津田梅子
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人物像
生涯、母語は英語
幼少からのアメリカ生活で、梅子は日本語を完全に忘れていた[167]。留学時に梅子より年長であった捨松と繁子は、比較的早期に日本語を取り戻したが、梅子は日本語の習得に苦しんだ[168][169]。生涯を通じて、梅子の話す日本語は外国人風の発音で、梅子の母語(思考の言語手段)は英語であった[170]。捨松の娘の証言によると、捨松・繁子・梅子の3人同士の会話は常に英語であったという[171]。
現存する梅子の書き物は、公的書類に「津田梅子」と漢字で署名したようなケースを除き、ほとんど全て英語である[172]。生涯を通し、梅子が自らの名で発表した日本語の刊行物は少なくないが、いずれも梅子が自ら書いたものではなく、梅子が話すのを編者・記者が口述筆記したものと考えられる[172]。
厳格な英語教師
英語教師として女子英学塾の教壇に立つ際は、極めて厳格であったことを示す逸話が多い。
開校当時の女子英学塾では、あまりの厳しさから脱落者が相次いだ[173]。塾が開校した6年後の明治39年(1906年)に刊行された女学生向けのガイドブック[注 30]には「女子英学塾の教育は極めて厳しく、並大抵の勉強ではついて行けない」旨が記されている[174]。厳しさの背景には、高等女学校の英語教育のレベルが一般的に低い状況において[注 31]、塾における3年間の教育で、英語教員免許状を取得できるレベルまで学生を鍛え上げねばならない、という事情もあった[175]。
塾の学生たちに対しては「自学自習が基本であり、授業は疑問を解決する場」という方針を示し、学生たちは完璧な予習を求められた[173]。英語の発音指導は特に厳しく、”No, no! Once more! Once more!” [176]と、正しい発音をできるまで何十回でも繰り返させた[152][177][176][注 32]。
塾の第1回卒業生の一人は、下記のように述べている。
私はあのやうに身にしみた授業を受けた事は曽てなく、……、先生は何事も何事もいい加減な事はお嫌ひでありました。……自分で辞書の隅から隅まで探し、適訳を見つけさせました…… — 出典には氏名の記載あり、[178]
女子英学塾塾長(第2代)・津田塾大学学長(初代)を務めた星野あい(明治39年〈1906年〉女子英学塾卒業)は、下記のように述べている。
塾の教え子の一人は、下記のように述べている。
先生は日本婦人に稀にみる熱と力の人で、その熱と力を集中しての訓練は、峻厳をきわめ、怠け者や力不足の者は学校に居たたまれぬほどであった。
その代わりに学生の態度が真剣で熱心であると、人一倍喜ばれた。はなはだしい愚問でないかぎり、生徒がいくらくどく質問しても、決していやな顔をされず、得心のいくまで教えられた。時には生徒が先生を言い負かすようなことがあっても、怒られぬのみかかえってその意気を喜ばれた。 — 教え子の氏名などは出典に記載なし、[179]
女子英学塾の第10回卒業生である山川菊栄の回想(『山川菊栄集 8 このひとびと』〈岩波書店、1982〉)によると、良家の令嬢が集う華族女学校や女子高等師範学校の教授を務めていた時の梅子は、アメリカの習慣通りに鞭を持って教室に現れて令嬢たちを驚愕させた、という[62]。
素顔の梅子
女子英学塾の第5回卒業生である岡村品子(明治15年〈1882年〉- 昭和59年〈1984年〉)の、昭和56年(1981年)における回想によると、塾の教壇に立つ時の梅子は基本的に和服姿(着物に袴)で、懐中時計を常に帯びていた[177][注 33]。梅子は岡村より小柄であった[177]。岡村は塾の寄宿生で、塾に住み込んでいる梅子と寝食を共にしていたが、教壇を降りた梅子は朗らかで良く笑う人であり、アメリカ育ちとは思えないような、日本的かつ質素な生活をしていた[177]。雑談をするときの梅子は、本題は英語で話し、次いで日本語で説明をする、といった、英語と日本語を随時切り替える話し方をした[177]。
古木宜志子は
と述べ、クエーカー(清貧を尊び、平等主義を旨とする。ブリンマー大学はクエーカーが作った大学であり、盟友であるアナ・ハーツホンは敬虔なクエーカーであった)の梅子への影響を指摘している[180]。
人物評
山川菊栄の評
女子英学塾の第10回卒業生であり、明治43年(1910年)前後に梅子の授業を受けた山川菊栄は、下記のように記している。
寺沢龍の評
寺沢龍は、梅子を下記のように評している。
大庭みな子の評
大庭みな子は、梅子を下記のように評している。
山崎孝子の評
