラデルフィア委員会の送金・元園町一丁目の醍醐侯爵旧邸・元園町の間取り
  117. ^ RICCA 2021, p. 102
  118. ^ a b c 津田塾の歴史|津田塾大学” (日本語). 津田塾大学. 2022年3月6日閲覧。
  119. ^ a b 山崎 1988, pp. 206–211, 四 女子英学塾とともに:4 五番町十六番地
  120. ^ 山崎 1988, p. 213, 四 女子英学塾とともに:5 専門学校の認可:専門学校の認可を受ける
  121. ^ 山崎 1988, p. 213, 四 女子英学塾とともに:5 専門学校の認可:社団法人設立
  122. ^ a b 山崎 1988, p. 215
  123. ^ RICCA 2021, p. 106
  124. ^ 東京YWCA五十年のあゆみ
  125. ^ 中央公論社『歴史と人物 第8巻』(1978年)p.140
  126. ^ 昭和女子大学光葉会『近代文学研究叢書 第30巻』(1956年)p.382
  127. ^ 山崎 1962, pp. 248–249.
  128. ^ 山崎 1962, pp. 248–255.
  129. ^ 山崎 1962, p. 255.
  130. ^ 山崎 1962, p. 259.
  131. ^ a b 山崎 1962, pp. 266–267.
  132. ^ a b 山崎 1962, p. 283.
  133. ^ 山崎 1962, p. 276.
  134. ^ 山崎 1962, p. 279.
  135. ^ 山崎 1988, p. 279
  136. ^ 山崎 1988, pp. 280–281
  137. ^ 山崎 1988, p. 308, 略年譜(昭和4年・1929年)
  138. ^ 山崎 1988, pp. 269–270
  139. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 262–263, 第11章 星野あい-嵐の中の30年:2 大学への道:真の女子大学を
  140. ^ a b 飯野ほか編 2000, pp. 235–236, 第10章 安孫子余奈子-関東大震災後の塾再建に注いだ情熱:2 関東大震災と塾救済活動の開始:塾、灰燼に帰す
  141. ^ 飯野ほか編 2000, p. 230, 第10章 安孫子余奈子-関東大震災後の塾再建に注いだ情熱:はじめに
  142. ^ a b 山崎 1988, pp. 270–273
  143. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 237–239, 第10章 安孫子余奈子-関東大震災後の塾再建に注いだ情熱:2 関東大震災と塾救済活動の開始:「女子英学塾臨時救済委員会」設置
  144. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 135–140, 第6章 アナ・コープ・ハーツホン-梅子と塾の娘たちのために捧げた一生(亀田帛子):5 関東大震災とアナ・ハーツホン
  145. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 248–249, 第10章 安孫子余奈子-関東大震災後の塾再建に注いだ情熱:5 推進力:キリスト教
  146. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 229–256, 第10章 安孫子余奈子-関東大震災後の塾再建に注いだ情熱(飯野正子)
  147. ^ 山崎 1988, pp. 284–286, 第5章 晩年:3 墓地
  148. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 138–139, 第6章 アナ・コープ・ハーツホン-梅子と塾の娘たちのために捧げた一生(亀田帛子):5 関東大震災とアナ・ハーツホン:小平新校舎落成
  149. ^ a b c 山崎 1988, pp. 287–289, おわりに
  150. ^ a b 飯野ほか編 2000, pp. 264–265, 第11章 星野あい-嵐の中の30年:2 大学への道:第二次世界大戦と理科創設
  151. ^ a b 飯野ほか編 2000, p. 270, 第11章 星野あい-嵐の中の30年:3 英語教育:英語不要論
  152. ^ a b RICCA 2021, p. 122-125, 9つの質問でわかる! 津田梅子ってこんな人 この本の監修・津田塾大学津田梅子資料室に聞きました。
  153. ^ “新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します” (日本語) (HTML) (プレスリリース), 財務省, (2019年4月9日), https://www.mof.go.jp/currency/bill/20190409.html 2019年4月9日閲覧。 
  154. ^ “新紙幣を正式に発表 一万円札の裏は東京駅”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2019年4月9日). https://www.sankei.com/economy/news/190409/ecn1904090008-n1.html 2019年4月9日閲覧。 
  155. ^ 橘木 2022, pp. 87–109, 第3章 アメリカの大学へ留学する
  156. ^ a b c 山崎 1988, pp. 133–134, 三 私塾創立への歩み:4 ブリンマー - カレッジ:「日本婦人米国奨学金」の募集
  157. ^ 寺沢 2009, pp. 201–203, 第9章 自己の信念と孤高に生きる津田梅子:梅子は米国に再留学三年、生物学と教育・教授法を学ぶ
