沖縄戦 背景

沖縄戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 21:47 UTC 版)

背景

日本軍の戦略

作戦会議を行う第32軍司令部、一番左が司令官の牛島、中央で指揮棒を持って説明しているのが参謀長の長

1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲など連合国軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した[42]。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった[42]。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。

沖縄に配置となった第24師団歩兵第22連隊の満州での出陣式

日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月にアメリカ軍の攻撃を受け絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手した[43]、1944年7月に第32軍の参謀長に就任した 長勇少将は、早速大本営参謀本部に乗り込むと「沖縄本島には5個師団を増強せよ!吾輩の意見を採用せず、ために沖縄が玉砕するようになれば、参謀本部は全員腹を斬れ」と怪気炎を上げている。参謀本部も長の要求に応えるかのように1944年7月に沖縄本島に第9師団、7月末に宮古島第28師団、8月に第24師団第62師団を増派、諸砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部も配置、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられるなど、沖縄本島を中心とする南西諸島には4個師団、混成5個旅団、1個砲兵団の合計18万人の大兵力が配置されることとなった[44]。その中で増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈され、4,000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きている。

戦力増強が進む中で司令官の渡辺は疲労により持病の胃下垂が悪化、病床につくこととなってしまった。渡辺の希望により病状は中央に伏せられていたが、病状が一向に回復しなかったため、長らはやむなく軍中央に渡辺の病状を報告し、1944年8月11日に陸軍士官学校の校長であった牛島満中将が新たな第32軍司令官として着任した[45]。牛島は同郷(鹿児島県)の偉人西郷隆盛に例えられるような[46] 泰然自若とした父親のような人物であり、部下将兵からは尊敬されていた。陸軍士官学校や陸軍公主嶺学校などの校長を歴任した教育畑の経歴ながら、歩兵第36旅団旅団長として日中戦争では武功を重ねており[47]、アメリカ軍からは「牛島将軍は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していた。」と評価されている[48]

第32軍の高級参謀は八原博通大佐であった。八原は最年少で入学した陸軍大学校(第41期)を優等で卒業し、アメリカに留学歴もあるエリート軍人で、尚且つ理性的で知己的な欧米型の思考を持つ軍人であり、理詰めで地味だが確実に成功する戦術を唱える、日本陸軍では異端の軍人であった[49]。のちにその作戦に苦戦させられることになったアメリカ軍から八原は「すぐれた戦術家としての名声を欲しいままにし、その判断には計画性があった」と高く評価されることとなった[48]

当初、八原は充実した戦力で、敵上陸時に主力を機動させての決戦を計画した[50]。連合国軍の上陸点を小禄牧港嘉手納のいずれかと想定、3か所の上陸予想地点にそれぞれ1個師団ずつを配置し、連合国軍が上陸してきたら、その担当師団が構築した陣地に立て籠もり上陸軍を橋頭堡にて阻止、その間に2個師団が上陸地点に向けて進軍し集結(移動は敵航空機の攻撃のない夜間)、上陸2日目の夜に砲兵の全力を結集し橋頭堡の殲滅射撃を実施、その後歩兵が突撃し上陸軍を粉砕するという作戦を考え、各師団に機動の猛訓練を行わせた[51]

長は、海際で上陸軍を阻止する強固な陣地構築に必要な鑿岩機20台の支給を要求し、大本営も確約したが、いつまで待っても鑿岩機が到着しないため、長は大本営や陸軍中央から何らかの要求や連絡があるたびに鑿岩機をしつこく要求し続けた。その内大本営や陸軍中央では長と言えば鑿岩機が連想されるほど有名となった[52]

第32軍首脳陣は、マリアナやフィリピン戦での航空作戦の経過を見て航空作戦に疑念や不信を抱いており、飛行場より地上戦備強化に注力していたが、航空作戦重視の大本営はそれを「手抜き」と厳しく第32軍を非難した。大本営陸軍部はまず作戦課航空班長の鹿子島中佐を沖縄に派遣、鹿子島は第32軍参謀を「今回、貴軍に強力な地上兵力を増加したが、航空作戦準備に十分な協力をされない場合は、増加した地上兵力を他に移さねばなりません。」と脅すと、第32軍もさすがに折れて、大本営の方針を受け入れることとした[53]。大本営は飛行場作りの名人と言われた飛行場設定練習部部員釜井中佐を第32軍参謀に補職し、戦闘部隊を建設作業へ大規模投入して飛行場設営が急ピッチで進められた[54]