山崎孝子は、梅子を下記のように評している。
既存の資料を整理し、梅子の教えを親しく受けた人々から思い出などを聞きつつ、私が知ったことは、梅子がみずから語ったごとく、稀にみる「ふしぎな運命」を受け、選ばれた女性の栄光に満ちた道をたどりながらも、名利を求める心がいささかもなく、虚栄・虚飾から遠い地点を苦難を負って歩んだ、ということであった。梅子に関する資料が少ないことも、こうした梅子の美質と無関係ではない。多少あった現資料も、関東大震災・太平洋戦争の戦災などで焼失した。梅子の住んだ家・別荘の類も何一つ現存しない。ただ私どもの眼前に津田塾大学が現存し、同大学の東北隅には梅子の墓所がある。これが梅子が世に遺したすべてであった。 — 1962年3月 山崎孝子、[185]
注釈
- ^ 明治17年までの初回米国留学に関する公文書(アジア歴史資料センター)では「津田梅」が使用され、明治18年9月22日付官報・官庁彙報欄では「宮内省御用掛被仰付奏任官ニ準シ取扱候事 津田梅子」と表記されている(明治期の女性名での子の使用については「子 (人名)」参照。論点については「ノート:津田梅子#本名」参照)。また、大正5年(1916年)に梅子が上梓した英文書籍 Girl's Taisho Readers, Tokyo: Kaiseikwan, 1916. では、梅子のフルネームは ”Umé Tsuda” とクレジットされている[3]。津田塾大学・小平キャンパス構内にある梅子の墓所(昭和6年〈1931年〉に建立[4])の墓碑銘は ”UME TSUDA / DECEMBER 31-1864 / AUGUST 16-1929” である[5]。
- ^ 瓜生繁子(旧姓:永井)が晩年に記した回想記に「洋服は二、三日でできあがってきて、私たちは幸せだった」(原文は英語、亀田帛子による和訳、[22])と記載されている[22]。
- ^ チャールズ・ランマン の著書は30点を超えるが、特に Private Life of Daniel Webster, 1852. が有名である。チャールズ・ランマンは、アメリカ東部の著名知識人の一人であった。[25]
- ^ 当時、ランマン家には画家の川村清雄も寄宿しており、滞在中に梅子の看病をおこなったという記録も残っている[26]
- ^ ランマン夫妻には子供がなかった[30]。
- ^ 現存する、梅子からランマン夫人あての最後の手紙は、明治44年(1911年)のもの[33]。
- ^ 梅子に洗礼を授けた牧師が、梅子の洗礼について新聞に寄稿した[36]。新聞の名称などは不明[36]。梅子が新聞の切り抜きを後年まで所持していた[36]。
- ^ 梅子は、世良田亮との縁談以外に、神田乃武(英学者)、中島力造(倫理学者)の2名とも縁談があったという[59][60]。
- ^ 伊藤博文は、岩倉使節団の大使の一人であり、使節団と共に渡米した、梅子たち女子留学生の面倒を親身に見ていた[63]。
- ^ 古川安の研究によると、梅子は2回目の留学にあたり辞職願を華族女学校に提出していた[72]。古川は、学習院院長大鳥圭介と華族女学校校長西村茂樹の取り計らいにより、留学から帰国後も華族女学校に勤務するという条件で、同校教授としての俸給を受けながらの2年間の留学が認められたのであろう、と推測している[72]。
- ^ 1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガン(弟子及び孫弟子8人がノーベル賞受賞)の指導の下、梅子はカエル卵の卵割と体軸の方向性について1891年から1892年にかけて実験を行い、1892年春に成果をまとめた。モーガンは1893年春に華族女学校の教師津田うめとの共著論文として全5章からなる論文にまとめたが、梅子の成果は第2章にほぼそのままの形で使用された[77]。
- ^ 古川安は、「保井コノが明治44年(1911年)にイギリスの Annals of Botany に論文を発表したのが、日本人女性の論文が欧米の学術雑誌に掲載された最初の事例である」とする論述が散見されるが、それは誤りであり、梅子は保井に17年先んじている、と述べている[79]。
- ^ オーシロ・ジョージは、女子英学塾を支援し続けたフィラデルフィア委員会に参加した人々の多くが、梅子と親しかった新渡戸稲造・メアリ夫妻の人脈に連なる人々であったことを指摘している[92]。
- ^ 明治33年(1900年)に梅子が女子英学塾を創設した際の新聞広告や報道記事には、必ず「女子英学塾 顧問 侯爵夫人大山捨松」と記載されている[96]。捨松は同年9月14日の開校式に出席し、『私立女子英学塾日誌』の記事には「大山侯爵夫人臨席」と特記されている[96]。
