治天の君 歴代の治天

治天の君

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 17:59 UTC 版)

歴代の治天

治天の君 天皇 続柄 備考
白河上皇 応徳3年(1086年) 堀河天皇 皇子
嘉祥2年(1107年) 鳥羽天皇
保安4年(1123年) 崇徳天皇 曾孫
鳥羽上皇 大治4年(1129年) 皇子
栄治元年(1141年) 近衛天皇 皇子
久寿2年(1155年) 後白河天皇 皇子
後白河天皇 久寿3年(1156年) - 親政
後白河上皇 二条天皇 保元3年(1158年) 二条天皇 皇子 二条天皇期には後白河院の院政と二条天皇の親政が併存していたため、治天の地位については議論の余地がある[4]
後白河上皇 永万元年(1165年) 六条天皇
仁安3年(1168年) 高倉天皇 皇子
高倉天皇/上皇 治承3年(1179年) 高倉天皇 - 治承三年の政変により後白河院政を停止、高倉天皇による親政。
治承4年(1180年) 安徳天皇 皇子
後白河上皇 治承5年(1181年)
寿永2年(1183年) 後鳥羽天皇
後鳥羽天皇/上皇 建久3年(1192年) - 親政
建久9年(1198年) 土御門天皇 皇子
承元4年(1210年) 順徳天皇 皇子
承久3年(1221年) 仲恭天皇 承久の乱により院政停止。
後高倉院 承久3年(1221年) 後堀河天皇 皇子
後堀河天皇/上皇 承久5年(1223年) - 親政
貞永元年(1232年) 四条天皇 皇子
後嵯峨天皇/上皇 仁治3年(1242年) 後嵯峨天皇 - 親政
寛元4年(1246年) 後深草天皇 皇子
正元元年(1259年) 亀山天皇 皇子
持明院統 大覚寺統 備考
治天 天皇 続柄 治天 天皇 続柄
文永9年(1272年) - 亀山天皇
/上皇
亀山天皇 - 親政
文永11年(1274年) 後宇多天皇 皇子
弘安10年(1287年) 後深草上皇 伏見天皇 皇子 -
正応3年(1290年) 伏見天皇
/上皇
- 親政
永仁6年(1298年) 後伏見天皇 皇子
正安3年(1301年) - 亀山上皇 後二条天皇
嘉元3年(1305年) 後宇多上皇 皇子
徳治3年(1308年) 伏見上皇 花園天皇 皇子 -
文保元年(1317年) 後伏見上皇
(猶子)
文保2年(1318年) - 後宇多上皇 後醍醐天皇 皇子
元享元年(1321年) 後醍醐天皇 - 親政(後宇多崩御は元享4年(1324年))
元徳3年(1331年) 後伏見上皇 光厳天皇 皇子 -
元弘3年(1333年) - 後醍醐天皇 - 建武の新政
建武3年(1336年) 光厳上皇 光明天皇
(猶子)
暦応2年/延元4年(1339年) 後村上天皇 -
貞和4年/正平3年(1348年) 崇光天皇 皇子
正平6年(1351年) - 正平一統
文和元年/正平7年(1352年) 広義門院 後光厳天皇 - 治天である光厳上皇が南朝に拉致されたため、代わりに治天の政務を執った。なお、広義門院を治天の君とすることには異議(新田一郎[15]など)も存在するので注意が必要である。
延文2年/正平12年(1357年) 後光厳天皇
/上皇
応安元年/正平23年(1368年) 長慶天皇 -
応安4年/建徳2年(1371年) 後円融天皇 皇子
応安7年/文中3年(1374年) 後円融天皇
/上皇
-
永徳2年/弘和2年(1382年) 後小松天皇 皇子
永徳3年/弘和3年(1383年) 後亀山天皇 - 長慶上皇が院政を行ったという説があるが、異論もある。
治天の君 天皇 続柄 備考
後円融上皇 明徳3年(1392年) 後小松天皇 皇子 明徳の和約により南北朝合一。
後小松天皇/上皇 明徳4年(1393年) - 親政
応永19年(1412年) 称光天皇 皇子
正長元年(1428年) 後花園天皇 七親等

  1. ^ 富田正弘「治天の君」『日本歴史大事典2こ~て』小学館、2000年9月。ISBN 978-4-0952-3002-3
  2. ^ 「治天の君」日本史広辞典編纂委員会『日本史広辞典』山川出版社、1997年10月。 ISBN 978-4-6346-2010-0
  3. ^ 「治天の君」永原慶二監修『岩波日本史辞典』岩波書店、1999年10月。 ISBN 978-4-0008-0093-8
  4. ^ a b c 美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2
  5. ^ a b 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8
  6. ^ 後藤四郎「治天の君」『国史大辞典吉川弘文館。同辞典の家永三郎「天皇」および竹内理三「院政」も同じく在位の天皇を含めていない。
  7. ^ 本朝皇胤紹運録』。
  8. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 2023年、P15-17・212.
  9. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 2023年、P18-19.
  10. ^ 松薗斉『王朝日記論』法政大学出版局、2006年。 ISBN 978-4-588-25052-1 P43-47.
  11. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 2023年、P19.
  12. ^ 樋口健太郎「「保安元年の政変」と鳥羽天皇の後宮」」『龍谷大学古代史論集』創刊号、2018年。/所収:樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02948-3。2018年、P90-91.
  13. ^ 曽我部愛「鎌倉期王家における皇統の断絶と在俗皇子」(初出:『研究論集 歴史と文化』第3号(2018年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P.147-149.
  14. ^ ただし、両統迭立期も含めて、朝廷内部で解決できなかった結果として幕府が皇位継承に関与しただけに過ぎないとする見方もある(岩田慎平「武家政権について」元木泰雄 編『日本中世の政治と制度』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02966-7 P316-330.)
  15. ^ 河内祥輔、新田一郎『天皇と中世の武家』講談社〈天皇の歴史4〉、2018年、198-199頁。 


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