飛行場の扱いについては、航空決戦の為の飛行場重視の大本営などの中央と、地上戦備重視の第32軍の考えの違いが連合国軍上陸後の作戦にも大きく影響することとなった。

第32軍の作戦準備と並行して、沖縄島民の疎開も進められた。(#アメリカ軍上陸前の住民の動き(避難)

第9師団の転出

沖縄に第24師団を残留させる要因となった同師団が装備していた四年式十五糎榴弾砲

1944年10月にフィリピンでレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。レイテ島の戦いに先立つ台湾沖航空戦で日本海軍が誤報した連合国空母多数撃沈の過大戦果を前提に、大本営は捷一号作戦(フィリピン決戦)を決意し、レイテ島への戦力増派に進んだ[55]。大本営は沖縄から1個師団、姫路から1個師団、朝鮮から1個師団、満州から1個師団、台湾から1個師団の合計5個師団のレイテ投入を考え[56]、第32軍に「第32軍より、1兵団を比島(フィリピン)方面に転用することに関し、協議したきにつき、八原大佐を11月3日夕刻まで台北に参集せしめられたし」という電文を打った。受け取った第32軍は激高し、八原が作成し牛島が裁可した「沖縄から1兵団を抽出されたら、沖縄の防衛に責任は持てない」「抽出するなら宮古島第28師団であれば可」「沖縄より1個師団抽出し他から1個師団を沖縄に補充する計画なら、その師団を直接比島に増派すべき」「沖縄から1個師団を抽出されるぐらいなら、むしろ第32軍主力が国軍の決戦場比島にはせ参じることを希望する」という返答を準備し、1944年11月3日に台北の第10方面軍司令部で開催された、大本営、第10方面軍、第32軍の会議に八原を出席させた[57]

会議ではまず最精鋭の第10師団のフィリピン転出を打診されている第10方面軍の市川参謀が「台湾軍は既に1個師団引き抜かれており、さらに第10師団まで持っていかれたのでは、後に残るのは2流師団3個だけで、これでは戦えない。沖縄と比較して台湾は広大であるから、沖縄から1個師団引き抜くと言うなら台湾にいただきたい。」と意見を述べた。市川の次に八原は持参した返答を読み上げたが、その後は長から台湾への出発前に「黙っているのが最上」と訓示された通り、何の意見も言わなかった。この会議に大本営から出席した服部卓四郎第2作戦課長は、姫路の第84師団をフィリピンではなく、1個師団を抽出された後の沖縄に転用する腹案を持っていたが、八原ら第32軍の大本営の方針を一笑し一蹴する意見具申にその腹案を提示することもできず、また八原の態度で会議の場も気まずい抗立の空気のまま、何ら結論を出すことなく散開となった[58]

台北会議後の1944年11月11日に、まず中迫撃第5、第6大隊(15cm迫撃砲24門)がフィリピン方面へ転用が命じられ、軍砲兵隊による橋頭堡殲滅射撃の構想に大きな影響を及ぼした[59]。 その後の11月13日、大本営から「沖縄島に在る兵団中、最精鋭の1兵団を抽出するに決せり。その兵団の選択は軍司令官に一任す。」という命令が届いた。八原は自分が作成した意見書が全く考慮されなかったことに激しい憤りを覚えたが、牛島と長は冷静に受け入れ、八原は不承不承、抽出する師団の選定を行った。沖縄の精鋭師団は第9師団第24師団のいずれかであったが、第9師団は日清戦争日露戦争でも活躍した歴史のある師団で、よく訓練行き届いた精鋭師団ながら山砲師団で、新設師団で兵士の訓練度では劣るものの野砲師団で四年式十五糎榴弾砲まで装備していた第24師団の方が砲火力が勝っていたため、八原は第24師団を残すこととし、第9師団を「最精鋭師団」として軍から手離すという意見書を作成した[60]。 八原の意見書に基づき、第9師団が1944年12月中旬から翌1945年1月中旬にかけて台湾へ移動し、第32軍は兵力の三分の一近くを失った[61]。第9師団は、台北会議での第10方面軍の要望通り、フィリピンに転用された第10師団の代わりに台湾に配置されることとなり、そのまま終戦を迎えることとなった[62]

このような配置転換の最中に沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故が発生し、多くの人命とともに大量の弾薬・物資を失う悲劇に見舞われている。

戦略持久作戦への転換

沖縄から台湾へ転出となった第9師団歩兵第35連隊の兵士

第9師団の台湾抽出により、第32軍は大幅な作戦変更を迫られる事となった。八原は、戦力補充はあてにせず現兵力をもって最善を尽くす方針で4つの作戦案を提案し、第32軍司令部はその中から、現有戦力に最も適した地形となる沖縄本島南部島尻地区に主防御陣地を構築し、持久戦術を取る作戦案を採用した[63]。今までの機動決戦方針を断念して本島南部での持久戦を行う作戦計画で、本島中部に配置されていた第24師団を南部に移動し、北部・中部の飛行場は小部隊による遅滞防御と砲撃による利用妨害程度にとどめることを決めた[50]。第32軍は度重なる作戦変更や兵力の増減により何度も部隊配備が変更になっており、その度に陣地の再構築を余儀なくされたが[注釈 6]、この作戦案に基づき1944年(昭和19年)11月末から12月上旬にかけて行った再配備に伴う陣地構築が最終形となった[65]。作戦変更により、本島中部に位置する北・中飛行場は主陣地外となり、実質的に防衛を放棄している状況になった[66]

大本営では、1944年12月、大本営陸軍部(参謀本部)作戦部長に宮崎周一中将が就任したが、この時にはアメリカ軍を中心としたレイテ島の戦いで日本軍は敗北し、ルソン島の戦いの最中でフィリピンの日本軍の敗勢は明らかで、宮崎は不眠不休で「本土決戦方針」の新作戦計画を作成すると、その新作戦案が基礎となった『帝国陸海軍作戦計画大綱』が陸海軍で決定されて、1945年1月19日に陸軍梅津美治郎参謀総長と海軍及川古志郎軍令部総長が列立奏上した[67]

その頃に、台北会議で服部が持っていた第9師団の代わりの第84師団(姫路)の沖縄派遣という腹案は、宮崎中将の前任の真田穣一郎作戦部長を通して梅津の裁可を受けて上奏も終えており、1945年1月22日に第32軍に内示された。この内示を受けた第32軍幕僚らには久々の笑声が湧いた[68]。しかし、その内示を知った宮崎は梅津を訪ねるとすぐに第84師団の派遣を中止すべしと強硬に進言した。梅津は一度上奏までした派遣を中止するという前例はなかったため当惑したが、宮崎はさらに「沖縄への海上輸送はもう無理です。1兵たりとも惜しむべき本土防衛の戦力を、今ここで海没の犠牲にすることは、自分の理性が許しません。」と進言し、梅津は沈思黙考の上で宮崎の進言を受け入れた。これは梅津を含め日本軍の最高首脳部にも、本土決戦以外に道はないという考えが浸透していたことによるものと思われる[69]。その後に、宮崎が服部に第84師団派遣中止を告げると、それを聞いた服部の部下の作戦第2課の沖縄方面担当参謀の羽場安信少佐が、血相を変えて梅津の部屋に飛び込み「沖縄の1個師団は本土の2,3個師団に相当する、もう現地に内示している、海上輸送が危険と言っても全部はやられない、1/3の損害は覚悟している。」と激しく詰め寄ったが、梅津は派遣中止の決定を撤回することはなかった。その後、羽場は宮崎にも激しく意見したが、宮崎は羽場をいなすだけであった[70]

第32軍にも、第84師団増派による作戦計画を考える間もなく1月22日の夜には派遣中止の電報が入った。この経緯から第32軍は大本営に不信感を抱き、その後の作戦に支障をきたした[71]。この後、第10方面軍参謀長諫山春樹中将が沖縄を訪れ、八原ら参謀に「今後、第32軍には増兵はされない。比島方面に輸送できなくなった軍需品を第32軍に与える。」と第10方面軍内での武器・弾薬の補給を約束した後で「大本営は本土決戦準備に熱中しており、我々は現有の戦力で戦うだけである。」と軍中央の状況を説明した。結局、最後まで第32軍には軍中央から制式に本土決戦方針の企図が示されることはなく、諌山らから間接的に聞いただけであった[72]

『帝国陸海軍作戦計画大綱』によれば「南千島、小笠原諸島(硫黄島ヲ含ム)沖縄本島以南ノ南西諸島、台湾及上海附近」を「皇土防衛ノ為、縦深作戦遂行上ノ前縁」と位置づけ「右前縁地帯ノ一部ニ於テ状況真ニ止ムヲ得ズ敵ノ上陸ヲ見ル場合ニ於テモ極力敵ノ出血消耗ヲ図リ且敵航空基盤造成ヲ妨害ス」としており、沖縄は硫黄島などと同様に、日本本土の前縁として敵の出血・消耗を強いる防波堤と想定していた。沖縄戦における日本軍の作戦は、これを以て「捨て石作戦」と呼ばれている。[73][注釈 7]

一方、海軍は天一号作戦を定めて、沖縄へ来攻する連合国軍を航空戦力主体で迎撃して大打撃を与え、有利な講和をもちかける一撃講和を考えていた[29]。そのため、大本営は飛行場確保を重視して第32軍に作戦変更を要求したが、第32軍は応じないまま連合国軍を迎えることになった[29]

日本軍の戦力状況

砲爆撃に耐えるため洞窟内に放列布置した独立重砲兵第100大隊の八九式十五糎加農。重加農の長所を活かし、アメリカ軍占領後の中飛行場(現嘉手納飛行場)に対しても妨害砲撃を行うなど、約2ヶ月間に渡り活躍した

沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人とされるが、日本本土から戦闘部隊として派遣されたのはその中で50,000名に過ぎなかった。他に海軍陸戦隊で実際に武器の操作ができるのが3,000名、軍の後方部隊が20,000名であり、残りの約35,000名が防衛召集された沖縄県民だった[1]

第32軍は戦力不足を補うため、自力戦力増強として同じく地上戦が行われた南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、満洲などと同様に、戦闘員としても住民を根こそぎ動員した。沖縄県民の17歳以上45歳未満の男子を召集して、第32軍の各部隊や「防衛隊」と俗称される補助兵力に編入したが、沖縄からは既に30,000名が召集され沖縄県外の部隊に従軍しており、合計65,000名が兵士として召集されたこととなり、青年男子無しと言っても過言ではない状況となった[1]

他に旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊白梅学徒隊なども組織され、その数は2,000名以上にも達している[75]。(現地住民の戦闘協力の詳細は#住民の戦争参加を参照)

本島守備隊の主力は、関東軍から転用された第24師団であった。前述の通り、第32軍の選定により沖縄に残存した部隊で、台湾に転用された第9師団と比較すると強力な師団砲兵を有していたことが[注釈 8]、大きな選定理由となっていた[59]。もうひとつの本島所在師団である第62師団は師団砲兵を欠いた本来は警備用の編制であったが、大陸打通作戦に参加したことにより、実戦経験豊富な精強な戦闘部隊となっていた[76]独立混成第44旅団は輸送船の撃沈で大損害を受けた部隊で、補充のため一〇〇式輸送機で空輸された独立混成第15連隊を受け取っていた。機甲部隊は30両に満たない戦車第27連隊があるだけだった。兵站部隊や船舶部隊も地上戦闘用に使うため6個の特設連隊として再編されている。また、八原は牛島に軍司令部要員などの冗員を第一線に回すよう進言している[77]。このように第一線の戦力の強化が進められたが、当時の第32軍の評価で真の陸戦兵力といえるのは約4万人に過ぎなかった[78]