  158. ^ a b c d e f 飯野ほか編 2000, pp. 200–201, 第8章 メアリ・H・モリス奨学金-日本の女性に梅子と同じ機会を(内田道子):メアリ・H・モリス奨学金(ジャパニーズ・スカラシップ)受給者一覧表
  159. ^ 教育の変革を担った女性 津田梅子”. 内閣府. 2019年4月10日閲覧。
  160. ^ a b c d 山崎 1962, pp. 265–266.
  161. ^ Bryn Mawr College Calendar, 1914
  162. ^ 橘木 2022, p. 130
  163. ^ 山崎 1988, p. 266
  164. ^ a b 津田塾大学. “女性の力を信じることがこの国の未来を救う理由”. 朝日新聞. 2022年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月18日閲覧。
  165. ^ 瀬上拡子. “津田梅子” (PDF). 家族史研究会「女性史研究」第10集(1980年6月): 10-11. https://nwec.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=16636&item_no=1&page_id=4&block_id=58. 
  166. ^ 古木 1992, p. 129.
  167. ^ 山崎 1988, pp. 102–103
  168. ^ 飯野ほか編 2000, pp. 58–60, 第3章 アリス・ベーコンと大山捨松-梅子を支援したベーコン家の〈娘〉たち(高橋裕子):2 捨松の夢、梅子の夢、アリスの支え:結婚という岐路-捨松の婚約
  169. ^ 大庭 2019, pp. 71–72, 94
  170. ^ 寺沢 2009, pp. 121–124, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:日本語が通じない困惑と焦燥
  171. ^ 久野 1988, pp. 133–138, 失意の日々:仕事探し
  172. ^ a b 亀田 2005, pp. 154–157, 第4章 ブリンマー大学留学から女子英学塾創立まで:2 塾創立へ向けて:1 梅子の、日本語による講演と日本語による刊行物
  173. ^ a b 山崎 1988, pp. 194–197, 第四章 女子英学塾とともに:2 一番町
  174. ^ 古川 2022b, 第4章 英学塾の裏側で:熱血童女
  175. ^ a b 古木 1992, pp. 161–163, 第9章 女子英学塾開校:英語教育の特色
  176. ^ a b c 亀田 2005, pp. 226–228, 第5章 女子英学塾創設:3 女子英学塾の発展:8 教室での梅子-山川菊榮の目を通して
  177. ^ a b c d e 大庭 2019b, 位置番号 2527 - 2630。
  178. ^ 橘木 2022b, 第4章 帰国後の梅子と津田英学塾:女子英学塾の設立当初の話題
  179. ^ a b 寺沢 2009, pp. 268–271, エピローグ-大山捨松・瓜生繁子・津田梅子の最期:嵐の去った日の津田梅子の臨終
  180. ^ a b 古木 1992, pp. 205–206, 結び:科学と信仰
  181. ^ 大庭 2019, p. 195
  182. ^ 大庭 2019, p. 196
  183. ^ 大庭 2019, p. 224
  184. ^ 大庭 2019b, 位置番号 2264
  185. ^ 山崎 1988, pp. 1–3, まえがき
  186. ^ 『官報』第1123号「叙任及辞令」1887年4月1日。
  187. ^ 『官報』第2966号「叙任及辞令」1893年5月22日。
  188. ^ 『官報』第4276号「叙任及辞令」1897年10月1日。
  189. ^ 『官報』第4964号「叙任及辞令」1900年1月22日。
  190. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  191. ^ 丹羽基二『姓氏?苗字研究の決定版』(秋田書店、1970年)[要ページ番号]
  192. ^ 結婚の話なんてしないで! 津田梅子 明治“アラウンド20”の悩み”. 歴史秘話ヒストリア. NHK. 2022年3月5日閲覧。
  193. ^ 八重の桜 第43話「鹿鳴館の華」”. WEBザテレビジョン. KADOKAWA. 2022年3月5日閲覧。
  194. ^ “知花くらら、本格的に女優デビュー!大河「花燃ゆ」に出演”. 映画.com (株式会社エイガ・ドット・コム). (2015年10月11日). https://eiga.com/news/20151011/1/ 2022年3月5日閲覧。 
  195. ^ “広瀬すず“新5000円札”津田梅子を演じる「『私、演じたんです!』って言いたくなると…」”. ORICON NEWS (oricon ME). (2021年12月21日). https://www.oricon.co.jp/news/2218465/full/ 2022年3月5日閲覧。 
  196. ^ “広瀬すず主演ドラマ「津田梅子」にディーン・フジオカ、田中圭、伊藤英明、内田有紀ら”. 映画ナタリー (ナターシャ). (2022年2月3日). https://natalie.mu/eiga/news/464199 2022年3月5日閲覧。 






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

津田梅子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



津田梅子のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの津田梅子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS