沖縄県の歴史 近世

沖縄県の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 09:49 UTC 版)

近世

江戸幕府の明通商計画

豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に、薩摩藩を通して琉球へ兵糧米の供出を厳命した。明の冊封国であったため尚寧王は一旦拒否するが、薩摩藩の仲介により要求された兵糧米の半分を供出し、役の兵站の一部を担う。1603年江戸幕府が開かれると、幕府中国大陸との交易再開を目指すようになる。また薩摩藩も度重なる普請、戦役などで窮乏する藩財政から琉球貿易の統制と奄美群島の奪取を志向する。

1602年万暦30年・慶長7年)に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を丁重に送還した。以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が薩摩藩を通して琉球王府に繰り返し要求されたが、時の尚寧王・王府は三司官謝名親方が幕府・薩摩への対抗を主張し、幕府や薩摩藩からの交渉を一貫して黙殺。これを受け、幕府は武力で承諾させることとし、薩摩藩島津氏に対し琉球への侵攻を許す。琉球側は島津義弘、太守島津忠恒からの最後通牒も重ねて黙殺、侵攻に至った。

薩摩の侵攻

第二尚氏第7代尚寧1609年3月4日樺山久高ら薩摩軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日奄美大島へ上陸した。大島は薩摩に非常に協力的で、物資補給も行った。この時点で琉球王府は天龍寺長老を大島に派遣して降伏しようとしたが、何故か薩摩軍と接触せず、失敗した。3月17日徳之島に13艘の先発隊が到達、一部で戦闘があったが速やかに制圧された。沖永良部島と次々に攻め落とし、3月26日沖縄本島北部の運天港に上陸。27日、空になっていた今帰仁城下を焼く。またこの日、和睦全権として西来院菊隠が今帰仁に到着、降伏を申し出た。これを受け、那覇で和睦の談合を行う事が決まる。

その後首里から和睦の使者の行違いや那覇港の封鎖など処理を誤り、また樺山は内心、琉球を信用しておらず、薩摩軍主力を陸路あるいは渡具知浜から上陸させて首里に向けて進軍、浦添城を攻め落とした。29日、海路で大湾に移動。4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせる一方、主力は首里へ迫り、午後2時頃到着した。ここまで薩摩軍に対し琉球軍は4000名の兵を召集し対抗したが、少数が会戦しただけで惨敗し、後は散発的な戦闘が起きただけであった。

その後ようやく那覇にて和睦の議が成り調印が行われたが、首里では、薩摩軍の侵入によって混乱が生じた。これに対し、薩摩軍軍使・市来織部と村尾笑栖が首里に移動して尽力し沈静化。摂政・三司官を人質として引き渡すのと引き換えに、首里侵入軍は那覇に退去し戦闘は一応終息した。尚寧が和睦を正式に申し入れ、4月5日に首里城が開城、軍が接収。4月15日には尚寧と共に鹿児島に出発。

1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした(ただし表面上は琉球王国の支配領地とされていた)。

1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」などと述べた起請文への署名を強要され、これを拒んだ三司官のひとり謝名利山は斬首された。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、在番奉行を那覇に置き、琉球王国を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球ととの朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。琉球王国は附庸国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、にも朝貢を続けた。薩摩藩と明・清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。薩摩藩は、江戸へ琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させた。

王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)

島津侵攻直後の1611年、慶長検地が行われ田畑に石高制が導入され幕藩体制に組み込まれる。侵攻約50年後の1665年羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。羽地仕置(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。間切制の導入により地方役人の位階も定められた。

羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。

羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

中継貿易の衰退

幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。1844年イギリスフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、アヘン戦争1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年に薩摩が琉球を英仏に開港した。

1853年には米国マシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。1854年3月31日嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩 - 沿海州対馬藩 - 李氏朝鮮長崎 - 清・オランダ薩摩藩 - 琉球 - 清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。


注記

  1. ^ なお「漂着」とする説が見られるが、文献、研究書で漂着と解しているものは見られず、原文も単に『同到阿児奈波』としているだけである。
  2. ^ 琉球国を設置するとの太政官布告・太政官達などの公文書は見つかっていないが、法令における用例として、1.沖縄県下琉球国首里城ヲ陸軍省ニ受領ス(明治15年3月15日太政官達)、2.沖縄県下琉球国首里城ヲ陸軍省ニ受領ス(明治15年3月20日陸軍省達) 3.琉球国那覇港ニ於テ清国貿易ニ関スル船舶出入及貨物積卸許可法律(明治27年法律第3号)、4.千島大隅琉球諸島ニ設置スル郵便及電信局職員手当金給与ノ件(明治30年勅令第250号)、5.千島大隅琉球国諸島ニ設置スル郵便及電信局職員月手当金給与細則ノ件(明治30年8月5日逓信省令第27号)、6.裁判所設立廃止及管轄区域変更ニ関スル法律(明治32年法律第20号)、7.千島国国後島、同国択捉島、大隅国大島、琉球国八重山島ニ設置スル二等郵便及電信局職員在勤月手当給与細則(明治34年4月4日逓信省令第20号)、8.明治三十年勅令第二百五十号(千島、大隅、琉球国諸島ニ設置スル郵便及電信局職員月手当ノ件)中改正ノ件(明治36年12月5日勅令第265号)など。そのほか、琉球国運天港之や琉球国国場村屯所用地之図といった地図の名称にも用いられ、また、住所の一部(「沖縄県琉球国…」の形)としても用いられた(例えば、古賀辰四郎による内務大臣宛て明治28年6月10日付「官有地拝借御願」など)。
  3. ^ 「農耕の始まり」と「農耕社会の成立」は別個の問題だとし、近世琉球王国の末期に至るまで、沖縄には「農耕社会(経済の中心が農耕によって成り立つ社会)」が成立していない(=経済の中心は漁撈採取と交易)とする異論が提出されている(吉成,2020,pp.49-86)。
  4. ^ (ただし船は46艘しかないので半分が妥当と思われる)
  5. ^ 日本では、明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰太陽暦(旧暦)が採用されていた。翌日からグレゴリオ暦(新暦)が採用され、明治6年1月1日(1873年1月1日)とされた。以下の日付は、明治5年12月2日までは旧暦(括弧内に新暦での日付を付す)、それ以降は新暦である。