第32軍の歩兵戦力が戦力不足だったのに対し、砲兵戦力は当時の日本軍としては極めて充実していた。第5砲兵司令部指揮下だけで400門以上の火砲を擁すほか、砲兵師団1個と独立混成旅団砲兵隊および戦車第27連隊の機動砲兵、また歩兵部隊中の歩兵砲があった。生産力や補給力に劣る当時の日本軍において、このような大量の火砲が投入されたのは第1砲兵隊が投入された緒戦の一連の南方作戦香港の戦いシンガポールの戦いフィリピンの戦い(コレヒドール島砲撃戦)等)や、硫黄島の戦い等に限られる。アメリカ陸軍の公式戦史も、沖縄の日本軍について従前の日本軍と大きく異なる点として、日本軍相手では経験したことがない多数の火砲とその効果的な運用を指摘している[79]。アメリカ軍は戦訓広報誌「Intelligence Bulletin」において「日本軍が過去10年にわたって準備してきた沖縄防衛作戦は、那覇首里与那原防衛線強化のために用いられた火力支援の質、量の面で卓越したものであった。沖縄の日本軍砲兵は、連合軍が太平洋戦線で遭遇したなかでもっとも有効であった。」と評価していたが、実際には沖縄の防衛作戦が真剣に検討され準備を始めたのは、第32軍が沖縄に配置された1944年2月で、持久作戦に方針転換したのは第9師団が転出となった1944年末以降のことであり、10年ではなくわずか半年足らずの準備であった[80]

特に日本軍火砲が効果を挙げた「シュガーローフの戦い」においては、アメリカ海兵隊員は「やつら(日本軍)は牛乳瓶の中にでも弾を撃ち込むことができた」とその正確性に驚愕し、後に編纂された第6海兵師団の戦史では「日本軍の砲撃はこれまで出会った事が無いほど、優れた統制と正確さの下で実施された」と纏められている[81]。ある時には観測地点で敵情観察中のアメリカ海兵隊将校らのど真ん中に砲撃を命中させ、大隊長と戦車隊将校ら5名を戦死させ、中隊長3名に重傷を負わせるといった正確性を発揮している[82]

八原博通第32軍高級参謀の「寝技戦法」について

伊江城山の日本軍陣地、各砲座や銃座は地下坑道や壕で結ばれ、山全体が要塞化されている状況が記載されている。この様な要塞が至る所に構築された。
日本軍の構築した反斜面陣地。手前に見える洞窟が反対斜面に築かれた洞窟陣地

大本営陸軍部は、1944年(昭和19年)8月19日に、アメリカ軍を相手にしたサイパン島の戦いグアムの戦いの戦訓を十分に取り入れ作成した「島嶼守備要領」を太平洋各地の島嶼守備隊に指示している。同要領では特に、アメリカ軍の猛烈な砲爆撃に対抗できる陣地の選定要領や戦闘要領が強調されていた[83]。 また、大本営陸軍部第一課が前線からの報告を纏め編纂した「戦訓報」でも、サイパンの失敗と対策やペリリュー島の戦いの善戦は各部隊に伝えられており、沖縄戦に先立つ硫黄島の戦いでは戦訓を活かして坑道陣地による持久戦術を徹底し、アメリカ軍を苦戦させている[84]

八原の作戦計画も「島嶼守備要領」に沿うものであり、硫黄島と同様に戦訓を十分活かすべく、アメリカ軍やイギリス軍による砲爆撃対策として強固な陣地作りに心血を注いでいる[85]。八原は講道館柔道家がアメリカの屈強なボクサーを相手に異種試合をしたときに、柔道家は終始寝技でボクサーの強烈なパンチを封殺し、遂に快勝したという講談からヒントを得ており、この作戦を『寝技戦法』と自ら称した[86]。 寝技戦法の中心は築城であり、連合国軍艦艇の艦砲射撃や1トン爆弾などの強烈なパンチがあっても、それを跳ね返す堅固な築城があれば、敵の物量を無価値にできると考え、戦車も対戦車築城を徹底させれば恐れるに足らずとも考えた[87]。 八原参謀は「不可能を可能にする唯一の道は強固な築城であり、洞窟戦法である。」との『寝技戦法』の基本方針を記した「必勝の途」というパンフレットを作り全軍に布告し、全将兵に徹底した築城を命じた[87]

沖縄戦でアメリカ軍を苦しめた八九式重擲弾筒(手前と中央の兵士が擲弾筒手、写真はマレー作戦のもの)