- ^ 新渡戸稲造は、女子英学塾が開校した明治33年(1900年)9月にはアメリカに滞在していたが、明治34年(1901年)1月末に日本に帰国すると、塾での課外講義を何度も担当した[97]。
- ^ 巌本善治は、二週間に一度、塾での課外講義を担当した[97]。巌本の講義は、塾の学生から人気が高かったという[97]。
- ^ 上野栄三郎は、梅子の実姉である琴子の夫、クリスチャン、実業家[98]。現役の実業家として塾の経営と経理財務を指導し、自らの社会的信用と人脈を駆使して、塾のために何度も資金を調達した[98]。
- ^ 高等官5等、年俸800円[102]。当時の36歳の日本人女性にとっての最高の職業的地位[103]
- ^ 明治33年(1900年)9月11日から13日までの3日間で「入学試験」を梅子とアリスの二人で行った[106]。ただし、この「入学試験」は、選抜試験ではなく、それぞれの学生の学力を把握して、適切なクラス(学年)に振り分けるための試験であった[106]。
- ^ アリスは兼任していた女子高等師範学校嘱託[109]としての報酬で、梅子は女子高等師範学校講師としての報酬、山階宮家や岩崎家(三菱財閥)での家庭教師としての報酬で、それぞれ生活していた[110]。梅子とアリスは共に塾に住み込んでいたが、アリスは「家賃」を塾に支払って苦しい経営を助けた[110]。
- ^ 明治37年の設立時の社団法人女子英学塾の理事は津田梅子、大山捨松の2名[122]。社員は巌本善治、元田作之進、新渡戸稲造、桜井彦一郎、上野栄三郎、阿波松之助の6名[122]。
- ^ 無試験検定による教員免許状の授与権は、高等師範学校・帝国大学・官立高等学校・官立専門学校、及び、「文部省が認可した公立学校・私立学校」に与えられていた[123]。
- ^ 大正11年(1922年)の時点で、日本に「大学令に基づく女子大学」は未だ存在しなかった。女子英学塾を含め、日本の女子高等教育機関は、専門学校令に基づく旧制専門学校のレベルに留まっていた。
- ^ 関東大震災で東京市麹町区五番町の建物を全て失った塾の財産は、五番町の校地・小平の新校地のみであり、塾の基本金は5万円に満たなかった[140]。
- ^ 昭和6年(1931年)の8月末に小平キャンパスの校舎や寄宿舎など主要な建物が竣工し、同年9月から小平キャンパスでの授業を開始した[147]。全工事が完了したのは昭和7年(1932年)1月30日、新築落成式が挙行されたのは同年5月21日であった[148]。
- ^ 女子英学塾の英文校名は創設当初から”Tsuda College”であり、日本国内でも「津田塾」と通称されていた[149]。
- ^ 昭和10年(1935年)頃からのアメリカ・イギリスとの関係悪化による「英語不要論」の台頭により、全国の高等女学校の英語科が全廃に近い状態になったことは、明治33年(1900年)の創設以来、「英語科教師の育成」を第一にして来た塾にとって強烈な逆風となった[150][151]。塾の卒業生の主な進路である英語科教師の需要は激減し、塾への入学志願者も激減した[151]。第2代塾長を務めていた星野あいは、昭和17年(1942年)に、理科(数学科と物理化学科)を増設して、校名から「英学」を外して「津田塾専門学校」とすることを決定して認可を申請し、昭和18年(1943年)1月に認可された[150]。
- ^ 塾の小平キャンパスは、昭和20年(1945年)当時の東京市街地、軍需工場、軍事施設のいずれからも遠く離れており、太平洋戦争末期の空襲による被害を免れた。
- ^ ブリンマー大学の卒業生一覧[161]に名前の記載がある。
- ^ 中村千代松『実地精査 女子遊学便覧』(女子文壇社、1906年、国立国会図書館デジタルコレクション)。
- ^ 塾の開校から10年以上が過ぎた1910年代半ばに塾で学んだ卒業生は、自分の卒業した高等女学校の英語教師が「本校での英語教育の目的は、結婚後に夫の洋書を本棚に逆さに並べないようにすること、輸入品の缶詰の中身が何なのか分かるようにすることである」という旨を言っていた、と回想している[175]。
- ^ 梅子が自ら塾の教壇に立っていた時代(明治33年〈1900年〉の開校から、大正5年〈1916年〉頃まで)、梅子のような「英語の正しい発音を教える能力」を有する英語教師は稀であった。
- ^ 津田塾大学 津田梅子資料室には、梅子が愛用した金側の懐中時計が所蔵されている(「津田塾大学デジタルアーカイブ」)。
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