河村たかし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/19 08:25 UTC 版)
河村 たかし かわむら たかし | |
---|---|
2017年11月19日撮影 | |
生年月日 | 1948年11月3日(75歳) |
出生地 | 日本 愛知県名古屋市東区 |
出身校 | 一橋大学商学部 |
前職 |
春日一幸衆議院議員秘書 河村商事専務取締役 |
所属政党 |
(民社党→) (自由民主党→) (日本新党→) (新進党→) (自由党→) (無所属→) (民主党(菅G)→) (無所属→) (減税日本→) 減税日本/日本保守党 |
称号 | 商学士 |
公式サイト | 河村たかし【公式】オフィシャルサイト 気さくな72歳 減税日本代表 |
第32-35代 名古屋市長 | |
当選回数 | 5回[注 1] |
在任期間 |
2009年4月28日 - 2011年1月21日 2011年2月7日 - 現職 |
選挙区 |
(旧愛知1区→) 愛知1区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 2009年4月7日 |
その他の職歴 | |
初代 日本保守党共同代表 (2023年10月17日 - 現職) |
衆議院議員(5期)、裁判官訴追委員会第二代理委員長、総務省顧問を歴任した。
経歴
生い立ち
名古屋市東区古出来で河村鈊男(かねお)の長男として出生(現住所は同市東区古出来二丁目)[4]。出生時の名前は河村隆之(たかし)[5]。のちに戸籍名を変えて「河村たかし」となった。父・鈊男は、第二次世界大戦時には大日本帝国陸軍第101師団歩兵第101旅団指令部伍長として中国大陸に滞在。1945年(昭和20年)の終戦直後から南京市の栖霞寺に滞在し、1946年(昭和21年)帰国。1948年(昭和23年)に河村紙業合資会社を設立し、初代社長となった[6]。
大学卒業後、家業に従事
名古屋市立桜丘中学校を経て、1967年愛知県立旭丘高等学校卒業。高校ではバドミントン部に在籍。1年間の浪人を経て、1968年(昭和43年)一橋大学商学部入学、1972年(昭和47年)に卒業。大学1年次の途中まで一橋大学硬式野球部に所属。大学時代は第二外国語のロシア語Kクラスで山内進(法学者・一橋大学学長)、増田悦佐(エコノミスト)と同級生だった。のちに河村支援団体の連合体「ネットワーク河村市長」の代表を務めた鈴木望(維新の党衆議院議員・元磐田市長・元厚生省課長)は大学の1年後輩[7][8][9]。
一橋大卒業後は家業の古紙回収業・卸売業の河村商事株式会社に入社(家業からは2002年(平成14年)に退き長男が継ぐ)。河村商事株式会社は、河村入社当時従業員5名だったが、リサイクルブームの追い風を受け成長[10]、2017年現在従業員90名の中小企業である[11]。
河村商事では専務を務め、営業やトラックの運転手等を行った。ちり紙交換業者に頭を下げて回り、古紙の回収先では、古紙回収業者が弱い立場にあるため、あごで使われ雑用も行わされた。また、業界でさきがけてプレス機を導入するなど、家業の拡張を図ろうとしたが、新工場の建設を「同業者の仕事を奪うことになる」と父に反対され頓挫した。大学で学んだ労務管理などの学問は役に立たなかった。そのような中で次第に業者のギルド的体質への反発を持つようになり、検察官への転身を志すようになる[12]。
司法試験で挫折
大学時代に知り合った妻と1975年に結婚。その後、1977年(昭和52年)ころから検事を志すようになる。昼間は家族を養うため家業に従事しつつ、商学部出身であり法律の勉強をしたことがなかったため、仕事後に地元の法律学校(中京法律専門学校)の夜学に通って法解釈学及び行政学を10年間勉強し、旧司法試験を9回受験、当時合格率が10%から15%程度だった[13]第二次試験短答式試験には初受験で合格するなど計4回合格し[14]受験指導予備校での成績も良好だったものの、第二次試験論文式試験でいずれも不合格となり断念[15]。人生再チャレンジをできる社会を実現するため政治家を志すようになり、民社党委員長春日一幸の秘書となったが、春日の逆鱗に触れたため、民社党を除名となった。
政界入り
1983年(昭和58年)に愛知県議会議員選挙に立候補するも落選。
1985年(昭和60年)2月22日に「500円集めて作ろう庶民の名古屋の会(略称500円庶民の会)」を結成し、名古屋市長選挙に出馬表明するも、うまくいかず同年3月18日に市長選挙への出馬を断念。
河村商事株式会社専務等を務める一方、政治家を志して自由民主党に入党する。1990年(平成2年)2月18日の第39回衆議院議員総選挙に旧愛知1区から、自民党の公認を得られないまま保守系無所属・宏池会(宮澤派)新人候補として、当時の本名「河村隆之」の名で立候補するも落選。