対するアメリカ軍は、猛烈な砲撃で日本軍の反撃を封殺し、日本軍陣地の頂上に這い上がった歩兵が、日本軍陣地に黄燐弾を投げ込み、爆雷を投下し、ガソリンを流し込んで皆殺しにする『トーチ&バーナー戦術』で日本軍陣地を一つ一つ壊滅させていった。この対抗策として日本軍は、頂上を占拠された日本軍陣地に、隣接する友軍陣地の機関銃、擲弾筒、野砲で集中攻撃して、逃げ場のないアメリカ歩兵を殲滅する戦法で対抗した。これは、占拠された自軍の陣地をまな板のように見立てていることから『まな板戦法』と呼ばれたが、この戦法でもっとも猛威をふるったのが日本軍の擲弾筒であった[88]。擲弾筒は沖縄戦でアメリカ軍兵士がもっとも恐れた兵器の一つで、前線で戦ったアメリカ軍兵士の評価は「それ(擲弾筒)はあらゆる兵器のなかでもっとも猛威をふるった」「擲弾筒の弾丸の飛んでくる音は目標となっている者には聞こえず、聞こえたときには手遅れだった。非常に大きな損害をこうむったものだ」「その砲弾をアメリカ軍の頭上に落下させることができたし、それほど弾着が正確でとくに嫌われていた」であった。歩兵第22連隊第1大隊(大隊長小城正大尉)は特に擲弾筒を有効活用してアメリカ軍を苦しめており、日本軍は通常は小隊ごとに4筒の擲弾筒を配備して使用していたが、小城は合計36筒の擲弾筒を大隊直轄として集中使用した。アメリカ軍は、攻撃部隊の中・小隊に集中砲撃を浴びせたこの小城の戦法を「異例なほど効果的なやり方」と評価している[89]

陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は、固くてツルハシも通らないような隆起珊瑚礁と柔らかい泥灰岩や砂岩で広く覆われており、それら地層をうまく活用して陣地が構築された。陣地構築については第32軍兵士の他、多くの沖縄県民も動員された[90]。それで完成した隆起珊瑚礁の陣地は、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[91]

実際に日本軍の陣地と対峙したアメリカ軍は、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、この沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられている。砲爆撃に耐える堅牢さだけでなく、陣地は網の目の様な地下坑道で連結されて地下移動による補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできるなど巧妙な設計となっていた。出入り口は擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[92]。 アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「小ジークフリート線」や[93]「常軌を逸して防衛された陣地」と評している[94]。海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した[95]

シュガーローフの戦いで威力を発揮した『反斜面陣地』も多く構築されている。『反斜面陣地』とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった[96]。シュガーローフでは、巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった[97]

第32軍司令部も首里城地下に構築された。八原は司令部構築に莫大な労力と資材を投入することに反対したが、参謀長の長の強い主張により構築が決定された。多数の市民と沖縄師範学校生徒の協力により、総延長1,000m以上、深さ15m~35mで、戦艦の艦砲射撃や爆撃機の1トン爆弾に耐えられる構造の洞窟軍司令部が連合軍上陸直前の3月中旬に完成した。後にこの司令部は首里戦線の核心となり、防衛戦の要となったことから、八原は長の軍司令部構築の判断に敬服している[98]

連合国軍の戦略

アメリカ軍の沖縄上陸作戦計画図
十・十空襲に遭う那覇市街

連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた[99]。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた[99]。他方、連合国軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。

1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた[100]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway 日本語で土手道のこと) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官には、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍サイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[101]

ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた[102]。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した[102]。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾より日本本土に近い小笠原諸島や沖縄本島がその拠点に相応しいと考え、南太平洋地域陸軍司令官且つ第20空軍の副司令官ミラード・F・ハーモン英語版中将がコーズウェイ作戦を中止し、小笠原諸島や沖縄本島を攻略目標とすることを提案し、コーズウェイ作戦の指揮官に内定していたバックナーも、南太平洋地域での補給部隊と支援部隊の不足を理由にハーモンの意見に同調した。陸軍の意見にアーネスト・キング海軍作戦部長も同意し、1944年10月2日にルソン島、小笠原ついで沖縄の順で攻略することが決定した[103]。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった[104]。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[105]。バックナーと沖縄攻略を主張したハーモンは、アメリカ軍が硫黄島に上陸した直後の1945年2月26日に、沖縄攻略を含む今後の太平洋方面の戦略を協議するため、グアムからハワイに向かう途中に搭乗していたB-24が墜落して行方不明となり、沖縄上陸を見ることなく死亡と認定された[106][107]

さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合国軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。1944年10月10日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とした機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった[108]ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還という大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた[109]

沖縄戦で上陸部隊を支援した第38任務部隊。手前が空母「エセックス」、奥が戦艦「ワシントン

1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画からはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[110]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団であった[111]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[112]