出典

  1. ^ 安里進・山里純一「古代史の舞台 琉球」 上原真人他編『古代史の舞台』<列島の古代史1>岩波書店 2006年 391頁
  2. ^ (奈良時代の貴族、淡海三船著)
  3. ^ 山里純一 2004.
  4. ^ 琉球と日本本土の遷移地域としてのトカラ列島の歴史的位置づけをめぐる総合的研究.
  5. ^ 井上薫、「鑑真伝の諸問題」『文化財学報』 1984年 3集 p.15-26, NAID 120002696858, 奈良大学文学部文化財学科
  6. ^ 池宮正治、「歴史と説話の間 : 語られる歴史」『琉球王国評定所文書』 1997年 Vol.15 p.5-34, 浦添市教育委員会
  7. ^ 市島謙吉編『平家物語 : 長門本』(1906年)、国書刊行会、巻第四のp.134
  8. ^ 月村斎宗碩編『藻しほ草 : 和歌』(1911年)、一致堂書店、巻第五p.137
  9. ^ 八重山の公文や民謡にも「悪鬼納嘉那志」(中山首里王府のこと)として出ている
  10. ^ 東恩納寛惇 南島風土記 pp.16 地名概説『沖縄』
  11. ^ 小玉正任『琉球と沖縄の名称の変遷』 琉球新報社 2007年
  12. ^ 沖縄県立博物館展示物「海を渡った黒曜石」
  13. ^ 吉成,2020,pp.14-29
  14. ^ An Austronesian Presence in Southern Japan: Early Occupation in the Yaeyama Islands (PDF) Archived February 20, 2011, at the Wayback Machine., Glenn R. Summerhayes and Atholl Anderson, Department of Anthropology, Otago University, retrieved November 22, 2009
  15. ^ 小島瓔禮(「禮」は実際には、しめすへん「ネ」に「豊」)「天孫氏」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.865
  16. ^ 「注釈 1」、『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.22
  17. ^ a b 蟹江征治著、宇野俊一、小林達雄、竹内誠、大石学、佐藤和彦、鈴木靖民、濱田隆士、三宅明正編『日本全史(ジャパン・クロニック)』(講談社1990年)109頁参照。
  18. ^ 「奄美学その地平と彼方」「奄美学」刊行委員会 南方新社
  19. ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」。
  20. ^ 高良倉吉『おきなわ歴史物語』(2014年)、おきなわ文庫、第11話
  21. ^ 學士會会報 No. 893, 2012, pp. 70 参照
  22. ^ 浮島神社 | 沖縄県神社庁
  23. ^ 鳥越憲三郎 『琉球宗教史の研究』 角川書店 1965年
  24. ^ ご本尊と縁起”. w1.nirai.ne.jp. 2019年4月16日閲覧。
  25. ^ 「歴代宝案」巻40・文書番号2、巻40-4、巻40-5、巻40-6、他多数
  26. ^ 「歴代宝案」巻12文書番号19
  27. ^ alboquerque「The ubiquitous Chinese are perhaps the most numerous」
  28. ^ 「歴代宝案」巻42文書番号14、15、16、17、18、他多数
  29. ^ 「使琉球録」「遠取諸物亦其獻琛之意不必求備焉可也」
  30. ^ 「使琉球録」「其貢獻方物寥寥固宜爾也然明王愼徳不貴異物彼抵珠投璧卻駿焚裘者至今千載而下猶艶稱之誠以王者富有四海所重在此不在彼耳故我明於琉球入貢惟録其効順之悃誠不責其方物之良窳」
  31. ^ 「使琉球録」「二年一貢今以爲常第人役過多亦不勝糜費」
  32. ^ 「使琉球録」「至於蘇木胡椒等物皆經歳易自日本轉販於暹羅者」
  33. ^ 「計今陸拾多年毫無利入日鑠月銷貧而若洗况又地窄人希賦税所入略償所出如斬匱窘」
  34. ^ 『沖縄県宮古島島費軽減及島政改革請願書』(明治28年(1895年)第八帝國議会可決)の一葉より。「先島諸島#先島諸島の人頭税」を見よ
  35. ^ a b “130年前の1879(明治12)年4月4日…” (日本語). 八重山毎日新聞社. http://www.y-mainichi.co.jp/news/13428 2018年9月12日閲覧。 
  36. ^ 本土は暮らしにくい 沖縄新卒 一年半で三割離職 琉球政府調べ『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月4日朝刊 12版 22面
  37. ^ 嘉手納基地 1958年に核爆弾配備
  38. ^ “中琉協会の名称変更 中国時報「沖縄は日本の領土」”. 琉球新報 (琉球新報社). (2006年5月31日). オリジナルの2011年7月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110722124442/http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-14113-storytopic-1.html 2012年2月18日閲覧。 
  39. ^ 産経新聞社正論」2006年8月号[要ページ番号]





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