1992年(平成4年)に自民党を離党し、翌1993年(平成5年)7月18日の第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で旧愛知1区から立候補し初当選した(同区で春日事務所時代の同僚で同じく民社党を除名された青木宏之も初当選)。同年8月の党役員人事で山田宏立法調整委員長(国会対策委員長に相当)の下で立法調整副委員長に就任した。
1994年(平成6年)12月、日本新党の新進党への合流に伴い新進党入り。
新進党ではNPOパートナーズ(1995年3月)の座長を務め、新進党NPO法案作成の実質的主導者として1998年(平成10年)3月19日の「特定非営利活動促進法」成立に尽力。なお、NPOの財政基盤強化のため必要不可欠な寄付金控除を認める税制改正は、与党の反対で実現できなかった。
1996年(平成8年)10月20日、第41回衆議院議員総選挙では、愛知1区に新進党公認で出馬し再選。
1998年(平成10年)1月6日、新進党が分党して結成された自由党に参加。同年3月19日の「特定非営利活動促進法」成立を区切りとし、4月に離党。無所属(院内会派「無所属の会」)となった。同年12月、民主党に参加。
2000年(平成12年)6月25日、第42回衆議院議員総選挙で愛知1区から民主党公認で3選。
2002年(平成14年)9月の民主党代表選挙では、菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため野田佳彦、前原誠司、松沢成文らと「第二期民主党をつくる有志の会」を結成した。
2003年(平成15年)11月9日、第43回衆議院議員総選挙で愛知1区で4選。
2005年(平成17年)4月、名古屋市長選挙に出馬を表明したが断念した。
2005年(平成17年)9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、民主党劣勢の中、自民党候補などを大差で下し5選。
名古屋市長
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)2月6日、名古屋市長に再選(1期目)。
- 2013年(平成25年)4月21日、名古屋市長に3選(2期目)。
- 2017年(平成29年)4月23日、名古屋市長に4選(3期目)。
- 2021年(令和3年)4月25日、名古屋市長に5選(4期目)。
- 2023年(令和5年)10月17日、作家の百田尚樹らと、政治団体「日本保守党」の結成記者会見を行った。百田が代表、河村が共同代表に就任し、同党は減税日本とは「特別友党関係」を結んだとしている[18]。
政策・主張
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 1999年(平成11年)7月22日、衆議院本会議の国旗・国歌法の採決では反対票を投じた。
- 2007年(平成19年)1月19日に放送された文化放送の番組内で、番組の放送開始当初から誓約していたとおり、赤坂の議員宿舎には入居せず、地下鉄千代田線沿線の自身で賃貸契約したマンションに“自腹”で入居した事を告知した。この告知でリスナーから高い評価を受ける。
- 2006年(平成18年)4月26日に東京・永田町の参議院議員会館で行われた「共謀罪に反対する超党派国会議員と市民の緊急院内集会」の呼びかけ人を務めた[19][20]。
- 2006年(平成18年)10月6日、自民党の筒井隆彌愛知県議会議員を、名誉毀損で愛知県警察に告訴した。内容は「宮沢派を勝手に標榜している、仲間の議員は誰も推薦人になっていない」などの中傷の言葉が筒井のホームページに並べられていたため。
- 慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会の会員でもあり、慰安婦問題と南京事件に対しては日本政府の責任を否定する傾向にある。慰安婦問題に関しては2007年(平成19年)6月14日に歴史事実委員会の全面広告に賛同者として名を連ね、アメリカ合衆国下院121号決議の全面撤回を主張した。南京事件に関して衆議院議員時代の2006年には、政府に対し「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を提出。教科書などに「市民や捕虜の殺害」などが記載されている根拠や、政府見解を改めてただした。2009年(平成21年)9月15日の名古屋市議会定例会における一般質問でも「一般的な戦闘行為はあった。そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。事件そのものについて日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」と答弁している。毎日新聞は、この発言により名古屋市との姉妹友好都市関係にある南京市との関係が懸念されていると報じた[21]。