装備についても、陣地攻撃に絶大な威力を発揮してきた火炎放射器装備のM4中戦車の射程・火力強化型、暗視スコープ付きの狙撃銃近接信管の野砲砲弾、対砲兵の音波探知機、M18 57mm無反動砲M20 75mm無反動砲M2 107mm迫撃砲などの新型兵器が多数配備された[113]。アメリカの軍需産業はフル回転しており、軍事資材の面では全く懸念はなかった。従って第10軍は装備、士気、練度、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と見られていた[114]

これらの部隊を沖縄に上陸させるため、アメリカ軍は太平洋戦争で最大規模の水陸両用作戦を準備した。沖縄攻略の為の統合遠征部隊は艦船1,213隻と支援艦載機564機で編成されていた。この部隊を第58任務部隊の高速空母部隊82隻、艦載機919機とイギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機が支援した。他にも第21爆撃集団極東航空軍も直接支援を行った[115]。最大の問題はこれらの大部隊を養うだけの大量の物資を絶え間なく輸送する必要があることで、まずは当面の740,000トンもの物資をアメリカ本国やハワイなどから、沖縄上陸40日前から21回の輸送で、前線基地のあるレイテ島ウルシー環礁マリアナ諸島に輸送された。その中には収容を見込んでいる沖縄の民間人の食糧として、米や大豆や魚の缶詰など70,000人分の食糧も含まれていた[116]

ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している[117]。実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた[118]

アメリカ軍情報部は沖縄本島の日本軍の兵力を55,000人~65,000人、大口径火砲198門と推定しており、沖縄攻略作戦は1カ月前後の短期作戦と想定していたが、この戦力推定は大きく誤っており、迅速な勝利の希望はたちまちしぼんでいった[119]