- 日本国憲法の改正を主張。
- 選択的夫婦別姓制度の導入に賛成[22]。
- 地方議員はボランティアであるべきとし、議員報酬を廃止し、保護司や民生委員らと同じく無給とすべきと主張。
- 「議員活動のためには経費は当然必要だ。ただ、それを税金からいただくのではなく自分で寄付金で集めるべきだ」としている[23]。
- 国会議員時代は「『議員特権廃止』を訴える以上、自らを律するべき」との下、文書通信交通滞在費全額を民主党支部と自らの資金管理団体(「河村たかし政策研究会」)に寄付して、政治活動経費として使い、自らの財布に入れないとした。(寄付した1200万円/年は、「河村たかし政策研究会」と愛知一区総支部の運営資金、主に機関紙の発行(2万9000部/年6回)や人件費に充てていたとし、寄附金控除も受け取っていないとしている)[23]。
- 河村は自身の著書によると、議員特権廃止に熱心であり、文書通信交通滞在費を「第二給料」と糾弾している[23]。一方で、産経新聞社の記者を政策秘書として登録、秘書給与を河村自身の政治団体に入れていた[24]。
- 河村は自身の著書によると2004年(平成16年)から政党支部では、企業献金を断っているとしている[23]。しかし中小企業の経営者などからの個人献金は受けており、実質企業献金ではないかという指摘もある。とくに名古屋市長になって以後、自身の給与を半減したため政治資金が枯渇し、経営者からの献金が倍増した[25]。
- 「世襲議員」を条件付きながらも非難する。「『寄付金型議員』で世襲するならばまったく問題がない。どれだけ寄付金を集められるかは本人の努力次第だ」と自著で述べている[26]。
- 「議員の一番大事な仕事は、減税の実現」と述べた。
- 静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わった[27]。
- 衆院初当選以来、一貫して非自民党であり、自身が所属した政党が自民党と連立をしたことがない。河村がかつて所属していた自由党は1999年1月14日、自自連立政権の小渕改造内閣で与党に転じたが、河村はその前年の1998年4月に自由党を離党し無所属の会に入党。同年12月には民主党に加わっている。
- 福島第一原子力発電所事故後は、脱原発を主張している。2012年(平成24年)4月16日には、事故が起きた場合には名古屋市の水源である木曽川が汚染されるとの懸念から、関西電力大飯原発3号機の再稼働に懸念を表明[28]。また自身が率いる減税日本を、中央集権打破・反消費増税・脱原発を政策の3本柱として政党化し、国政への進出を目指すとしている[29]。
- 2012年11月15日、石原慎太郎が率いる太陽の党と減税日本の合流が発表された[30]。しかし、その翌日には橋下徹が率いる日本維新の会と太陽の党との合流が決定され、その際に太陽の党と河村氏との合流は白紙にする[31]と確認されている。
議員年金問題
衆議院議員時代、河村は民主党の先頭に立ち、テレビや新聞に何度も登場し、国会議員互助年金の廃止を熱心に訴えた。「議員年金って、年金って名前がついているけど、本当の特権、特別なやつなんです」[32]、「議員という特権階級の味方なのか、はっきりさせればいい。庶民の味方になって廃止法案を出す」[33]などの発言どおり、2度廃止法案を提出。国会議員互助年金は結局、与党だった自民党・公明党の廃止案が通り、2006年4月1日をもって廃止された[34]。
制度廃止時に在職期間が10年以上あった議員は、(1)「従来の15%減となる年金を受け取る」、(2)「納付金の8割を一括返還(一時金)でもらう」のどちらかを引退時に選ぶことができた。あるいは「5年間、申請を見送れば、いずれの権利も失効する」という選択も可能という措置が取られた[34]。
ところが2021年3月9日、制度の批判を鋭く展開していた当の河村が国会議員年金を受け取っていたことが明らかとなった。河村は5年間の申請見送りをしなかったどころか、「一時金」方式の何倍もの額にあたる「従来の15%減となる年金」を受け取る選択肢を選んでいた[35][36]。同年3月10日、大村秀章知事は記者会見で「当時は廃止を主張していたのに耳を疑う。政治家の資格はない。ただちに辞職すべきだ」と河村を批判した[37]。
固有名詞の分類
- 河村たかしのページへのリンク