注釈

  1. ^ アメリカ軍の基準(現NATO基準)では負傷が原因で後日死亡した兵士、戦闘期間中であるが事故や病気で死亡した兵士は含まれない[11][12]
  2. ^ 本土決戦は1945年(昭和20年)1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に同年後半を想定して決戦準備がなされていた。
  3. ^ 日本語の呼称「鉄の暴風」は、1950年(昭和25年)に刊行された沖縄タイムス社編『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
  4. ^ アメリカ軍の戦死者が12,520人という資料があるが[13] これはアメリカ軍の基準(現NATO基準)で、「即死、または医療施設への到着前に負傷が原因となり死亡した、戦闘犠牲者」と定義されているため、負傷が原因で後日死亡した兵士、戦闘期間中であるが事故や病気で死亡した兵士は含まれていない[11][35]
  5. ^ 最低では8,607人説もあり[36]
  6. ^ 独立混成第15連隊は1944年7月に沖縄に到着以来、12月までに7度も配置変更になっている[64]
  7. ^ もともとは、沖縄守備軍長勇参謀長が、八原博通高級参謀や諫山春樹台湾第10方面軍参謀長の前で、台湾や沖縄の島嶼守備軍を評して「われわれは結局本土決戦のための捨て石部隊なのだ。尽くすべきを尽くして玉砕するのほかはない。」と言ったとされる[74] など、日本軍将校達が、大本営の沖縄戦での作戦指導や自らの置かれた立場を表して「捨て石」と言ったことに由来する。
  8. ^ 第9師団の砲兵部隊が75mm山砲36門の装備に対し、第24師団の砲兵部隊は15cm榴弾砲12門、10cm榴弾砲16門、75mm野砲8門であった。
  9. ^ 甲号戦備とは敵の上陸攻撃あれば、直ちに戦闘ができる体制のこと。
  10. ^ アメリカ軍公式記録では機雷による沈没となっているが、戦後しばらく経ってからの調査で甲標的丙型の雷撃による撃沈の可能性も高い事が判明した[130]
  11. ^ 奇しくも誠飛行隊の隊長伊舎堂用久大尉は、同隊が出撃した石垣島の出身で、かねてより故郷を護るために真っ先に出撃する覚悟を決めており[135]、父母の眼前で特攻出撃することとなった[136]
  12. ^ 「インディアナポリス」はこの損害の修理の為にアメリカ本土に曳航され、修理完了後前線に復帰する際、原爆輸送の極秘任務をこなし、原爆を揚陸後に日本海軍の潜水艦「伊58」に撃沈された。
  13. ^ 幕僚会議を主催したのは長参謀長であるが、長個人としては内心反対であり、牛島司令官の攻勢意図や上級司令部に対する体面を察して職責上やむなく方針を変えたとする見方もある[152]
  14. ^ 日本軍推計では4月21日までに艦砲13万発、敵機来襲延べ14,000機に及ぶ[193]
  15. ^ 日本軍が「馬乗り戦法」と名付け恐れた戦術であり、まずは日本軍陣地の出入り口を見つけると、戦車の支援と激しい集中射撃で日本軍を陣地の中に追い込み、歩兵が通気口を見つけそこからガソリンやナパームジェルを流し込むか、壕入口から火炎放射器で攻撃し、火炎で日本兵を弱体化させた後、最後に大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすといった、圧倒的物量を誇るアメリカ軍ならではの戦法であった[194]
  16. ^ バックナーは、父親も南北戦争で南軍の将軍として従事した軍人家系の家に生まれ、その厳格な性格はウェストポイント陸軍士官学校校長時代から定評があり、圧倒的物量により正面突破する戦術を好んだ[208]
  17. ^ その形状から、皿にもったチョコレートドロップに見える事から、アメリカ兵にチョコレート・ドロップと名付けられた。
  18. ^ 攻撃前にはアメリカ海軍はかつてない規模で、念入りに膨大な量の艦砲射撃を加えた為、兵士たちはこの山を「100万ドルの山」と呼んでいた[265]
  19. ^ アメリカ軍は小祿での海軍部隊の激しかった抵抗を「(装備・訓練が足りず勝利の見込みもないが)アメリカ軍に高い犠牲を払わせるために自陣を死守するという強い意志を持っていた敵軍の物語」と抒情的に表現している[281]
  20. ^ バックナーの牛島に対する投降勧告は、士官学校の校長経験という共通の経歴も踏まえた内容であり、「閣下の率いる軍隊は、勇敢に闘い、善戦しました。歩兵の戦略は、閣下の敵であるアメリカ軍から、ひとしく尊敬されるところであります。閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験を積まれた立派な歩兵の将軍であります。従って、本官が察するところ閣下もすでにご存じのことと思いますが、全日本軍がこの島で壊滅することは、いまや既に時間の問題であります。」というものであった[313]
  21. ^ 八原は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも再び来島することはなかった。
  22. ^ 沖縄戦の降伏文書には、リーガル版の厚手の用紙が使用されており、米軍側は青インクで署名をしている[351]
  23. ^ 1944年8月31日、第32軍牛島司令官は「軍民一体の戦闘協力」について「現地自活ニ徹スヘシ」、「現地ノ物資ヲ活用シ一木一草ト雖モ之ヲ戦力化スヘシ」と訓示している[353]
  24. ^ 婦人雑誌にも「一億一人残らず忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となって敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」との文字が躍っていた[354]
  25. ^ この長参謀長の新聞談話には、「戦闘激化で食料供給が滞った場合に、住民が餓死するからと軍に食料を求めても軍は応じられない」旨を述べた部分もあったが、特高警察の検閲で一部伏字にされている[358]
  26. ^ ただし、戦時遭難船舶遺族連合会によれば、32隻という遭難船舶数は疎開船に限らず、沖縄県民が乗船中にアメリカ軍の攻撃で犠牲になった船舶の数であり、トラック島空襲で民間人乗船中に沈んだ「赤城丸」や疎開開始前に沖縄定期航路で沈んだ貨客船「湖南丸」「宮古丸」などを含んでいる[371]
  27. ^ バルジの戦いのアメリカ軍人的損失には諸説あるが76,000人~81,000人、ただしこの中には20,000人弱の捕虜を含む[36][458]
  28. ^ ヘンリー・スティムソン陸軍長官の依頼でウィリアム・ショックレー博士らのシンクタンクが行った試算[461]
  29. ^ 富山丸沈没により撤収。一部残余は第2歩兵隊に編入
  30. ^ 旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。
  31. ^ 加えて1945年3月初旬より850名を現地から防衛召集)
  32. ^ 戦車第2師団師団捜索隊を改編し、1944年7月に第32軍編入。1個中隊は宮古島。

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